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真朱マロ

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真琴

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 そんなある日の事。

 階下の倉庫へ書類を運ぶため、エレベーターより早いから階段を下りていた。
 階段は使う人間が少ないので、挨拶や近況報告など、すれ違いのわずらわしさもないし。
 そう思う人間は俺だけではなかったらしい。

 軽快な足音が上がってくるなと思って目をやると、真琴だった。
 こうして近くで見るのは久しぶりで、思わず目を細めてしまった。
 真琴も驚いた顔をしたけど、いつものように爽やかに笑った。

「お疲れ様です、資料整理ですか?」

 ああ、とあいまいに俺はうなずいた。
 真琴の様子があんまり普通どおりだったから、途方にくれていたのかもしれない。
 これきりと別れた日の聖母みたいな微笑みはどこにもなくて、サクサクと仕事に向かう爽やかな笑顔だったからよけいにだ。
 日常で離れている分、真琴についてあれこれ想像している部分が多すぎて、現実に対処できなかった。

「? 大丈夫ですか? なんだか疲れてるみたい」
 ボーっとしている俺に、真琴が心配そうに問いかけてくるので、ハッと正気に戻った。
「ああ、まぁなんともない」

 こんな言い方じゃ納得しないだろうな、と思ったけれど、そう答えるしかなかった。
 なんでもない調子を装うために、問いかけてみる。

「少しは新しい部署に慣れたか?」

 ええ、とハツラツと真琴は笑った。
 あいかわらずの晴れやかな調子だが、瞳をキラキラさせている。
 もともと辛いことがあっても平気な顔を作っていそうな性格だが、この表情だと本当に充実している気がした。

「はい。凛子先輩にはまだまだ迷惑をかけっぱなしですけど、新人は私だけじゃないし、チームだから一緒に進めていけば平気だって慰めてもらってます」

 そうか、と言いたかったけれど、新人と聞いてイラッとした。
 凛子と一緒に動くなら、あの犬みたいな圭吾も同じチームのはずだ。

 それはむかつく。
 仕方ないこととはいえ、腹立たしいのは何故だ?

「経理と違って、人間関係には恵まれてるのかもな」
 なんでもない顔を作れなくてトゲのある言い方だったから、真琴は眼をパチパチと瞬いた。
「経理でもよくしてもらったから、あまり差はないけど……佐竹さんと凛子先輩、面倒見の良さって似てますし」

 ここで凛子の名前を出されるとは。
 確かに凛子は仕事ができるし、俺なんかと違って後輩の教育も上手い。
 だけど真琴の口から俺の元彼女の名前など聞きたくないし、信頼を預けている様子が気に触るから更にいら立った。

「似てない。あんなのと一緒にするな」
「親切ですよ? ちゃんとフォローありますし。二人とも、スパルタだけど。圭吾がしごかれてるところなんて、私が佐竹さんに怒鳴られてた時とそっくり」

 ホントに怒りどころ満載で凛子先輩も困っちゃうでしょうね、なんて笑いながら楽しそうに話すものだから、思わずカチンとくる。
 だから、その名前は二つとも俺の前では禁句だぞ。
 言葉にして言ったことはないけれど、表情だけでなく態度にも露骨に出してるから悟ってくれ。

「経理から離れて、そんなに楽しいか?」
「そ……そんなの、佐竹さんには関係ないでしょう?」
「ああ、関係ないな」

 プイと真琴が子供みたいにすねて横を向くから、俺も同じように横を向いた。
 何言ってんだ、俺?

 急な人事異動だから一番戸惑ったのは真琴だろうし、平社員だから指示されたら従うことしかできず、拒否権すらないのに。
 返答に困る気持ちはわかるし、こんなふうにからむ俺の方が大人気ないのはわかっている。

 だけど、妙な方向にスイッチが入って、修正が効かなくなっていた。
 ホントはこんなことが言いたい訳じゃないのに、どうもいけない。
 ただ、俺の棘のある態度は圭吾の名前がきっかけだったから、真琴も平静を保てなかったようだ。
 いつになくきつい言葉が返ってくる。

「気にしなくても、あの事は誰にも言いふらしたりしません。大人の付き合いの意味ぐらい、私でもわかりますから」
「気にするわけがないだろう。たかが二回寝ただけで、他の奴に知られたとしても、何か変わるのか?」

 しまった、言いすぎた。と思ったときは遅かった。
 サッと真琴の顔色が蒼白になっていき、凍りついていく空気に俺は狼狽した。

 反射的にはじくにしても、きつく最悪の言い方だった。
 いきなり大人の付き合いなんて単語が出たものだから、過剰に反応してしまった。
 いつもの調子で口が勝手に動いて、心にもない切り捨て方をしてしまった。

 いくらなんでもあんまりな台詞だと思ったけれど、言ってしまった言葉は消せはしない。
 下手な弁解でもいい。何か言わなくてはと気ばかり焦るが、悪態ならいくらでもつけるのに、こんなときは口が思うように動いてくれない。
 そうこうしているうちに、絞り出すような声が真琴から、苦しげに吐き出された。

「……なんて……」

 うつむいた真琴は両手を握りしめ、その拳がブルブルと小さく震えていた。
 思いきり力が入っているのか、握りしめた指の関節が白くなっている。

「……たかが、なんて言わないで……」

 真琴は顔をあげた。
 そして、まっすぐに俺を見る。
 いつもは涼しげな眼もとから、涙の粒が盛り上がり、スーッと頬を伝ってこぼれ落ちていく。

「佐竹さんにとってはなんでもないことかもしれないけど、好きでシタのを、たかが、なんて言わないで。あんな風に優しく抱いて、何も変わらないって、なに、それ?」

 感情が高ぶっているのか、声がかすれていた。
 
「……真琴……」
「他の人には何を言われてもかまわないし、ほめられないことだってわかってるけど……私は佐竹さんが好きだからシタの。それを、たかが、なんて言われたくない!」

 叩きつけるように叫んだ真琴の両眼から、透明な涙がこぼれ落ちる。

 その通りだ。
 最初からわかっていた。
 真琴に割り切った関係なんてできる訳がない。

「変わればいいって思ってたけど……そんなに私の期待は、気持ち悪いですか?」

 思わず漏れだした本音そのままに、とめどなく涙があふれ落ちていく。

 耳が痛い。
 震えながら紡がれていく真琴の痛い言葉に、俺はただぼうぜんと立ち尽くすしかなかった。

 肌を合わせたのは、ほんの二晩かもしれない。
 だけど、俺は真琴の気持ちを痛いほど感じていた。

 真琴が向けてくる想いはどこまでもまっすぐで、側にいるだけで癒された。
 俺自身も都合のいい仲だと割り切れないほど、丁寧に扱ってしまった。

 認めたくはないが、気持ちごと抱きしめたいと思ったから。
 愛しいと伝えるようなキスをして。
 やわらかく慈しむように抱きしめて。
 優しい声で名前を呼んで。

 涙がおさまるまで、そっと寄り添って。
 心までつながりたいと、ほのかに願いながら抱いたのだ。
 
 それなのに、関係ないって……真琴が惑うのも当然だ。
 真琴の非難がもっともすぎて、反論の余地もなかった。

「佐竹さんは卑怯です。私の気持ちを知っていて、利用しておいて、好きも言わせてくれないくせに」

 そう。確かな言葉にされなくても真琴の気持ちが伝わってくるから、必要以上に近づくのが怖くて、好きだと言う隙さえ与えていない。

 期待するな、とか。
 関係ない、とか。
 妬いてない、とか。
 勘違いするな、とか。

 真琴はいつも笑って受け流しているから、気にしていないと勘違いして、ひどいことを言った。
 もちろん俺は怖くて逃げたかっただけだから、本心からの言葉じゃないけれど。
 そう受け取られても仕方ないほどの、ぞんざいな強さで切り捨ててきた。

 俺は、バカだ。
 自分の気持ちを認めるのが嫌で、反射的にはじいた言葉を吐きだしたことで、大きく真琴を傷つけていたことに、今更気がつくなんて。

 涙でぬれた瞳がまっすぐに俺を責めるので、俺は眼をそらすこともできなかった。
 すまないと言うこともできなかった。
 手を伸ばして、抱きしめてやることもできなかった。

 ただ、凍りついたまま動きを止め、見つめることしかできなかった。

 ハァッと大きな息を吐いて、真琴は右手の甲でグイと涙を拭いた。
 紅くなった目元を隠しもせず、俺をそのままにらみつける。
 今まで見たこともない、硬い表情だった。
 グッと唇を引き結び、気持ちごと振り切るように俺の横をすり抜けて階段を数段あがり、ふと振り向いた。

「春菜って、誰ですか?」

 どうしてその名を?
 激しく動揺する俺を、キッと真琴はにらみつけた。

「佐竹さんなんて、大嫌い!」

 冷たい声だった。
 本気で決別する冷たさで、俺の心を凍りつかせる。
 
 走り去った真琴を、俺は追いかけることができなかった。
 取り返しがつかないことを言った。
 謝ることもできないほど、傷つけてしまった。

 いや、謝ることはできるし、もしかしたら真琴も許してくれるかもしれない。

 だが、俺が俺自身を許せないのだ。
 やわらかく微笑んですべて許そうとしていた真琴に、ここまで辛い台詞を言わせてしまった不実さが痛い。

 泣かせるのではなく、どうせなら笑った顔が見たいのに、俺は大きな過ちを犯した。
 全てが悪い夢のようだ。

 それなのに。
 ここまで切羽詰まっても、真琴と正面から向き合うのが俺は怖かった。
 今、追いかければ何かが変わるかもしれないのに。

 勇気を出して向き合う努力をして、それでもはじかれてつながりが途切れるのが怖い。
 運よく関係が修復できたとしても、幸福な時間が続くとは限らない。

 春菜を亡くした時のような気持を味わいたくないから、この先どうしたい? の問いに、未来ある答えを出したくない。
 最初から、逃げることを結論付けているなんて。
 
 臆病な上に卑怯者だと罵られてもいい。
 俺は、どこまでも最低の人間なのだ。
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