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初恋の部:愛莉

儚い時間1

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 規則正しい生活。
 そこに一番の問題があった。

 冬真先輩は昼に眠り始めたり、いらないと簡単に食事を抜いたり、妙な時間にお腹がすいたと騒いだり、とにかく気分で行動していた。

 最初は目が見えないせいかと思ったけれど、これが普通だと榊さんが教えてくれた。
 学校がある時はちゃんと活動時間が昼に固定されているけれど、休日はお話にならないらしい。
 昼夜逆転だけでも、非常に問題がある。

 朝ご飯を作って起こすと、本当に朝だ! と驚くぐらいだ。
 その奔放な態度には、あきれるしかなかった。

 猫に生まれるはずだったのに、間違えて人間になったのではないかしら?

 そんな感慨を抱いてしまうぐらいどうしようもない人なので、沈みがちな私の気分もまぎれた。
 だって、ちゃんと起きてとか、ごはんの時間だとか、口うるさく言う回数がとても多い。

 子供をしつけている気分だった。
 ちゃんとしてくださいねとたしなめていれば、その寂しい背中を抱きしめたくなったり、ずっと側にいるからと言いだしたくなる、揺れる自分を戒めることができた。

 ここは、私の居場所じゃない。
 ほんの少しでも、まともな感覚を先輩の中に残せたら、それでいい。

 だけど。
 それすらも当たり前になっていく。
 何気ない出来事が、静かに降り積もるようだ。

 それが、悲しかった。
 先輩の目が見えても見えなくても、私に残された時間はほんの少しだけ。
 遅くても、あさってにはここを出ていく。
 それどころか、もし明日の診察で先輩の目が見えたなら、そこで終わってしまうのに。

 そう。
 結局、私の素姓を先輩には絶対に教えないでほしいと、榊さんに頼んでいた。

 それから、今後の話は一切していない。
 診察がない日は、仕事帰りに様子を見に来てくれるので、少しだけホッとする。

 私が消えるタイミングを、榊さんも見計らっている。
 この不思議な共同生活を壊さないように、二人して細心の注意を払っていた。

 冬真先輩が、とても幸福そうに見えたから。

 平気なくせに「熱いからどうにかしてよ」なんて、コーヒー一杯でも甘える材料にしている。
 そんな姿を見ると、あとどれくらい側にいてあげられるかを考えてしまう。

 あと少し、もう少しだけと、祈りに似た気持ちで、先輩を見つめることしかできない。

 目が合うと、無言のまま榊さんは微笑んだ。
 説明しなくても全て見透かしている顔だったので、私も微笑み返しただけだ。
 私たちの微妙な空気に、見えない先輩だけがやきもきしていた。

「なに? 俺にもわかるように話してよ」
 なんて、榊さんにからんでいた。

「大人の話です」
「もう、やってらんないなぁ~俺だけのけものかよ」
 サラッと切り返されて、すねてソファーに寝転がる先輩に、私たちは声を立てて笑った。

 なんて愛しくて、やわらかな時間なんだろう。
 即席の家族みたいに、一緒にお茶を飲んだり、ごはんを食べたり、何気ないことでも笑いあっていた。

 このままずっと、続けばいいのに。

 フワリと浮かんだそんな思いを、すぐに打ち消す。
 儚い夢だから、終わりを惜しむだけだ。

 私のことなんて、先輩はすぐに忘れる。
 だけど、もうすぐこの生活が終わると自分に言い聞かせるたびに、どうしようもなく胸が痛むのだった。

🌸 🌸 🌸


 六日目の夕方に、天気が悪くなった。

 私の心を映したように、どしゃ降りだった。
 もっと最悪なことに、雷警報まで出ていた。

 私は雷が嫌いだった。
 あの、いつ鳴るかわからないゴロゴロや、間近でピカッと光って心臓に響く大気の揺れや、想像だけでも動けなくなるぐらい本当に苦手だった。

 最後の夜になるかもしれないから、本当は先輩に色々なことをしてあげたかった。
 だけど、それどころではなかった。
 早く早くと先輩を追いたてておおよその用事を済ませ、ブツブツと文句を言っていることも聞かずに、さっさと寝る体制を作り上げる。

 雷をやり過ごすには、布団の中で耳を押さえて丸くなるに限る。
 もうそれしかないのだ。

 先輩は雷が好きだと言って「お祭りみたいだから」と最初は笑っていた。
 太鼓や花火と一緒だと言われても、うなずける訳がない。

 あまりに私が怖がるので、先輩はさすがに笑うのをやめた。
「手をつなごう」とか「側においで」とか、口にする台詞が変わっていく。
 今まで他の女性にも安売りしていた台詞のはずなのに、心がこもっている。

 いつもの我儘で自分勝手な言動が消えうせていた。
 それどころか、初めて見せる大人びた様子で私を気遣っていた。

 近くで雷が鳴るのが怖くて私がしゃがみ込むと、手探りで床をはうように私を探してくれた。
 そして、子供をあやすみたいに抱きしめてくれた。
 こんなに近づくのは階段を落ちた時以来で、私は戸惑うばかりだった。

 先輩にとっては抱きしめるなんて気軽な行為なんだろうけど。
 私は慣れない。

 なぜか胸が痛くなる。
 それでもガラス細工を扱うみたいに繊細な抱擁だったので、身体が自然に寄り添ってしまった。

 夏なのに離れがたくて、先輩のシャツの襟元を握りしめた。
 寝室に歩く間も、私のことを護るように包みこんでくれる腕に、頼ることしかできなかった。

 どうにかして雷から気をそらそうと、先輩は必死だった。
 ひたすら慰めてくれた。

「からかってごめんね、大丈夫。まだ遠いから。いこ?」

 言葉を返したいのに喉がふさがって、視界がにじんだ。
 全てが優しいので、涙がこぼれそうだった。
 声をあげて泣きだしたいぐらい、嬉しくて……悲しかった。

 寝室にたどりついて何とか気力を振り絞って先輩から離れたのに、私の気持ちなんてまるで考えないで、先輩はクマのぬいぐるみを投げ捨てる。

 抱きしめないで。
 そう言いたかったのに、嗚咽と一緒に言葉を飲みこんでしまった。

 それどころか、突き放すこともできなかった。

「アイリーン、大丈夫?」

 先輩は何度も何度も問いかけてくる。
 大丈夫じゃなかった。
 雷が怖くて、先輩の優しさも怖かった。

 そう。
 今の私は、アイリーンなのだ。

 もう、限界だと思った。
 先輩は私のことを外国人だと信じていた。
 先輩の優しいこの声も手も、嘘でできあがったアイリーンに向けられたものだった。

 先輩のアイリーンは、私じゃない。

 それなのに、私は。
 慰めてくれるそのすべてが嬉しくて、先輩の腕の中にいた。
 抱きしめてくれる胸に、寄り添うことしかできなかった。
 先輩の腕の中で、嗚咽がこぼれ落ちないように、唇をかみしめる。

 心の中でつぶやいた。
 私は卑怯なんです。

 本当の自分をさらけ出すこともできないのに。
 アイリーンと愛莉は別の人間だと思われるのも怖くて……このまま消え去るために、全て黙っている卑怯者なんです。

 夢の時間が綺麗すぎて、先輩に本当の私を拒絶されることが怖すぎた。
 だから、自分の気持ちからも逃げることしかできなくて……これが人を好きになるということなんだと、私はやっと気がついた。

 もうとっくに、先輩が心にあふれている。
 夢の中でしか、手の届かない人なのに。

 わかっていても、想いがあふれてくるのを止められない。
 どうすればいいのかわからないから、何も言えなくなってしまった。

 涙を必死でこらえる私に、先輩は雷にだけ怯えていると勘違いしているようだった。
 ひたすら気をそらそうと、色々と話しかけてくれた。
 なぜか初キスをした近所のネコに妬いたり、榊さんと私の会話が仲良すぎると無意味に妬いていた。

 どうしていつも、榊さんが出てくるのだろう?

 確かに……榊さんはものすごくかっこいいけど。
 私からすれば、先輩と榊さんの絆に妬きたいぐらいなのに。

 先輩は勝手な思い込みで、榊さんと私の仲が良すぎると悔しがっていた。
 話の内容は先輩のことだったのに、ドイツ語で話しあっていたから、誤解をしているみたいだ。

 不意に先輩の長い指先が、私の頬を滑った。
 確かめるように、やわらかく探りだした。

 こらえきれなかった涙のあとを不思議そうにたどるので、私は思わず身体を離した。
 泣いている理由に気付かれなくない。

 だけど先輩は、離れることを許してくれなかった。

 逃げる私をギュッと抱いた。
 華奢に見えても男の人の力だったので、離れたいのにうまくいかなかった。
 片手で遠慮なく、私の顔に触れてくる。

「唇、厚めだね。セクシーなのかな?」

 目や鼻や唇をたどる優しい動きに、私はぞっとした。
 輪郭や形だけじゃない。

 私の表情も指先で見ていた。
 私の隠している心まで、全て読み取られそうだった。

 忘れて、とかすれた声しかでなかった。
 別れの瞬間を想うと涙がこぼれ、身体が小刻みに震えるのを止める事が出来なかった。

「今は夢の時間で、私はすぐにいなくなるのに」

 しばらく先輩は固まっていた。
 その後すぐに、ぐっと今までになく強い力で抱きこまれ、先輩が上にのしかかってきた。

 あ、と思ったときには遅かった。
 両腕を捕えられ、動けなくなっていた。
 肌が、触れあっている。

 感情のスイッチを、私は入れ間違えたらしい。
 触れる手が熱かった。

 その吐息一つとっても、今までとは違って、あきらかな欲があった。
 やだ、と口で否定しても、私の体はまったくの役立たずだった。

 抵抗らしい抵抗など、まるでできない。
 それどころか先輩に触れられただけで、力が抜けてしまう。

 壊れそうなぐらい、私の心臓は跳ねていた。
 首筋に先輩の唇が触れると恥かしさが噴き出しそうで、そっと形を確かめるように滑る手に身体をこわばらせることしかできない。
 まるで自分の所有を示すように、口づけの痕をいたるところにつけていく。

 先輩は何一つ迷いがないのに、私は押し返すことも抱きしめることもできなかった。
「冬真君」とつぶやいて、その胸に触れるのが精いっぱいだった。

 手のひらから、私と同じように弾けそうな鼓動が響いている。
 私自身が愛されているのだと、勘違いしそうなほど激しく脈打っていた。

 手を伸ばせば、何かが変わるかしら?
 遠く離れた先輩に、少しは近づける……?

 その肩に触れかけて、とまどう。
 たくさんの女の人たちがエントランスを埋めていた、初日の光景が脳裡に浮んでしまった。
 綺麗な服を着て、お化粧も似合っていて、豪華な薔薇のような人たちだった。

 あの人たちもここでこんなふうに、先輩と一緒に寝たことがあるだろう。
 その現実に、チリッと胸の奥が痛んだ。
 先輩の横に立つことだけでも、まるで正反対の私には不似合いだった。

 心が砕けそうだ。
 責める言葉が、思わずこぼれ落ちる。

「私のことなんて、すぐに忘れてしまうくせに」

 先輩は淡く笑った。
「忘れるから、何? 覚えてるかもしれないよ?」
 アイリーンのことは忘れないと続ける。

 私は声を殺して、泣くことしかできなかった。
 本当に覚えていても、それは私じゃない。
 先輩のアイリーンは、私自身とはまるで違う人間なのが苦しかった。

「お願い、やめて」

 なんとかそう言葉を絞り出しても、揺れてしまう。
 今なら逃げ出せるのに。
 繰り返しささやかれるアイリーンの名前と、すがるような愛撫に、愚かな誘惑に捕えられていた。

 アイリーンでいれば、この瞬間だけは先輩を独り占めできる。
 甘い痛みに似た想いだった。

 私が肩にそっとすがると、先輩はフワリと夢みたいに笑った。
 口元しか見えなかったけれど、とても幸福そうな微笑みだった。
 そして先輩は、ためらいもせず私を抱いた。

 息が詰まる。
 痛い。

 それ以上に熱くて、頭の中が真っ白になってしまう。
 心臓と一緒に想いが弾けて、身体の奥へと響くみたいだ。

 先輩から受け取る激しい熱に、繋がった熱さに、何も考えられなくなる。
 先輩だけが欲しくて、自分が自分でなくなる。

 あふれそうな気持を、嗚咽と一緒に飲み込んだ。

「私のこと、好きでもないのに……」

 ひどいと責める私に、先輩は甘くささやく。
 涙をぬぐった指先が、唇に触れた。

「好きだよ。他には何もいらないんだ」

 嘘つき、と私は声にならない言葉を紡いだ。
 どんなに繰り返されても、それはアイリーンへの言葉だから。

「好きだから」

 やけにきっぱり言い切って、指先の代わりに唇が近付いた。
 それでも触れあう寸前にためらい、先輩の吐息が頬へとそれる。

 キス、しなかった。
 それが少しだけ、残念だった。

「アイリーン。俺のこと、忘れられないよね?」

 俺だけを好きになってとか、どこにいても探し出すからと、何度も何度も甘い声で先輩は私にささやく。
 もう許してと頼んでも、絡みつくようにどこかがつながっていた。
 ずっと側にいてほしいと求める声。

「冬真君」

 私はアイリーンとして応えると、涙が出た。

 そう、アイリーンは先輩なんて呼ばない。
 こんなに熱くて、身体の中に入り込んだ先輩を感じているのに。

 夢の時間に飲みこまれてしまう。
 秘密と誤解の中で、本当の私がどこにもいない。

 心の中で問いかけてみる。

 先輩、今、腕に抱いているのは誰ですか?
 私のこと、少しは見えていますか?

 もう二度と、会うことはないでしょうけど。
 いいえ、姿を見かけることはあるけど、多分あなたは私に気づきもしない。

 それでも、私はあなたが好きです。
 名前を呼ぶと涙がこぼれるぐらい。

 愛莉は冬真先輩が好きです。

 心の中で、何度もつぶやいた。
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