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45、エレオノール
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(あと少し……)
マティアスがエレオノールと会っているかもしれないと想像しては胸をかき乱していたブランシュだが、王宮での舞踏会の終わりが近づいてくるにつれて、もしかすると大丈夫なんじゃないかという楽観する心が生まれていた。
(考えてみれば、彼女は結婚しているんですもの)
だからどんなにマティアスと愛し合っても、それは王都にいる間の限られた時間のみ。終わってしまえば領地へと帰るのだ。
(だから大丈夫……)
ざわざわする心を必死で宥めながら、ブランシュは出かけて行ったマティアスに思いを馳せた。
「ふふ。奥様ってばそうしていると、まるで塔の上で王子様の助けを待つお姫様みたいですね」
窓際で肘をつき、物憂げに外を眺めるブランシュをヴァネッサはそう揶揄った。だがすぐにハッとする。
「あ、みたい、じゃなくて、奥様は本当にお姫様でしたね。ごめんなさい、わたしったら失礼なこと言ってしまって」
「いいのよ」
ヴァネッサの少々……と言っていいかわからないが、とにかく抜けたところにブランシュは救われていた。
彼女は記憶を失う前のブランシュについてはどうでもよいらしく、ただ給金がしっかり支払われればブランシュは良い人と映るそうだ。現金な子、と思いながらブランシュには有り難かった。
「わたくしが普通の貴族の娘だったら、どうなっていたかしらね」
父親がこの国の王であるためにマティアスと結婚することができた。もし彼と同じ貴族であったら、普通に失恋して終わったことだろう。それで彼ではなくて別の男性と……
(なんだか、それも上手く想像できないけれど……)
いろいろ文句を言いながら、独身を貫きそうでもあった。
(なんてね)
ありもしないことを考えていないで、取り上げられていた刺繍に挑戦しよう。そう思って腰を上げたブランシュは一台の馬車が敷地内に入ってくるのが見えた。
「あら、お客様みたいですね」
誰でしょう? と遅れて気づいたヴァネッサが興味津々の様子で外を眺める。玄関前に止まった馬車から一人の貴婦人が降りてくる。
遠目から見てもスタイルのいい美しい女性だ。ふと、彼女が顔を上げる。金色の髪に空色のような瞳――彼と同じ色にどきりとする。
一度も――少なくとも記憶を失ってからは会っていない。彼女がどんな容姿であるか、どんな顔立ちであるか、何一つ知らないのに、なぜかブランシュには相手が誰かわかった。
(エレオノール嬢……)
マティアスの元婚約者が自ら会いに来るとは、ブランシュもさすがに予想できなかった。
「――突然このようなかたちで押しかけてしまって申し訳ありません」
エレオノールは背筋を伸ばし、凛とした眼差しでブランシュを見つめた。
「本来ならば、事前に訪問することを伝え、伺ってよろしいか許可を得るべきでしたけれど……王女殿下は私にお会いしたくないだろうと思いましから」
長い睫毛に縁どられた水色の瞳にブランシュは耐え切れず伏せた。
「……それは、あなたの方ではなくて?」
声が震えないよう答えるのが精いっぱいであった。
「わたくしはあなたに対して……数え切れないほどの過ちを犯してきたのです。もう二度と、わたくしの顔を見たくはなかったはずです」
エレオノールは何か考え込むように黙り込んだが、やがて興味深そうにブランシュに言った。
「記憶を失くされたというのは、本当みたいですね」
恐る恐る顔を上げれば、エレオノールに怯えた様子はなく、ブランシュを睨むこともせず、ただ朗らかに微笑んでいる。
「舞踏会で耳にしましたの。ただの噂だろうと思っておりましたが……今の貴女を見ていると信じる方が正しいように思います」
どうして笑えるんだろう。愛する男を奪った女に。――それとも憎いからこそ、だろうか。誰よりも怒りを覚えているからだろうか。
「私の姿を一目見た時も、まるで幽霊でも見たかのように青ざめていましたもの」
「わたくしは……」
あなたが怖い、と心の中で呟く。今も手が震えて、必死で膝の上で誤魔化すように握りしめている。目を合わせるのが怖い。見つめられるのが怖い。逃げ出したくてたまらない。
「……以前とは、逆ですわね」
エレオノールはブランシュのことが恐ろしくてたまらなかったという。
「結婚して、遠くへ嫁いでも、また貴女が私から何かを奪うのではないかと思うと、怖くてたまりませんでした」
ブランシュは針の筵に座らされている心地になった。エレオノールの心地よい声で紡がれる過去にじわじわと息の根を止められていく。でも、逃げることは決して許されなかった。
「エレオノール様。今までの数々の非礼な振る舞い、本当に……申し訳ありませんでした」
謝っても、許されることではない。でも、言葉にして伝えないと、誠意すら感じられない。
「……今日、こちらへ参りましたのはルメール公爵のことでお願いしたいことがあったからですわ」
どきりとする。乾いた唇で、平静を装って尋ねる。
「彼とは、お会いになられましたの」
「姿だけは拝見しましたわ。けれど主人もおりますし、二人ではまだきちんと会っていません」
エレオノールの言葉が本当かどうかわからないが、ブランシュが少しほっとしたのも事実であった。
(辺境伯もご一緒していらっしゃるのね)
さすがに夫が同伴となると、逢瀬するのは難しいのだろう。
しかし次に発せられたエレオノールの言葉にブランシュは頭の中が真っ白になった。
「ブランシュ様に、マティアスと二人きりで会う許可を頂きたいのです」
何も考えられず、動揺のあまり声すら出ないブランシュに、エレオノールは困った顔をする。
「やはりダメでしょうか」
「……あなたの夫は、何と言っているの」
「主人も良いと言ってくれております」
嘘、とブランシュは叫び返したくなった。どこの世界に妻が元恋人と会うのを許す夫がいるものか。ブランシュなら、絶対に嫌だ。――普通だったら。
(もしかすると、辺境伯との結婚は何か事情があるのかもしれない)
いつかこんな日が来るための白い結婚、とか。
ブランシュは確かめることすら怖くて、決めつけた。
「……わかりました」
「よろしいのですか?」
「はい」
ブランシュがあまりにもあっさりと許可を出したので、エレオノールは困惑した様子で見つめてくる。
「本当に、よろしいのですか?」
「ええ。構わないわ」
エレオノールの夫は許している。なら、ブランシュが許さぬわけにはいかなかった。
(マティアスも、それを望んでいるもの……)
だから、と彼女は泣きそうな自分を胸の奥深くへ押し込め、毅然とした態度でエレオノールを見返した。
「わたくしのことは気にしなくていいから、思う存分、会うとよろしいわ」
「……王女殿下は変わられたのですね」
そう言って、エレオノールは屋敷を後にした。ブランシュはしばらく部屋に閉じ籠り、心配したヴァネッサが様子を見に来る。
「奥様。大丈夫ですか」
「ええ。大丈夫よ」
思いのほか落ち着いた態度で答えたブランシュを、ヴァネッサは怪しんで、無理をしていないかしつこく聞いてくる。ブランシュは大丈夫だと答え、家令を呼ぶよう伝えた。そうして今日のことはマティアスには告げないよう命じた。彼は従わないかと思ったが、素直にわかりましたと頭を下げた。
(マティアスが彼女と会うことを、もう知っていたのかもしれない……)
当初迎える花嫁がエレオノールだった。そしてブランシュと結婚してからもマティアスが忘れられなかった女性である。主人に同情してしまうのも無理はない。
しょせん自分は受け入れられない存在なのだ。
ブランシュはそう思い、笑った。
マティアスがエレオノールと会っているかもしれないと想像しては胸をかき乱していたブランシュだが、王宮での舞踏会の終わりが近づいてくるにつれて、もしかすると大丈夫なんじゃないかという楽観する心が生まれていた。
(考えてみれば、彼女は結婚しているんですもの)
だからどんなにマティアスと愛し合っても、それは王都にいる間の限られた時間のみ。終わってしまえば領地へと帰るのだ。
(だから大丈夫……)
ざわざわする心を必死で宥めながら、ブランシュは出かけて行ったマティアスに思いを馳せた。
「ふふ。奥様ってばそうしていると、まるで塔の上で王子様の助けを待つお姫様みたいですね」
窓際で肘をつき、物憂げに外を眺めるブランシュをヴァネッサはそう揶揄った。だがすぐにハッとする。
「あ、みたい、じゃなくて、奥様は本当にお姫様でしたね。ごめんなさい、わたしったら失礼なこと言ってしまって」
「いいのよ」
ヴァネッサの少々……と言っていいかわからないが、とにかく抜けたところにブランシュは救われていた。
彼女は記憶を失う前のブランシュについてはどうでもよいらしく、ただ給金がしっかり支払われればブランシュは良い人と映るそうだ。現金な子、と思いながらブランシュには有り難かった。
「わたくしが普通の貴族の娘だったら、どうなっていたかしらね」
父親がこの国の王であるためにマティアスと結婚することができた。もし彼と同じ貴族であったら、普通に失恋して終わったことだろう。それで彼ではなくて別の男性と……
(なんだか、それも上手く想像できないけれど……)
いろいろ文句を言いながら、独身を貫きそうでもあった。
(なんてね)
ありもしないことを考えていないで、取り上げられていた刺繍に挑戦しよう。そう思って腰を上げたブランシュは一台の馬車が敷地内に入ってくるのが見えた。
「あら、お客様みたいですね」
誰でしょう? と遅れて気づいたヴァネッサが興味津々の様子で外を眺める。玄関前に止まった馬車から一人の貴婦人が降りてくる。
遠目から見てもスタイルのいい美しい女性だ。ふと、彼女が顔を上げる。金色の髪に空色のような瞳――彼と同じ色にどきりとする。
一度も――少なくとも記憶を失ってからは会っていない。彼女がどんな容姿であるか、どんな顔立ちであるか、何一つ知らないのに、なぜかブランシュには相手が誰かわかった。
(エレオノール嬢……)
マティアスの元婚約者が自ら会いに来るとは、ブランシュもさすがに予想できなかった。
「――突然このようなかたちで押しかけてしまって申し訳ありません」
エレオノールは背筋を伸ばし、凛とした眼差しでブランシュを見つめた。
「本来ならば、事前に訪問することを伝え、伺ってよろしいか許可を得るべきでしたけれど……王女殿下は私にお会いしたくないだろうと思いましから」
長い睫毛に縁どられた水色の瞳にブランシュは耐え切れず伏せた。
「……それは、あなたの方ではなくて?」
声が震えないよう答えるのが精いっぱいであった。
「わたくしはあなたに対して……数え切れないほどの過ちを犯してきたのです。もう二度と、わたくしの顔を見たくはなかったはずです」
エレオノールは何か考え込むように黙り込んだが、やがて興味深そうにブランシュに言った。
「記憶を失くされたというのは、本当みたいですね」
恐る恐る顔を上げれば、エレオノールに怯えた様子はなく、ブランシュを睨むこともせず、ただ朗らかに微笑んでいる。
「舞踏会で耳にしましたの。ただの噂だろうと思っておりましたが……今の貴女を見ていると信じる方が正しいように思います」
どうして笑えるんだろう。愛する男を奪った女に。――それとも憎いからこそ、だろうか。誰よりも怒りを覚えているからだろうか。
「私の姿を一目見た時も、まるで幽霊でも見たかのように青ざめていましたもの」
「わたくしは……」
あなたが怖い、と心の中で呟く。今も手が震えて、必死で膝の上で誤魔化すように握りしめている。目を合わせるのが怖い。見つめられるのが怖い。逃げ出したくてたまらない。
「……以前とは、逆ですわね」
エレオノールはブランシュのことが恐ろしくてたまらなかったという。
「結婚して、遠くへ嫁いでも、また貴女が私から何かを奪うのではないかと思うと、怖くてたまりませんでした」
ブランシュは針の筵に座らされている心地になった。エレオノールの心地よい声で紡がれる過去にじわじわと息の根を止められていく。でも、逃げることは決して許されなかった。
「エレオノール様。今までの数々の非礼な振る舞い、本当に……申し訳ありませんでした」
謝っても、許されることではない。でも、言葉にして伝えないと、誠意すら感じられない。
「……今日、こちらへ参りましたのはルメール公爵のことでお願いしたいことがあったからですわ」
どきりとする。乾いた唇で、平静を装って尋ねる。
「彼とは、お会いになられましたの」
「姿だけは拝見しましたわ。けれど主人もおりますし、二人ではまだきちんと会っていません」
エレオノールの言葉が本当かどうかわからないが、ブランシュが少しほっとしたのも事実であった。
(辺境伯もご一緒していらっしゃるのね)
さすがに夫が同伴となると、逢瀬するのは難しいのだろう。
しかし次に発せられたエレオノールの言葉にブランシュは頭の中が真っ白になった。
「ブランシュ様に、マティアスと二人きりで会う許可を頂きたいのです」
何も考えられず、動揺のあまり声すら出ないブランシュに、エレオノールは困った顔をする。
「やはりダメでしょうか」
「……あなたの夫は、何と言っているの」
「主人も良いと言ってくれております」
嘘、とブランシュは叫び返したくなった。どこの世界に妻が元恋人と会うのを許す夫がいるものか。ブランシュなら、絶対に嫌だ。――普通だったら。
(もしかすると、辺境伯との結婚は何か事情があるのかもしれない)
いつかこんな日が来るための白い結婚、とか。
ブランシュは確かめることすら怖くて、決めつけた。
「……わかりました」
「よろしいのですか?」
「はい」
ブランシュがあまりにもあっさりと許可を出したので、エレオノールは困惑した様子で見つめてくる。
「本当に、よろしいのですか?」
「ええ。構わないわ」
エレオノールの夫は許している。なら、ブランシュが許さぬわけにはいかなかった。
(マティアスも、それを望んでいるもの……)
だから、と彼女は泣きそうな自分を胸の奥深くへ押し込め、毅然とした態度でエレオノールを見返した。
「わたくしのことは気にしなくていいから、思う存分、会うとよろしいわ」
「……王女殿下は変わられたのですね」
そう言って、エレオノールは屋敷を後にした。ブランシュはしばらく部屋に閉じ籠り、心配したヴァネッサが様子を見に来る。
「奥様。大丈夫ですか」
「ええ。大丈夫よ」
思いのほか落ち着いた態度で答えたブランシュを、ヴァネッサは怪しんで、無理をしていないかしつこく聞いてくる。ブランシュは大丈夫だと答え、家令を呼ぶよう伝えた。そうして今日のことはマティアスには告げないよう命じた。彼は従わないかと思ったが、素直にわかりましたと頭を下げた。
(マティアスが彼女と会うことを、もう知っていたのかもしれない……)
当初迎える花嫁がエレオノールだった。そしてブランシュと結婚してからもマティアスが忘れられなかった女性である。主人に同情してしまうのも無理はない。
しょせん自分は受け入れられない存在なのだ。
ブランシュはそう思い、笑った。
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