風と狼

真朱マロ

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そのに シャナ

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 シャナは天涯孤独だった。
 村の近くで横倒しになった荷車の中で、やわらかな綿を敷かれた箱の中に赤子のシャナがいたらしい。
 持ち主らしき人の姿は見えず、遺骸も見つからなかったけれど、壊れた小さな荷車は増水した川べりに転がっていたそうだ。
 横転した衝撃で、親は川の中に落ちたのかもしれない。

 村の大人でも、想像することしかできなかった。
 だからシャナは、自身のルーツすら知らない。

 シャナを保護した村はそれなりに豊かだったが、孤児を養うような施設はなかった。
 黒髪に金の瞳は異端で、金茶の髪や緑の瞳を持つやわらかな色彩を持つ人で構成された村の中では、存在が浮く未来が目に見えていた。

 それに、赤子を育てられるような若夫婦も自分の子供で手いっぱいで、若夫婦の親世代も見ず知らずの子を育てられるほどの生活の余裕はなかった。
 どうしたものかと悩む村人の中で、ひとり手をあげたのが薬師のオババだった。

「あたしもいい歳だからね。あとを継ぐ者が必要だ。その子の出来が良いか悪いかは、育たないとわからないがね」

 薬師の知恵は貴重な財産なので、村人にもあっさり受け入れられた。
 むしろ薬師の数が増えるなら、諸手を上げて喜びたいぐらいの価値がある。

 もとより、オババも流れの薬師で、薬草の豊富な森を気に入り、今は亡き伴侶と共に、ふらりと居ついたさすらい人だった。
 仲睦まじい夫婦だったが子はなく、今では独り身となった孤独を紛らわすのに、赤子の存在は良いと判断された。
 こうしてシャナは、オババの元に引き取られた。

 すくすく育つシャナは、賢い子供だった。
 言葉の理解も早く、オババが教える文字もすぐに覚え、薬草や独走を見分ける目も持ち、知的な面は早熟といえた。

 けれど、シャナは感情の薄い子供だった。
 幼子特有の衝動や爆発を持たず、怒りもせず、笑いもしない。
 生理的に流す涙は持っていても、喜びや悲しみに流す涙はなかった。

 気持ちの変化は確かにあるし、表情はその感情で動くのに、どれもが薄いのだ。
 それが生まれつきのものか、親と別れた因果から来るものか、賢さの反動なのか、誰にもわからなかった。

 ただ、オババは知っていた。
 感情を知らない者は、上手に薬を扱えない。
 他人の心や痛みを認識できない者は、怪我や病気の本質を理解できない。
 上っ面の治療では、治る病も治りきらない。

 情緒の薄いシャナに、オババは根気よく教えた。
 そして村の者たちにも、人として関わりを増やすように働きかけた。

 気安さを知らない、どこか孤高のシャナに対して、村人たちもそういう気質の娘だと理解しながら、オババの望み通り丁寧に関わった。 
 そのかいあってか表情に出せずとも、胸の内に秘めるシャナの心は、豊かに育っていく。

 そして、とうとう訪れた永の別れに、止まらぬ涙を知った。
 亡くした夫の名を呼び息を引き取った穏やかな師に、シャナはほとばしる感情を抑えきれず泣いた。
 心の内を現すことの少ないシャナが、初めて声の枯れるまで泣いたのは、オババの亡くなった日だと村の誰もが知っていた。
 
 どこか孤高で近寄りがたいシャナは、オババが亡くなってからは大人の顔をするようになった。
 受け答えはしっかりしたものだし、患者に対する笑顔は安心を促すものだが、なにかが足りなかった。
 せっかく育った感情が、胸の内で凍るのではないかと、村人たちは心配する。
 会話は今まで通りに交わしても、ひどく孤独に見えた。

 微笑みをたたえても遠くを見る少女は、村に根を下ろし咲く花ではなく、吹き抜けて遠ざかる風に似ていた。
 
 そんな彼女が拾ってきた子狼に、当然ながら村人は困惑した。
 なにしろ、子供でも狼である。
 害をなす群れを駆除したばかりで、とても危険な猛獣だ。
 今は子犬のようにシャナの後ろをついて回っているが、大人になっても可愛いままとは限らない。
 
 しかし、ルヴァを駆除しろという声は上がらなかった。
 14歳を越えたシャナはもはや子供ではなく、若い女が一人で森をうろつけば何が起こるかわからない。

 成人は遠くとも、オババの優れた技や知識を、シャナは正確に受け継いでいた。
 それはただの薬師を越えた技量だったが、比べるもののいない僻地の村ではそうとは知られず、ただ唯一無二の財産として扱われる。
 知恵と技術を引き継ぐ者もなく、シャナに何かあれば、村は貴重な薬師を失ってしまう。
 狼だとしても懐くのならば、ルヴァの存在は村にとっても都合が良かった。

 それに、世話をするシャナの表情が、オババと暮らしていた時のように、やわらかく穏やかなものへと変化したのも良かった。
 村の広場にたまに訪れ、ルヴァとじゃれ合いながら地面を転がって遊び、たまに声をあげて笑うこともあった。

 子狼の世話をするシャナは無邪気さを得て、過ぎ去るだけの風ではなく、悪戯を喜ぶ春風のように朗らかだった。
 
 ルヴァはルヴァで、村人とは距離は取りつつも、人間に親近感を持っているようだった。
 さすがに村の子供たちが背に乗ろうとしたときは嫌がったが、木の棒を投げて追いかける遊びは付き合ったし、騒がしく近くで遊んでいれば興味深そうに見守っていた。
 森で迷子が出れば、探す村人を先導して幼子を見つけ出した。
 また、村に熊が近寄れば、先頭に立って村の男たちと共に戦いもした。
 
「ルヴァはすっかりこの村の一員だね」

 二年も経てば親愛を持って受け入れられた相棒の毛を、シャナは優しくなでてやる。
 ただの狼とは思えないほど人間の村になじむのは、ルヴァが特別に賢いからだろう。
 しゃべる事こそないが、人の言葉を理解しているようだった。

 しかし。
 どれほど懐こうと、狼は狼なのだ。

 ルヴァの匂いが付けば、馬や牛はひどく怯えるし、近寄れば恐慌状態になる。
 だからシャナが家畜の具合の悪さを診る前は、水を浴びて匂いを薄めた。
 村の広場までは行っても、ルヴァを民家に近づけさせたりもしない。
 共に暮らすためにも獣を越えず、村人と距離を詰めすぎることもなかった。

 村の一員でありながら、村の周りを巡る風のようにすごす一人と一頭。

 そして、日が暮れる頃。
 優しい村人たちに感謝しながら、村の端にある自分の家に寄り添いながら帰るのだった。

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