だから僕は音楽をやめた

那須与二

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2019 5/28 「神様のダンス」

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──ねえ、忘れたなんて言わないで。
幸せになんてなれないよ。

あなたが私の前から消えてから、何もかも意味を失ってしまった。

あなたの言葉じゃないとダメなんだ。

エイミーが私の元を去ってから1年半以上経つ。
それからずっと1人だ。


「ずっとおかしいんだ。
生き方を一つだけでも教えて欲しかったよ。
払えるものはもうなんにもないけど。」


去年の夏の終わり頃、やっと見つけだした小平市の彼の家を訪れたこともあったがすでにもぬけの殻だった。

引越しの痕があった。
置いてけぼりの机の上に花緑青のシミがあった。


「なんで私から遠ざかってしまうの。
分からないよ。唯一の、一番の憧れだったのに。」


嫌われてしまったのだろうか。


そんなことを思い、桜が咲く頃を迎えた。

一通の手紙が届いた。

ぽつんと宛先のみが書いているだけだった。
全く情報が無い不思議な手紙で少し不気味だった。
封を切るまでは。

手紙の文字を見た瞬間に彼女は震えた。


これはエイミーの言葉だ。


花緑青の文字は彼の音がした。


手紙と何枚かの写真が同封されており、手紙の内容は彼の詩と近況報告のようなものだった。
明らかに読み手を意識しているものではあったが、日記のような文だった。


「一日は呆気ないほどに短いし、ただ生きるにも長い。
人生が芸術を模倣するんだ。
だらだら生きる意味は無い。」


エイミーが心臓を患っていたことは彼女も知っていた。
彼女が無理やり彼を病院に連れていった時に医者から告げられた。
診察を続けて手術をすればまだ助かる可能性は大いにある。
ただ、強いストレスや無理な運動は避けるように、と。

彼女は天に救われたような気持ちになった。
が、彼は聞く耳を持ってくれなかった。
興味が無い、の一点張りだった。

今思えばこの頃になにか転機となることが彼の身にあったのだろう。


水溜まりの写真を眺めながら思い出す。

初めて彼の演奏を聴いたのはこの約1ヶ月前、今から約2年前の梅雨入りの直前だった。
それからは全く弾いてくれなくなった。
たった一度だけ夏の終わりに雨上がりの駅前でピアノを弾いてる彼を見かけたが、声を掛けようと近寄るとすぐに止めてしまった。
聴きたかったのに。と言うと、
君に聴かせるには稚拙すぎるよ。と言われた。


その日から彼は姿を消した。


手紙と同封されていた写真の中の水溜まりには青空が映っていた。
顔を上げて直接空を見上げることはもう出来なかったのか。
写真の右下には淡いオレンジ色のデジタル文字で
2017 8/31と書かれていた。


ハッとした。これは最後に彼の演奏を聴いたあの日の写真だ。
彼はあの日からまだ動いていない。
まだ間に合うと思った────



この頃の私は一体何に焦燥感を抱いていたのだろう。
もうとっくに何かに気付いていたのではないのか。

月光がインク瓶を刺してその反射が机の上を藍に染める。
彼女がいつも使っているインク───「月夜」は夜の海の様に鈍く深く輝いていた。
そういえば彼は愛用していたインクが残りの自分の人生だと言っていた。
私にはその価値が分からなかった。


最初の手紙が届いてから2ヶ月が経とうとしている。5/28、彼女はたった今、ストックホルムで朝を迎える。


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