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46、終わる日
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エレオノールがマティアスと会うのは舞踏会の最終日だと言っていた。今日がその日だった。
この日を迎えるまで、ブランシュは何度も胸が苦しくなって、気が狂いそうになって、必死で押し留めて、まさに生き地獄のような毎日であった。
でも、それも今日で終わる。終わってしまう。
「今夜は遅くなるかもしれませんから、先に寝ていてください」
「……ええ。わかったわ」
「どうしましたか?」
「いいえ。何でもなくてよ」
ブランシュは彼が家を出る時刻が迫るにつれて、落ち着きなく、何度もちらちらと夫の方を見てしまう。そうして新聞を畳み終えて椅子から立ち上がった彼に、ブランシュも勢いよく立ち上がった。マティアスが驚いたように瞠目する。彼女は慌てて誤魔化す。
「もう、出かけますの?」
「ええ」
「いつもより早いのではなくて?」
確かに、と彼は部屋の時計を見て同意する。
「ですが人と会う約束をしているので、早めに出かけます」
まるでエレオノールと会うのが待ちきれないと言われているようでブランシュは泣きたくなった。
「……わかったわ。気をつけて」
玄関まで見送り、マティアスの背中を見つめる。
「では、行ってきます」
今日、彼は帰って来ない。明け方近くか、あるいはそのまま王宮に泊まるかもしれない。二度とこの家には――
「マティアス」
ブランシュはとっさにマティアスの腕を掴んでいた。縋るように彼を見つめてしまった。
「どうされました?」
不思議そうにこちらを見下ろす夫の顔に、ブランシュは口を開き、言葉を発しようとして――やめた。
「……いいえ。どうか、お気をつけて」
「ええ。わかりました」
行ってきますと夫はブランシュの手を振り解き、出て行った。夫が乗った馬車が小さく、もう完全に見えなくなってしまっても、ブランシュは呆然とその場に突っ立っていた。追いかけていきたいのに身体は全く動かず、ひどい悪夢を見ている心地だった。
(行かないで……)
エレオノールに会わないで、とブランシュはとうとう最後まで言えなかった。
「あの、奥様。大丈夫ですか」
「ええ……」
ブランシュは刺繍をしても本を読んでも何も手につかず、心配するヴァネッサをよそに、ふらふらと外へと出ていた。
(今からでも、王宮へ行こうかしら……)
以前のブランシュなら、恥も外聞もなくマティアスを連れ戻そうとしただろう。いっそのこと記憶が戻ったとして、二人を激しく責め立てようか。裏切り者と罵って、みんなの前で二人の関係が暴露されれば……
(わたくしは結局、何も変わらないのね)
池の近くまで来ると、力尽きたようにブランシュは座り込み、顔を覆った。
見てもいないのにマティアスとエレオノールの逢瀬がありありと目に浮かび、胸をかきむしられるような苦しみに叫び出したくなった。
(マティアス……!)
肩を震わせ、彼女は嗚咽をかみ殺した。ぼたぼた涙があふれ、膝の上へ落ちていく。引き止めたいのにその資格がない自分の過去が恨めしかった。
そして、残酷なほど突きつけられた。
(マティアスも、エレオノール様も、こんな思いで引き裂かれたんだ……)
ブランシュが憎らしかった。どうして馬鹿なことをしたのだと詰りたかった。
こんなにも苦しい思いを味わわなければならないのならば、マティアスなんて好きになりたくなかった。一生他人のままがよかった。
――本当に?
ブランシュは手を離し、水面を覗き込む。涙で濡れた自分の顔がゆらゆらと揺れ、ブランシュへ問いかける。
「……そうね」
他人のままだなんて、たぶん無理だ。記憶を失くしたって、ブランシュは結局マティアスを好きになってしまったのだから。一生胸を焦がすことになっても、彼を想う気持ちをブランシュは捨てきれない。
「わたくしはマティアスが好き……愛している」
消え入りそうなほど小さな声で呟いた時――
「そういうことは、きちんと本人に伝えてください」
この日を迎えるまで、ブランシュは何度も胸が苦しくなって、気が狂いそうになって、必死で押し留めて、まさに生き地獄のような毎日であった。
でも、それも今日で終わる。終わってしまう。
「今夜は遅くなるかもしれませんから、先に寝ていてください」
「……ええ。わかったわ」
「どうしましたか?」
「いいえ。何でもなくてよ」
ブランシュは彼が家を出る時刻が迫るにつれて、落ち着きなく、何度もちらちらと夫の方を見てしまう。そうして新聞を畳み終えて椅子から立ち上がった彼に、ブランシュも勢いよく立ち上がった。マティアスが驚いたように瞠目する。彼女は慌てて誤魔化す。
「もう、出かけますの?」
「ええ」
「いつもより早いのではなくて?」
確かに、と彼は部屋の時計を見て同意する。
「ですが人と会う約束をしているので、早めに出かけます」
まるでエレオノールと会うのが待ちきれないと言われているようでブランシュは泣きたくなった。
「……わかったわ。気をつけて」
玄関まで見送り、マティアスの背中を見つめる。
「では、行ってきます」
今日、彼は帰って来ない。明け方近くか、あるいはそのまま王宮に泊まるかもしれない。二度とこの家には――
「マティアス」
ブランシュはとっさにマティアスの腕を掴んでいた。縋るように彼を見つめてしまった。
「どうされました?」
不思議そうにこちらを見下ろす夫の顔に、ブランシュは口を開き、言葉を発しようとして――やめた。
「……いいえ。どうか、お気をつけて」
「ええ。わかりました」
行ってきますと夫はブランシュの手を振り解き、出て行った。夫が乗った馬車が小さく、もう完全に見えなくなってしまっても、ブランシュは呆然とその場に突っ立っていた。追いかけていきたいのに身体は全く動かず、ひどい悪夢を見ている心地だった。
(行かないで……)
エレオノールに会わないで、とブランシュはとうとう最後まで言えなかった。
「あの、奥様。大丈夫ですか」
「ええ……」
ブランシュは刺繍をしても本を読んでも何も手につかず、心配するヴァネッサをよそに、ふらふらと外へと出ていた。
(今からでも、王宮へ行こうかしら……)
以前のブランシュなら、恥も外聞もなくマティアスを連れ戻そうとしただろう。いっそのこと記憶が戻ったとして、二人を激しく責め立てようか。裏切り者と罵って、みんなの前で二人の関係が暴露されれば……
(わたくしは結局、何も変わらないのね)
池の近くまで来ると、力尽きたようにブランシュは座り込み、顔を覆った。
見てもいないのにマティアスとエレオノールの逢瀬がありありと目に浮かび、胸をかきむしられるような苦しみに叫び出したくなった。
(マティアス……!)
肩を震わせ、彼女は嗚咽をかみ殺した。ぼたぼた涙があふれ、膝の上へ落ちていく。引き止めたいのにその資格がない自分の過去が恨めしかった。
そして、残酷なほど突きつけられた。
(マティアスも、エレオノール様も、こんな思いで引き裂かれたんだ……)
ブランシュが憎らしかった。どうして馬鹿なことをしたのだと詰りたかった。
こんなにも苦しい思いを味わわなければならないのならば、マティアスなんて好きになりたくなかった。一生他人のままがよかった。
――本当に?
ブランシュは手を離し、水面を覗き込む。涙で濡れた自分の顔がゆらゆらと揺れ、ブランシュへ問いかける。
「……そうね」
他人のままだなんて、たぶん無理だ。記憶を失くしたって、ブランシュは結局マティアスを好きになってしまったのだから。一生胸を焦がすことになっても、彼を想う気持ちをブランシュは捨てきれない。
「わたくしはマティアスが好き……愛している」
消え入りそうなほど小さな声で呟いた時――
「そういうことは、きちんと本人に伝えてください」
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