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第4章
第1話(1)
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「えっと、それでは今日は、これでおしまいになります。よかったら、今日作ったものを参考に、おうちでいろいろアレンジしてみてください。皆さん、お疲れさまでした」
莉音が締めの言葉を口にすると、皆、口々にお疲れさまでしたと返して荷物をまとめはじめた。室内には、食欲をそそるスパイスの香りが充満している。莉音はあらためて、メニューと材料が書かれたホワイトボードを見やった。
夏野菜のトマトカレーと和風コブサラダ、柚子風味のハニージンジャーソーダゼリー。
莉音はいま、自治体が管理する施設内のキッチンスタジオで、料理教室の講師を務めていた。なぜそんなことになっているのかというと、先日手料理を振る舞った田中家の嫁、優子たっての願いを受けてのことである。
優子は、役所に勤める市の職員であったらしい。所属部署が地域振興課ということもあって、街興しの一環として特別イベントを開催したいと持ちかけられた。素人の自分では役者不足なのではないかと気後れして一度は辞退したのだが、地元の暇な老人が気まぐれに参加する程度のものだから、気軽に考えてほしいと重ねて懇願され、迷った末に引き受けることにしたのである。
詳細を聞いてみると、期間はお盆期間中の一週間程度を予定しており、部署内でこれから具体案を詰めて決裁を取るという。すでに八月に入っているので猶予はほとんどない。おそらくは地域の公民館や集会所のようなところで数人を相手にする、寄り合いのようなものなのかもしれないと思った。
そのくらいならばと軽い気持ちで引き受けたのだが、いざ蓋を開けてみれば、寄り合いどころの話ではまったくなかったことが判明した。
まず、料理教室の会場は、どこかの集落の小さな公民館や集会所などではなく、学校の家庭科室のように調理実習台がいくつも完備されたキッチンスタジオだった。そしてその立地は、祖父の家の周辺のように田畑がひろがるのどかな地域ではなく、街の中心部にある複合施設の一角。
総合体育館や運動場、公園、図書館、イベントホールなども併設された敷地内の会場で、思いのほか人の出入りも多い。当日迎えに来てくれた優子の車で会場に到着した莉音は、想定外の規模に腰を抜かしそうになった。
「ごめんねえ、ほんとはもともと決まっちょったイベントやったんちゃね。じゃけんど予定しちょった講師ん先生が、先月末に急に体調崩してしもうて。別ん講師を頼むか、イベントを中止するかっちゅう瀬戸際で大騒ぎになっちょったん」
代理の講師を立てるため方々を当たってみたものの、イベント開催時期がちょうどお盆期間中ということもあって、都合がつく人間がなかなか見つからない。もうほとんど中止の方向で話がまとまりかけていたところに、莉音の存在が浮上したとのことだった。
「いやもう、渡りに船っていったら失礼やけどね、おばさん、莉音ちゃんのお料理食べた瞬間に『これじゃあっ!』ってなってしもうて」
あの日、優子は帰宅するなり上司に連絡をして事の顛末を説明し、あっというまに頓挫しかけていた企画を練りなおしたのだという。
「ほんとにもう、莉音さまさまよ! 足向けて寝られんわぁ」
機嫌良く言われて途方に暮れる。
「あの、でも僕、こんな本格的なものだったとは思ってもなくて……」
「大丈夫大丈夫。予定変更ん告知も結構ギリギリやったし、事前ん予約もそげえ入っちょらんかったけん。……って、せっかく引き受けてくれたけんど、それじゃあガッカリちゃねぇ」
「あ、いいえ。正直、二、三人くらいかなぁって思ってたので」
「あ~、そうちゃね。ごめんね、説明足りちょらんかったよね。でも、そげえ構えんで大丈夫やけん。それよりは、ち~っと多いいだけやけん」
ほんと、ちいっとだけやけん、と優子は笑った。
莉音が締めの言葉を口にすると、皆、口々にお疲れさまでしたと返して荷物をまとめはじめた。室内には、食欲をそそるスパイスの香りが充満している。莉音はあらためて、メニューと材料が書かれたホワイトボードを見やった。
夏野菜のトマトカレーと和風コブサラダ、柚子風味のハニージンジャーソーダゼリー。
莉音はいま、自治体が管理する施設内のキッチンスタジオで、料理教室の講師を務めていた。なぜそんなことになっているのかというと、先日手料理を振る舞った田中家の嫁、優子たっての願いを受けてのことである。
優子は、役所に勤める市の職員であったらしい。所属部署が地域振興課ということもあって、街興しの一環として特別イベントを開催したいと持ちかけられた。素人の自分では役者不足なのではないかと気後れして一度は辞退したのだが、地元の暇な老人が気まぐれに参加する程度のものだから、気軽に考えてほしいと重ねて懇願され、迷った末に引き受けることにしたのである。
詳細を聞いてみると、期間はお盆期間中の一週間程度を予定しており、部署内でこれから具体案を詰めて決裁を取るという。すでに八月に入っているので猶予はほとんどない。おそらくは地域の公民館や集会所のようなところで数人を相手にする、寄り合いのようなものなのかもしれないと思った。
そのくらいならばと軽い気持ちで引き受けたのだが、いざ蓋を開けてみれば、寄り合いどころの話ではまったくなかったことが判明した。
まず、料理教室の会場は、どこかの集落の小さな公民館や集会所などではなく、学校の家庭科室のように調理実習台がいくつも完備されたキッチンスタジオだった。そしてその立地は、祖父の家の周辺のように田畑がひろがるのどかな地域ではなく、街の中心部にある複合施設の一角。
総合体育館や運動場、公園、図書館、イベントホールなども併設された敷地内の会場で、思いのほか人の出入りも多い。当日迎えに来てくれた優子の車で会場に到着した莉音は、想定外の規模に腰を抜かしそうになった。
「ごめんねえ、ほんとはもともと決まっちょったイベントやったんちゃね。じゃけんど予定しちょった講師ん先生が、先月末に急に体調崩してしもうて。別ん講師を頼むか、イベントを中止するかっちゅう瀬戸際で大騒ぎになっちょったん」
代理の講師を立てるため方々を当たってみたものの、イベント開催時期がちょうどお盆期間中ということもあって、都合がつく人間がなかなか見つからない。もうほとんど中止の方向で話がまとまりかけていたところに、莉音の存在が浮上したとのことだった。
「いやもう、渡りに船っていったら失礼やけどね、おばさん、莉音ちゃんのお料理食べた瞬間に『これじゃあっ!』ってなってしもうて」
あの日、優子は帰宅するなり上司に連絡をして事の顛末を説明し、あっというまに頓挫しかけていた企画を練りなおしたのだという。
「ほんとにもう、莉音さまさまよ! 足向けて寝られんわぁ」
機嫌良く言われて途方に暮れる。
「あの、でも僕、こんな本格的なものだったとは思ってもなくて……」
「大丈夫大丈夫。予定変更ん告知も結構ギリギリやったし、事前ん予約もそげえ入っちょらんかったけん。……って、せっかく引き受けてくれたけんど、それじゃあガッカリちゃねぇ」
「あ、いいえ。正直、二、三人くらいかなぁって思ってたので」
「あ~、そうちゃね。ごめんね、説明足りちょらんかったよね。でも、そげえ構えんで大丈夫やけん。それよりは、ち~っと多いいだけやけん」
ほんと、ちいっとだけやけん、と優子は笑った。
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