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4.炎の海
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平穏が壊れたのは、新月の夜だった。
安吉たちの悪だくみを白い蛇が聞いてから、七日ばかり過ぎていた。
紅葉狩りに行きましょうと婚約を交わしたときに安吉が清を誘っていたので、白い蛇は引きちぎられそうな胸の痛みを抱えたまま、安寧寺の生け垣の中に先回りしていた。
冷えると身体の動きが鈍くなるので、落ちた木の葉の中に身をうずめて清たちが来るのを待っていた。
だから、白い蛇は真砂屋にこれから何が起こるか、想像すらしていなかった。
境内にある紅葉の美しい寺で、秋の間は夜半も篝火を焚いて参拝を許している。
珍しくもない誘いだが一年のうちで最も美しい景観なのも確かで、通り過ぎるだけの旅人も、長逗留の湯治客も、昼のあでやかさとは違った表情を見せるのだ。
清も毎年、安寧寺の紅葉をとりわけ楽しみにしていた。
夜の紅葉狩りも今年は家族とではなく、許嫁と一緒となれば胸が躍る。
父親が婿入りの話を安吉に打診して、良い返事をもらえたのだ。
その場には清も御隠居も同席しワッとわいた喜びの声を聞いて、床下の白い蛇は悲しみで身もだえしていたけれど、慶事を慶事と思わぬ不届きモノは白い蛇だけだった。
なにしろ安吉はよそ者であることを忘れられるぐらい好かれ、粋でいなせな良い男である。
ひとり娘の喜びごとに女中たちもわき立ち、紅葉狩りにその場で誘われてうなずいた清に、後からこっそり逢引の際の入れ知恵をしていたほどだ。
お日様が顔を隠すと一気に冷えるので、着こんでも息はほんのり白くなり、寒いと理由をつけてそっと手をつなぐんですよ、などとけしかけていた。
「日が暮れたら御屋敷に迎えに行くから、裏木戸をあけておくれ」
許嫁となった日。
帰る前に囁かれた安吉の言葉に、清は恥ずかしげにうなずいた。
俺の姫さん、と手を獲る人に向ける笑顔は、幸福で染まり誰よりも美しかった。
そして約束の日の約束の時間、裏木戸の近くでそわそわと待っていた。
付添いの乳母も今夜は安吉が迎えに来るまで側に居るけれど、出かけるのは本当に二人きり。
両親は本館で使用人たちに采配を振るっているし、女中たちも客の相手で忙しい時間帯だから、乳母の他には誰もいない。
それが心細いような、楽しみなような、不思議な心持ちで清は空を見上げた。
星の綺麗な夜だった。
月のない新月の夜は星ばかりで、秋の陽はつるべ落としのように姿を隠すから、すでに辺りも暗くなっていた。
乳母が手にした提灯に灯りをともし、側に寄り添ってくれる。
それからさほど待たず、トントンと裏の木戸を外から叩く音がした。
「お清さん、安吉です。迎えに来ましたよ」
優しい声音に、先に開けようとした乳母を制して、清は裏木戸を開けた。
「安吉さん」
来てくれて嬉しいわ、と続くはずだった声は、清の唇から出ることはなかった。
代わりにこぼれ落ちたのは、ヒュッと乾いた小さな息だけだ。
驚きに目を見開き、安吉にもらった紅をさした唇は、かすかに動いても声をつむげない。
その胸には、半分ほど銀に輝く匕首が埋まっていた。
力を失いフラリと後ろによろけた清をそのまま支えようとした乳母の口を、大きな男の手が塞ぎ別の男がその喉を短刀で掻き切った。
なにが起こっているのか理解できないまま事切れた乳母と、重なるように倒れている清を、暗い色の着物をまとった安吉が冷たい目で見降ろした。
「運が良けりゃ助かるだろうさ」
そんなことは絶対に起こらないと嘲る光を瞳にたたえ、自分に向かって震えるように上がった清の手を蹴飛ばすと、後ろに向かって軽く顎をしゃくる。
それぞれありふれた逗留客としか見えない旅装束や着物だが、闇に紛れやすい暗い色をまとった男たちが音もさせずなだれ込んできた。
ギラギラと眼光ばかり鋭い連中は十人ばかりいて、倒れている清と乳母を踏み越えて御屋敷へと入り込む。
後は油をまいて火をつければ、人間は勝手に混乱してくれる。
火事は良い。宿場ごと全部燃えてしまえば、盗みに入ったことにも気付かれない。
人目のない場所や抜け道はじっくり調べたし、金目の物のある店も置場も目星をつけているからそっちは他の仲間が向かっていた。
「ちょろいもんだ、簡単すぎらぁな」
クツクツと低く笑いながら安吉も、闇に消えた仲間を悠々とした足取りで追うのだった。
白い蛇は待てど暮らせど姿を見せない清に、焦れて仕方がなかった。
一度、真砂屋に戻ったほうが良いかもしれない。
そんな考えにとらわれて、いやいや篝火も灯したばかりで今からが本番だと悩み、やはり遅すぎるとゆるゆると動きだした頃。
カンカンと半鐘が狂ったようになり響く。
山の中ほどにある安寧寺から宿場町を見下ろすと、五~六か所から火の手が挙がっていた。
このところ晴れ続きで乾いていたのも手伝っているのだろう。
旅籠のある宿場だけでなく、土産物や食事処のある繁華街も炎が飛んで、周囲に燃え広がっていく。
建物と建物の間が近く、あっという間に真っ赤に染まっていく様子に、白い蛇は仰天した。
なぜなぜと目まぐるしく思考はめぐったけれど、清の身が心配になって不可思議な力で真砂屋に向かって跳んだ。
一度に飛べる距離はほんの十間ばかりで、何度も何度も繰り返し炎で混乱する人の足元を縫うように、休みなく跳び続けた。
やっとのことで真砂屋にたどりついたとき、静謐で壮観だった真砂屋は炎の中で崩れ落ちようとしていた。
轟々と恐ろしい音がして、焼けつくような熱気が満ち、見えるのは黒い煙と赤い炎ばかりで、人の姿もない。
そこここに倒れているの黒い塊も、人なのか材木なのか、もはや判別がつかなかった。
白い蛇は降ってくる火の粉を気に留めることなく進み、鱗が焦げても気にしなかった。
ただただ清の姿を求め、這いまわった。
そして、変わり果てた姿を見つけたのだった。
形を失くした燃える裏木戸から少し離れたところであおむけに倒れ、その身体の下には白い蛇も見知った乳母がこと切れている。
色鮮やかな菊模様の振袖にも火の粉が飛んでくすぶり始め、ところどころが焦げていた。
急いで近寄った蛇が身を寄せると、ピクリと微かに清の手が動いた。
綺麗な化粧をしていたのにすっかりすすけた顔を覗き込むと、珊瑚、と目があった清のその唇が動いたので、蛇はチロリとその頬を舌でなめる。
清がなんの感情も見せずに薄く微笑んで目を閉じたので、白い蛇はあわてて辺りを見回し、清の胸から生えている匕首に気がついた。
銀色の刃が炎に照らされてギラギラと冷たく輝いている。
これのせいで清が倒れたのだと理解した白い蛇は身体を匕首に巻き付け、小さな口で柄にかみつきぬこうと引っ張り上げた。
鱗が刃で削れたけれどかまわなかった。
迫ってくる炎で身が焦げてもかまわなかった。
匕首を抜く、その一心で引っ張り続け、幾重にも身体を刃に巻いて、とうとう清の胸から冷たい凶器を抜き去った。
その途端に、血が滝のように流れ出てくるなんて、白い蛇には思いもよらなかった。
あふれ出る血を止めようと小さな体で押さえたけれど、白い身体が真っ赤に染まるだけだった。
「……安吉さん……」
小さな小さなささやきを遺して、清は事切れた。
白い蛇の胸に抑えようもない感情が燃え上がる。
最期の言葉が、よりにもよってそれなのか、と。
何に対してわきたつのかも、白い蛇にはわからなかった。
怒り、悲しみ、憤り、それらすべてを合わせても足りない憤怒が、地獄の業火に似た激しさで、その深紅の瞳をギラギラと光らせる。
許さぬ。許さぬぞ。
轟、と白い蛇の身体から炎が噴きでると、赤いとぐろを巻いて深紅の竜に似て渦巻いた。
降り注いでくる炎も、崩れ落ちた屋敷の木端も、竜巻のように舞いあがる凶悪な赤も、そのすべてがどれほどのものなのか。
風に乗って火の粉が炎となって落ちてきたが、白い蛇から湧いた炎と混じる。
我からすべてを奪った痴れ者どもを焼き尽くしてくれようぞ!
火に巻かれても怨嗟の声は天まで焦がす。
身体と炎の境目がなくなり、炎の竜からほとばしるオウオウと激しい咆哮は止むことがない。
小さな小さな白い蛇だったものは真っ赤に燃えて、激情を抱いたまま炎の海に呑まれたのだった。
安吉たちの悪だくみを白い蛇が聞いてから、七日ばかり過ぎていた。
紅葉狩りに行きましょうと婚約を交わしたときに安吉が清を誘っていたので、白い蛇は引きちぎられそうな胸の痛みを抱えたまま、安寧寺の生け垣の中に先回りしていた。
冷えると身体の動きが鈍くなるので、落ちた木の葉の中に身をうずめて清たちが来るのを待っていた。
だから、白い蛇は真砂屋にこれから何が起こるか、想像すらしていなかった。
境内にある紅葉の美しい寺で、秋の間は夜半も篝火を焚いて参拝を許している。
珍しくもない誘いだが一年のうちで最も美しい景観なのも確かで、通り過ぎるだけの旅人も、長逗留の湯治客も、昼のあでやかさとは違った表情を見せるのだ。
清も毎年、安寧寺の紅葉をとりわけ楽しみにしていた。
夜の紅葉狩りも今年は家族とではなく、許嫁と一緒となれば胸が躍る。
父親が婿入りの話を安吉に打診して、良い返事をもらえたのだ。
その場には清も御隠居も同席しワッとわいた喜びの声を聞いて、床下の白い蛇は悲しみで身もだえしていたけれど、慶事を慶事と思わぬ不届きモノは白い蛇だけだった。
なにしろ安吉はよそ者であることを忘れられるぐらい好かれ、粋でいなせな良い男である。
ひとり娘の喜びごとに女中たちもわき立ち、紅葉狩りにその場で誘われてうなずいた清に、後からこっそり逢引の際の入れ知恵をしていたほどだ。
お日様が顔を隠すと一気に冷えるので、着こんでも息はほんのり白くなり、寒いと理由をつけてそっと手をつなぐんですよ、などとけしかけていた。
「日が暮れたら御屋敷に迎えに行くから、裏木戸をあけておくれ」
許嫁となった日。
帰る前に囁かれた安吉の言葉に、清は恥ずかしげにうなずいた。
俺の姫さん、と手を獲る人に向ける笑顔は、幸福で染まり誰よりも美しかった。
そして約束の日の約束の時間、裏木戸の近くでそわそわと待っていた。
付添いの乳母も今夜は安吉が迎えに来るまで側に居るけれど、出かけるのは本当に二人きり。
両親は本館で使用人たちに采配を振るっているし、女中たちも客の相手で忙しい時間帯だから、乳母の他には誰もいない。
それが心細いような、楽しみなような、不思議な心持ちで清は空を見上げた。
星の綺麗な夜だった。
月のない新月の夜は星ばかりで、秋の陽はつるべ落としのように姿を隠すから、すでに辺りも暗くなっていた。
乳母が手にした提灯に灯りをともし、側に寄り添ってくれる。
それからさほど待たず、トントンと裏の木戸を外から叩く音がした。
「お清さん、安吉です。迎えに来ましたよ」
優しい声音に、先に開けようとした乳母を制して、清は裏木戸を開けた。
「安吉さん」
来てくれて嬉しいわ、と続くはずだった声は、清の唇から出ることはなかった。
代わりにこぼれ落ちたのは、ヒュッと乾いた小さな息だけだ。
驚きに目を見開き、安吉にもらった紅をさした唇は、かすかに動いても声をつむげない。
その胸には、半分ほど銀に輝く匕首が埋まっていた。
力を失いフラリと後ろによろけた清をそのまま支えようとした乳母の口を、大きな男の手が塞ぎ別の男がその喉を短刀で掻き切った。
なにが起こっているのか理解できないまま事切れた乳母と、重なるように倒れている清を、暗い色の着物をまとった安吉が冷たい目で見降ろした。
「運が良けりゃ助かるだろうさ」
そんなことは絶対に起こらないと嘲る光を瞳にたたえ、自分に向かって震えるように上がった清の手を蹴飛ばすと、後ろに向かって軽く顎をしゃくる。
それぞれありふれた逗留客としか見えない旅装束や着物だが、闇に紛れやすい暗い色をまとった男たちが音もさせずなだれ込んできた。
ギラギラと眼光ばかり鋭い連中は十人ばかりいて、倒れている清と乳母を踏み越えて御屋敷へと入り込む。
後は油をまいて火をつければ、人間は勝手に混乱してくれる。
火事は良い。宿場ごと全部燃えてしまえば、盗みに入ったことにも気付かれない。
人目のない場所や抜け道はじっくり調べたし、金目の物のある店も置場も目星をつけているからそっちは他の仲間が向かっていた。
「ちょろいもんだ、簡単すぎらぁな」
クツクツと低く笑いながら安吉も、闇に消えた仲間を悠々とした足取りで追うのだった。
白い蛇は待てど暮らせど姿を見せない清に、焦れて仕方がなかった。
一度、真砂屋に戻ったほうが良いかもしれない。
そんな考えにとらわれて、いやいや篝火も灯したばかりで今からが本番だと悩み、やはり遅すぎるとゆるゆると動きだした頃。
カンカンと半鐘が狂ったようになり響く。
山の中ほどにある安寧寺から宿場町を見下ろすと、五~六か所から火の手が挙がっていた。
このところ晴れ続きで乾いていたのも手伝っているのだろう。
旅籠のある宿場だけでなく、土産物や食事処のある繁華街も炎が飛んで、周囲に燃え広がっていく。
建物と建物の間が近く、あっという間に真っ赤に染まっていく様子に、白い蛇は仰天した。
なぜなぜと目まぐるしく思考はめぐったけれど、清の身が心配になって不可思議な力で真砂屋に向かって跳んだ。
一度に飛べる距離はほんの十間ばかりで、何度も何度も繰り返し炎で混乱する人の足元を縫うように、休みなく跳び続けた。
やっとのことで真砂屋にたどりついたとき、静謐で壮観だった真砂屋は炎の中で崩れ落ちようとしていた。
轟々と恐ろしい音がして、焼けつくような熱気が満ち、見えるのは黒い煙と赤い炎ばかりで、人の姿もない。
そこここに倒れているの黒い塊も、人なのか材木なのか、もはや判別がつかなかった。
白い蛇は降ってくる火の粉を気に留めることなく進み、鱗が焦げても気にしなかった。
ただただ清の姿を求め、這いまわった。
そして、変わり果てた姿を見つけたのだった。
形を失くした燃える裏木戸から少し離れたところであおむけに倒れ、その身体の下には白い蛇も見知った乳母がこと切れている。
色鮮やかな菊模様の振袖にも火の粉が飛んでくすぶり始め、ところどころが焦げていた。
急いで近寄った蛇が身を寄せると、ピクリと微かに清の手が動いた。
綺麗な化粧をしていたのにすっかりすすけた顔を覗き込むと、珊瑚、と目があった清のその唇が動いたので、蛇はチロリとその頬を舌でなめる。
清がなんの感情も見せずに薄く微笑んで目を閉じたので、白い蛇はあわてて辺りを見回し、清の胸から生えている匕首に気がついた。
銀色の刃が炎に照らされてギラギラと冷たく輝いている。
これのせいで清が倒れたのだと理解した白い蛇は身体を匕首に巻き付け、小さな口で柄にかみつきぬこうと引っ張り上げた。
鱗が刃で削れたけれどかまわなかった。
迫ってくる炎で身が焦げてもかまわなかった。
匕首を抜く、その一心で引っ張り続け、幾重にも身体を刃に巻いて、とうとう清の胸から冷たい凶器を抜き去った。
その途端に、血が滝のように流れ出てくるなんて、白い蛇には思いもよらなかった。
あふれ出る血を止めようと小さな体で押さえたけれど、白い身体が真っ赤に染まるだけだった。
「……安吉さん……」
小さな小さなささやきを遺して、清は事切れた。
白い蛇の胸に抑えようもない感情が燃え上がる。
最期の言葉が、よりにもよってそれなのか、と。
何に対してわきたつのかも、白い蛇にはわからなかった。
怒り、悲しみ、憤り、それらすべてを合わせても足りない憤怒が、地獄の業火に似た激しさで、その深紅の瞳をギラギラと光らせる。
許さぬ。許さぬぞ。
轟、と白い蛇の身体から炎が噴きでると、赤いとぐろを巻いて深紅の竜に似て渦巻いた。
降り注いでくる炎も、崩れ落ちた屋敷の木端も、竜巻のように舞いあがる凶悪な赤も、そのすべてがどれほどのものなのか。
風に乗って火の粉が炎となって落ちてきたが、白い蛇から湧いた炎と混じる。
我からすべてを奪った痴れ者どもを焼き尽くしてくれようぞ!
火に巻かれても怨嗟の声は天まで焦がす。
身体と炎の境目がなくなり、炎の竜からほとばしるオウオウと激しい咆哮は止むことがない。
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