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揺れる心
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ブランシュに詰め寄った侍医は、マティアスの報告によって解雇された。ついでに乳母のイネスにも、あまり以前のブランシュと比較しないよう釘を刺しておいた。
自分はよくても、他人がブランシュを苦しめることは許容できなかった。
(なんて勝手な……)
自分がどんどん薄汚れた人間になっていく気がした。
『わたくしの知らないことを押し付けないで! 記憶を失ったからといって可哀想な目で見ないで! わたくしは記憶を取り戻したいなんて思っていない! わたくしとあの女を一緒にしないで!』
――彼女とブランシュは違う。
目覚めたブランシュと接していくうちに、マティアスも意識せざるを得なかった。
(いいや、どのみち同じ人間だ)
そう自分に言い聞かせることが増えていった。
決定的な出来事が起こったのは、あの日の夜。彼女の父親が亡くなった日。
眠れず寝台の縁に腰かけるブランシュの背中はひどく頼りなかった。そして彼女は国王を最期まで父と思えなかったことにひどい罪悪感を抱いて涙を流した。
その姿があまりにも傷つき、壊れてしまいそうで、気づいたらマティアスはブランシュを抱きしめていた。貴女のせいじゃない、と思ってしまった。
ブランシュの不幸はさらに続いた。以前彼女に懸想していた男――エレオノールも襲いかけた男がブランシュに馬乗りになって、その身体を我が物にしようとしていた。
ドレスを引き裂かれ、白い乳房を鷲掴みにして、虚ろな目をしたブランシュの姿を見た時、マティアスは頭がカッとなって、我を失った。駆けつけた周囲の者たちが止めなければ、男を殺していただろう。
それから、ブランシュはますます自分の殻に閉じ籠もっていった。異性に触れられることはおろか、視界に映ることすら拒んだ。
ただ一人、マティアスだけは例外であった。
自分だけは、彼女に触れることができた。許された。今までは疎まれ、遠ざけようとしていた存在であったのに、自分を必要としている。縋るように自分を求め、そんな資格はないと必死で抑え込み、苦しんでいる。
マティアスはそんなブランシュをまた抱いた。
ただ今度は憎しみや苛立ちの捌け口としてではなく、純粋にブランシュと繋がりたかった。彼女の苦痛や悲しみを分かち合いたい。そんな気持ちが生まれていた。
「マティアス」
目覚めてからずっと公爵と呼んでいた彼女が自分の名前を呼ぶたびに胸がざわつく。おまえはわたくしのものだと告げた彼女の声とは違う。躊躇いつつ、でも自分を求める声に頭の芯が痺れていく。
(だめだ……)
何かに抗うようにそう思った。きっとブランシュも同じだ。しかし二人の身体はお互いを離さぬよう絡み、溶けあい、一つになっていく。
これがブランシュの意思だと思えば、身体はますます熱く燃え上がり、心が引きずられる。いいや、逆かもしれない。心がすでにブランシュに囚われているから、身体は呆気なく達する。
(もう、どちらでもいい……)
悲しくて辛い出来事ばかり起こって、ブランシュが落ち込んでいたから。ボートに乗れるとわかって子どものように無邪気にはしゃいだから。作り笑いではなく、心からの笑みを自分に見せてくれたから。
(ブランシュ……)
突然雨が降ったから。すでに何度も身体を繋げているのに脱ぐことを恥ずかしがったから。濡れた肌が冷たかったから。口づけた箇所が熱くなったから。これ以上触れられたら好きになってしまうなんて言ったから。気が狂いそうな声で何度も名前を呼ぶから。泣きそうな顔で自分を見るから。
涙を流す姿が許しを請うように見えたから。だから――
(憎んでいたのに……)
今でも許せない気持ちはある。でも、それだけではなく……
「今日くらい、妻の真似事をさせてちょうだい」
寂しげに呟いた言葉に、真似事ではなく、貴女は私の妻だろうと……なぜそんな、間違いだというような、いつか終わるような言い方をするのだと……もどかしく、腹立たしい気持ちになった自分がいて愕然とした。一体いつからそう思うようになっていたのだろう。
(私はブランシュが、愛おしい)
憎しみと同じくらい、ブランシュを激しく想っている。それを純粋に愛と呼んでいいかはわからなかったが、誰にも渡したくないと思ったことは確かであった。
罪悪感もあった。ブランシュが言ったように、エレオノールに対するひどい裏切りだと思う。でも、もう……
(今さら離れるなど、できるものか)
キルデリクがブランシュに興味を抱き、結婚を申し込んだ時、それを彼女が断った時、ひどく安堵した。あんなに別れることを望んでいたのに、今では捨てられることを恐れる自分がいる。
「本来ならおまえなど歯牙にもかけられない存在であったことを、ようやく思い知らされた気分だろう?」
別れ際、キルデリクに嫌味交じりで告げられた言葉が忘れられない。
本来ブランシュが添い遂げる相手は、自分ではなく、彼のような王族だった。彼女がまともではなかったから、自分が選ばれただけ。本当なら、一生交わることのなかった人だ。
記憶を失った今、ブランシュはある意味正常に戻り、マティアスと結婚したことを後悔しているかもしれない。
ただの婚約であったら、きっと破棄していた。結婚してすでに純潔を失っていたから、今まで散々マティアスを傷つけてきたから、その責任をとるためにブランシュはマティアスのもとへ残ることを決めたのだ。
そんなふうに考えて、どうしようもなく胸が苦しくなった。
自分はよくても、他人がブランシュを苦しめることは許容できなかった。
(なんて勝手な……)
自分がどんどん薄汚れた人間になっていく気がした。
『わたくしの知らないことを押し付けないで! 記憶を失ったからといって可哀想な目で見ないで! わたくしは記憶を取り戻したいなんて思っていない! わたくしとあの女を一緒にしないで!』
――彼女とブランシュは違う。
目覚めたブランシュと接していくうちに、マティアスも意識せざるを得なかった。
(いいや、どのみち同じ人間だ)
そう自分に言い聞かせることが増えていった。
決定的な出来事が起こったのは、あの日の夜。彼女の父親が亡くなった日。
眠れず寝台の縁に腰かけるブランシュの背中はひどく頼りなかった。そして彼女は国王を最期まで父と思えなかったことにひどい罪悪感を抱いて涙を流した。
その姿があまりにも傷つき、壊れてしまいそうで、気づいたらマティアスはブランシュを抱きしめていた。貴女のせいじゃない、と思ってしまった。
ブランシュの不幸はさらに続いた。以前彼女に懸想していた男――エレオノールも襲いかけた男がブランシュに馬乗りになって、その身体を我が物にしようとしていた。
ドレスを引き裂かれ、白い乳房を鷲掴みにして、虚ろな目をしたブランシュの姿を見た時、マティアスは頭がカッとなって、我を失った。駆けつけた周囲の者たちが止めなければ、男を殺していただろう。
それから、ブランシュはますます自分の殻に閉じ籠もっていった。異性に触れられることはおろか、視界に映ることすら拒んだ。
ただ一人、マティアスだけは例外であった。
自分だけは、彼女に触れることができた。許された。今までは疎まれ、遠ざけようとしていた存在であったのに、自分を必要としている。縋るように自分を求め、そんな資格はないと必死で抑え込み、苦しんでいる。
マティアスはそんなブランシュをまた抱いた。
ただ今度は憎しみや苛立ちの捌け口としてではなく、純粋にブランシュと繋がりたかった。彼女の苦痛や悲しみを分かち合いたい。そんな気持ちが生まれていた。
「マティアス」
目覚めてからずっと公爵と呼んでいた彼女が自分の名前を呼ぶたびに胸がざわつく。おまえはわたくしのものだと告げた彼女の声とは違う。躊躇いつつ、でも自分を求める声に頭の芯が痺れていく。
(だめだ……)
何かに抗うようにそう思った。きっとブランシュも同じだ。しかし二人の身体はお互いを離さぬよう絡み、溶けあい、一つになっていく。
これがブランシュの意思だと思えば、身体はますます熱く燃え上がり、心が引きずられる。いいや、逆かもしれない。心がすでにブランシュに囚われているから、身体は呆気なく達する。
(もう、どちらでもいい……)
悲しくて辛い出来事ばかり起こって、ブランシュが落ち込んでいたから。ボートに乗れるとわかって子どものように無邪気にはしゃいだから。作り笑いではなく、心からの笑みを自分に見せてくれたから。
(ブランシュ……)
突然雨が降ったから。すでに何度も身体を繋げているのに脱ぐことを恥ずかしがったから。濡れた肌が冷たかったから。口づけた箇所が熱くなったから。これ以上触れられたら好きになってしまうなんて言ったから。気が狂いそうな声で何度も名前を呼ぶから。泣きそうな顔で自分を見るから。
涙を流す姿が許しを請うように見えたから。だから――
(憎んでいたのに……)
今でも許せない気持ちはある。でも、それだけではなく……
「今日くらい、妻の真似事をさせてちょうだい」
寂しげに呟いた言葉に、真似事ではなく、貴女は私の妻だろうと……なぜそんな、間違いだというような、いつか終わるような言い方をするのだと……もどかしく、腹立たしい気持ちになった自分がいて愕然とした。一体いつからそう思うようになっていたのだろう。
(私はブランシュが、愛おしい)
憎しみと同じくらい、ブランシュを激しく想っている。それを純粋に愛と呼んでいいかはわからなかったが、誰にも渡したくないと思ったことは確かであった。
罪悪感もあった。ブランシュが言ったように、エレオノールに対するひどい裏切りだと思う。でも、もう……
(今さら離れるなど、できるものか)
キルデリクがブランシュに興味を抱き、結婚を申し込んだ時、それを彼女が断った時、ひどく安堵した。あんなに別れることを望んでいたのに、今では捨てられることを恐れる自分がいる。
「本来ならおまえなど歯牙にもかけられない存在であったことを、ようやく思い知らされた気分だろう?」
別れ際、キルデリクに嫌味交じりで告げられた言葉が忘れられない。
本来ブランシュが添い遂げる相手は、自分ではなく、彼のような王族だった。彼女がまともではなかったから、自分が選ばれただけ。本当なら、一生交わることのなかった人だ。
記憶を失った今、ブランシュはある意味正常に戻り、マティアスと結婚したことを後悔しているかもしれない。
ただの婚約であったら、きっと破棄していた。結婚してすでに純潔を失っていたから、今まで散々マティアスを傷つけてきたから、その責任をとるためにブランシュはマティアスのもとへ残ることを決めたのだ。
そんなふうに考えて、どうしようもなく胸が苦しくなった。
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