カカオ55%

真朱マロ

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空虚

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 幸せはつかめない。
 大切な時間すら、すぎて流れてゆく。
 大事にしたいものほど簡単に壊れてしまう。

 そんなことは痛いほど知っていた。
 春菜との未来が、一瞬で消えてしまったように。

 積み重ねた時間も、これからを思い描いたたくさんの約束も、しだいにただの記憶となってしまう。
 ただ、記憶が色あせることはないけれど、想い出の詳細はゆっくりと時間に溶けて、より鮮明に愛しい部分だけを浮き上がらせていく気がする。
 そう。時間薬という言葉があるけれど、二度と訪れない大切な時間を何度も反芻することで、より鮮明な想いが胸に焼きつくのだ。

 会えなくなって久しいのに、春菜の面影は少しも色あせていない。
 振り返った時に驚いて、少し目を見開いてから照れ臭そうに広がっていく微笑みとか。
 抱き寄せた時に、顔を見ないでと恥ずかしがって、俺の胸にすがる仕草とか。

 優しくはにかんだり、すねて唇を軽くとがらしたり、そんな些細なことが俺の記憶を揺らしている。
 すでに細かな情景が記憶に溶けて流れているから、なおさら儚い夢物語みたいに俺の心まで愛しさで満たしているのだ。

 春菜が側にいたときは、春菜とも同僚とも友人とも、俺は確かに向き合えていた。
 他の奴なんてどうでもいい、関係ないから、なんて冗談でも言わなかった気がする。
 今の俺を春菜が見たら、ちゃんと生きていないと怒るだろうな。

 それでも、これでいいと思っていた。
 何気ない時間。何気ないしぐさ。何気ない表情。
 その全てが愛しくて、儚い。

 春菜がいない未来なんていらない、なんて。
 それほど愛情深い性質ではないのに、目の前で亡くしたからだろうか?
 春菜はすでにこの世にいなくて、永遠に触れあうことすらないけれど、俺の記憶の中では生きている。

 人の死は、二度あると聞いた。
 肉体の死と、遺された者の記憶からの消滅。

 その考え方は、小さな光だった。
 せめて俺の記憶の中で、一緒に過ごそうと決めていた遠い未来まで生きていてほしい。
 あの世が本当にあるのなら持っていけよ、俺の想いを全部、春菜に渡そう。

 そう思っていたのに。
 そよ風みたいに真琴が俺の中に入りこんでいた。

 愛とか恋とか、春菜に向けていたようなくっきりとした感情ではないけれど。
 とにかく認めるのはしゃくだけど、真琴が側にいるだけで心の針が動く。
 俺の中に新しい気持ちを生み出そうとする。

 生きていたら当然の感情だ、なんて俺は思わない。
 いい悪いではなく、今はまだ、春菜以外に心の針が動くのは違う気がする。

 理由なんてわからない。
 わかりたくないだけかもしれないが。

 近づくのも手放すのも嫌なんて、勝手なことを言っている。
 凛子が言っていたように、真琴が少し春菜に似ているからかもしれない。
 少女めいて小柄な春菜と、中性的で長身の真琴は、姿形が正反対だ。

 だけど、感性が似ている気がする。
 大切にしていることが近いのだ。

 寒い日に温かい飲み物を飲んで、ホッと息をつく瞬間とか。
 落ち込んでも、目が合うと平気なふりをするところとか。
 微笑むタイミングや、他人に対する気づかいや、フッと息を吐きだすきっかけとか、そんな小さなことが似ているのだ。

 もちろん、俺は二人を重ねたりしない。
 真琴は春菜とは違う人間だ。
 だからこそ、気持ちの揺れに戸惑うけれど。

 違うとか、似てないとか、同じ感性だとか、似ている仕草があるとか、真琴を思うだけで心の針がユラユラとフラフラと揺れ動いてしまう。
 理性では制御できない、感情の部分が揺れ動く。

 割り切れなくて、それがほろ苦くて、なのに引きつけられる。
 真琴の好きな五十五%のビターチョコのように。

 いつのまにか、俺の想いを二人が分け合っていた。
 俺の気持ちがわずかにはみ出した5%分の中途半端さで、春菜と真琴の間を行ったり来たりしている。
 真琴からのはっきりした「これきり」の言葉がなければ、俺の自己中心的な「大人の付き合い」なんて都合のいい深みにはまっていたかもしれない。

 実のところ、俺には抱いた時の真琴の涙の訳も、微笑んで許すその想いも、実のところ理解する事が出来ずにいる。
 自分自身の気持ちすら持て余しているから、複雑な女性心理などわかるはずもない。

 単純な言葉で示すことはできるけれど。
 俺のことが好きだから、だと思う。

 これだけ自分勝手な行動をとっておきながら、これきりと言われた朝に何度も振り返ってしまった俺なのに、視界から消えるまで真琴はずっと見送っていたから。

 やり直す、という言い方は変だけれど、もう一度と手を差し出すことはできるだろう。
 そんな淡い望みを抱いてしまいそうだ。

 だけど、真琴とは終わった。
 あの言葉で、けじめがついたことにする。
 これでいい。勝手な言い草だけどな。

 それに物理的にも、あっけない別離が訪れていた。
 これきりと言われた朝から、ほんの一週間程度で真琴の姿は経理から消えている。
 現在、営業に配属され新しく立ち上がったプロジェクト・チームの一員になっていた。
 凛子の冗談かと思っていたが、本当に引き抜かれたのだ。

 どんな手を使ったのかわからないが、人事にも介入できる凛子の決定権に恐れ入る。
 庶務から経理に来た真琴は、営業も初体験のはずだ。
 畑違いの未経験者をこんな半端な時期に引き抜くとは……異例の出来事なのは間違いない。
 
 凛子の奴、どんな裏技を使ったんだ?
 会社の上部にコネでもあるんだろうか?
 問いかけても鼻先で笑って答えないだろうが、こんな時には底の見えない女だと思う。

 凛子が率いるチームだと新規事業だから、資料を探そうにも参考になる過去の事案はないし、気まじめな性格の真琴は苦労するだろう。
 それでなくても新規事業は手間がかかるので、忙しく動き回っているはず。
 
 チームリーダーの凛子が活動的なので、同じチームの真琴と顔を合わせる暇がない。
 姿を見かけることすらほとんどないから、挨拶すらかわせない。

 部署が違うとこんなものだと、今更のように思い知った。
 まぁ、大人の付き合いなんて都合よく扱っておいて、スッパリ振られた後だから合わせる顔もないけどな。

 真琴が経理から消えただけなのに、心の中にポッカリと穴があいた気分だった。
 誰とも正面から向き合えない俺だけど、さすがに空虚感を味わっている。

 そう、これでいいと思いながらも、どこか空虚だった。
 会えなくなってから、ふとした瞬間に真琴の面影が浮かぶ。
 何気なく目をやって、真琴がいた机に別の人間が座っていることに戸惑いを覚える。

 どれだけ勝手なんだろう?
 我ながら、その馬鹿さ加減に笑うしかない。
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