記憶を失った悪女は、無理矢理結婚させた夫と離縁したい。

りつ

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50、ブランシュ

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 ブランシュは真っ暗な闇の中にいた。ここはどこだろうと思っていると、すぐ目の前に赤みがかった金髪の女性の後ろ姿がある。腕を伸ばして振り向かせようとする前に、くるりと彼女は振り返った。

 ブランシュは息を呑む。

 目の前の女性は、自分そっくりの顔だったから。

(いいえ、違う。これは……)

 ブランシュだ。記憶を失う前の。

「ね、わたくしの言った通りになったでしょう?」

 ほら、声までそっくりである。間違いない。

「あなたは……ブランシュ?」

 ブランシュの問いかけに少女はころころと鈴を鳴らすように笑った。ああ、自分はこんなふうに無邪気に笑うのだと、ブランシュは内心衝撃を受けた。少女はひとしきり笑うと、にっこり口角を上げる。記憶前のせいなのか、今の自分より少し幼く見えた。

「ええ、わたくしはブランシュ」

 どうして彼女がここにいるのか。そもそもなぜこんな状況が生まれているのか。

 わからなかったが、ブランシュは話を続けることにした。

「さっきの……わたくしの言った通り、とはどういう意味なの」
「マティアスがわたくしのものになった、という意味に決まっているじゃない」

 ブランシュはしばし自分の顔を見つめ、やがてぽつりと真実を呟いた。

「彼は誰のものにもなっていないわ」
「いいえ。彼はわたくしのものよ。あんなにあなたに執着して、自らわたくしを抱いていたじゃない」

 くるくると踊るように身を翻しながら、ブランシュはほっそりとした手足を伸ばす。病気がちだった過去からは想像できないほどしなやかな動きであった。夢の中だからだろうか。

「……それは愛じゃないわ」
「いいえ。愛よ」

 目の前にきたブランシュは自身の顔をぐっと近づけ、白い頬をたおやかな手で挟む。ルビーのような輝きを放つ瞳は目が離せない妖しい光を宿していた。

「愛するから憎む心が生まれるの。憎いから愛するほどの激しい感情が生まれるの。同じことよ」
「同じじゃないわ」

 頑なに認めないブランシュに、彼女はくすりと笑みを零して、融通の利かない子を諭すように甘い声で囁いた。

「そうね。同じではないかもしれないわ。でもね、どちらでもいいの。彼の心が、わたくしに向いてさえいれば」
「……ずっとあなたに聞きたかったの」
「まぁ、なにかしら」
「どうして自殺なんかしたの?」

 彼女はきょとんとした顔でブランシュを見つめる。まるで何でそんなこと尋ねるの? という無垢な表情だった。

「そうすれば、マティアスがわたくしのことを愛してくれると思ったからよ」
「今まで散々酷いことをしておいて、それでも愛されると思ったの?」
「ええ」
「一歩間違えれば、死んでいたのかもしれないのよ」
「そうね……そうしたら、彼は優しい人だもの。罪悪感を抱いて、わたくしに辛く当たってしまったことをきっと後悔してくれるはずよ。それならそれで、彼の心には一生わたくしの存在が刻みつけられる。素敵ね」

 あまりにも自分勝手な、都合のいい考えにブランシュは言葉を失う。

「仮に……彼が悲しんでくれたとしても、今までの仕打ちを考えれば、ようやくあなたから解放されたと喜ぶんじゃないかしら」

 死んでせいせいしたと思うはずだ。

「うふふ。でも、わたくしは今もこうして生きている。そして彼はわたくしと離婚せず、あの女ともきっぱり別れを告げて、わたくしにずっとそばにいるよう誓わせた。ぜんぶ、わたくしの思い通りになったわ」
「どうして、あなたは……」

 妖艶に、そしてどこか無邪気さを纏いながら微笑む自分の姿に、ブランシュはやるせなさと、どうしようもない怒りを感じる。

「あなたの周りには、あなたの幸せを願ってくれる人がたくさんいたじゃない」

 優しい父親がいた。頼りになる兄がいた。母親のように接してくれる乳母がいた。ブランシュのためなら、悪に走る人間さえいたのだ。

「それなのにあなたは、そうした人たちをみんな、自分の駒としか見ていなかった……!」

 どうして、とブランシュは過去の自分を睨みつけた。

「マティアスの心が手に入らなくても、ありのままのあなたを愛してくれる人がきっといたはずよ。それでどうして満足しなかったの? どうして今自分を大切にしてくれる人の優しさに気づかないで、利用するなんて酷い真似ができるの? ねぇ、ブランシュ。あなたは傲慢だわ。あなたが幸せになる権利なんて、本当はこれっぽっちもないのよ……!」

 ブランシュは今までの不満や辛さをぶつけた。それはずっと、ずっと、ブランシュが思っていたことだった。

「まるでわたくしが幸せだったみたいな言い方をするのね」
「だってそうでしょう?」

 一体何が不満だったのだと顔を歪めるブランシュを、彼女はせせら笑う。

「あなたがそんなお利口なことを言えるのは、苦しんだ記憶がないからよ」

 ブランシュはじっと少女を見つめ返す。

「それはあなたが病気で苦しんでいた頃のこと?」
「そうよ。あの時の閉塞感や絶望を知らないから、周りがみんな優しかった、なんてきれいごと言えるのよ」
「……知らないわけじゃないわ。風邪を引いた時、少しだけ思い出したもの」
「はっ、あれで?」

 彼女は狂ったような笑い声を上げた。そうしてゾッとするほど冷ややかで、侮蔑の籠った目でブランシュを見据えた。

「あんなもの、一過性のものじゃない。せいぜい一日か二日、寝台に寝っ転がっていれば、治るわ。そんな症状と一緒にしないで」

 ブランシュが経験したのは、病気なんかじゃないと言いたげな口調であった。

「頑張れっていう優しい励ましが自分の無力さを突きつけられる残酷な言葉にしか聞こえなかった。頑張りたくても頑張れないの。心は誰よりも自由を望んでいるのに身体はそれを拒むの。ついてきてくれないの。そのもどかしさや歯痒さを、毎日、毎日、物心ついた時から何度も思い知らされて……ねぇ、ブランシュ。そうした苦しみを、あなたは本当にわかっているの?」

 わかっていないでしょう、と少女の顔や言葉は告げていた。そして彼女の言う通りだった。ブランシュはわかったつもりでいただけだ。誰にも理解できない、どろどろとした膿が少女の心に少しずつ蓄積されていって、深い闇を作り上げていた。それが記憶を失う前のブランシュだった。

(でも、だからといって……)

「誰かを傷つけていい理由にはならないわ」

 自分は可哀想だから何をしても許される。
 そんな考えは絶対に間違っている。

「マティアスやエレオノール様に対してあなたがやったことは、許されることじゃない。一人の青年の人生を狂わしてしまった責任は、あなたにある」
「わたくしは王女だもの。誰に、何をしたって、許されるのよ」

 パンッとブランシュは少女自分の頬を叩いていた。

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