記憶を失った悪女は、無理矢理結婚させた夫と離縁したい。

りつ

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52、記憶を失った悪女

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「――シュ、ブランシュ!」

 ブランシュはまるで水の中から陸に上がったように大きく息を吸いこみ、咳き込んだ。

「ブランシュ!」

 泣きそうな顔で自分を見ている男はマティアスであった。

「マティアス……」

 一瞬ここがどこかわからず、昼間なのか夜なのか、どうして自分は彼のそばにいるのか、何もかも忘れてしまったが、すぐにルメール公爵の屋敷で、自分たちの寝室だということを思い出した。

 一日中抱き合って、いつの間にか気を失っていたらしい。身体は綺麗に清められ、暖かそうなナイトドレスを着ていた。

「ブランシュ」

 ぼんやりと状況を把握していると、マティアスがブランシュを抱きしめてきた。彼の身体は小刻みに震えていた。

「本当に、もう大丈夫なんですか」
「ええ。……わたくし、魘されていたの?」
「ひどく、苦しんでいる様子でした。かと思うと、私の名前を呟いて、安らかな表情になったので……まるで、そのまま天に昇ってしまうんじゃないかと思って、無理矢理起こしたんです」

 マティアスの触れる身体が熱い。自分より体温が高いせいだと思ったが、違う。今のブランシュの身体が、ひどく冷たくなっていたのだ。

「よかった、よかった、ブランシュ……」

 マティアスが涙を滲ませた声で何度もそう言うので、ブランシュも自分が本当に死の淵から生還したように思えた。

「ごめんなさい。心配させて……わたくしは大丈夫よ、マティアス」

 彼を宥めるように、背中を優しく撫でた。少しして落ち着いたのか、ばつが悪い顔をして彼は抱擁を解いた。

「すみません。私が、一日中無理をさせたから、それのせいですよね」
「それは……」

 違う、と言いかけたけれど、彼が自分を求めてくれたことで、もう思い残すことは何もないと思ったのかもしれない。

(だからブランシュは現れたのかしら……)

「ブランシュ。本当にすまなかった」

 自責の念に駆られるマティアスに、ブランシュは慌てる。

「いいの。あなたのせいじゃないわ」

 ブランシュが必死にそう述べると、マティアスはくしゃりと顔を歪めてまた抱きしめてきた。そして自身に言い聞かせるように、噛みしめるように告げられる。

「貴女は、私のものです」
「ええ。わたくしは、あなたのもの……」

 誰にも奪わせはしない。たとえ自分自身であっても――

「ねぇ、マティアス」
「はい」
「もし……わたくしが以前の記憶を取り戻したら、あなたはどうする?」
「どうするとは?」
「その、前のわたくしの我儘に振り回されるのは、嫌ではない?」

 マティアスはしばらく考え、抱擁を強めた。

「ええ、嫌ですね。……でも、きっともう、離れることはできないと思います」
「そう……」

 まるで呪いみたいだ。ブランシュと出会ってしまったことが、マティアスの不幸だった。できればこの縁を断ち切らせてあげたかったけれど……

「けれど今の貴女は、昔の貴女と違う」

 別人だ、という言葉にブランシュは思わず泣きそうになった。

「だから、悪女には戻らない?」
「ええ。貴女は、貴女のままだと信じます」
「あなたは相変わらずわたくしに優しくて、甘い」

 ブランシュはそれほどお行儀のいい人間ではない。善人であったならば、今のブランシュは生まれなかった。

「どうして突然そんなことを? ……記憶が、戻ったんですか」
「いいえ。まだ……何も思い出せないの」

 そうですか、とブランシュの言葉を素直に信じるマティアスの声はどこか安堵したようにも聞こえた。彼もまた怖いのかもしれない。

(わたくしにできることは、せめて彼が穏やかに過ごせるよう努力すること)

 二度と、マティアスを傷つけたくない。悲しませたくない。

「大丈夫よ、マティアス」

 ――もう二度と、記憶は戻らないから。

(あなたを傷つけるブランシュは、わたくしが殺してしまったから)

 もし、またマティアスを苦しませる自分になってしまったら、その時はもう一度、あの池に身を投げよう。

(ごめんなさい。お父様……)

 父との約束を破ることになっても、マティアスを不幸にさせたくない。決して道連れにはしない。自分は地獄に堕ちて、彼は幸せな道を歩み続ける。だからせめてそれまでは……

(あなたのそばにいさせて)

 あなたを愛させて、とブランシュは祈るように目を閉じた。

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