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44、池
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(まだ、寝ている……)
いつも必ずブランシュより早く目が覚めて起きているマティアスが、連日続く舞踏会の疲れのせいか、朝になってもぐっすりと寝入っていた。
ブランシュはしばし夫の寝顔を見つめていたが、やがて起こさぬようにそっと寝室を抜け出し、自分の部屋で着替えと朝食を済ませ、朝の散歩がてら庭を歩いた。
(もう、お会いになったのかしら……)
会っているだろうな、と漠然と思い、胸が痛んだ。賢明にその痛みに気づかぬ振りをして、けれど動揺は抑えきれなかったようで、彼女の足はいつの間にか水辺のあたりまで歩いていた。
(ひょっとしてここが……)
木立に隠されるようにして池の水面が見える。野生の花が植わっており、都会でありながら田舎の田園風景を思わせた。
ブランシュはこの池で、自殺を図ろうとした。
(ブランシュも、今のわたくしのような気持ちだったのかしら……)
好きな人がどうあっても自分を想ってくれないと知り、絶望する気持ち。その苦しみから逃れたくて、死へと逃れようとしたのか。
「まさか生き延びるなんて、思いもしなかったでしょうね……」
疲れて、そのまま茂みに座り込む。鳥の囀る音が遠くで聴こえ、明るい光に包まれているのに、ブランシュの心はどうしようもなく寂しかった。
(ねぇ、ブランシュ。わたくしはこれからどうすればいいの?)
まるで水面に映る自分の姿が記憶を失う前のブランシュに見えて、問いかけるように覗き込んだ時――勢いよく腕を引かれた。強制的に振り向かされて、その顔にブランシュは声を上げた。
「まぁ、マティアス」
彼は走ってきたのか、ひどく呼吸が乱れていた。
「どうしてここにっ……」
引き攣った表情と震える声にブランシュはハッとする。彼はまたブランシュが池に身を投げるのではないかと思ったのだ。
「ごめんなさい。少し、散歩しようと思って、考え事をしていたらここまで来てしまって……」
もう戻るわ、とブランシュを急いで帰ろうとした。それくらいマティアスの顔が青ざめていたからだ。しかし彼は力が抜けたようにその場に座り込み、片手でブランシュの手を離さぬまま、ゆっくりと息を吐いた。
「マティアス……」
おろおろとするブランシュをちらりと横目で見ると、彼は大丈夫ですと掠れた声で答えた。
「ただ起きて、貴女がそばにいなかったから……」
「本当にごめんなさい。疲れているだろうと思って、まだ寝かせてあげたくて」
でもこんなに心配させるなら、書置きでも残して出ればよかった。いや、そもそもここへ来なければよかった。
「この池……埋めようと思っているんです」
「え?」
顔を上げると、マティアスが力なく微笑んでいた。
「ほら、危ないでしょう? だから埋めて、木とか花とか植えて、石像とかも置いてしまえば、もう貴女は溺れたりしないでしょう?」
突然そんなことを提案するマティアスに、ブランシュは困惑する。
「わたくしはもうそんな馬鹿な真似はしないし、ここへも来ないわ。だからわざわざ池を壊さなくても……」
「いいえ。貴女がこの敷地内を自由にするのはいいんです。ただもう二度と、貴女が向こうに行ってしまわないように、また私のことを忘れたりしないように、気をつけないといけないんです」
ブランシュはなんだかマティアスの言い方に引っかかりを覚えたが、安堵したせいだろうと思って特に深く尋ねることはしなかった。どのみちこの屋敷の主は彼である。庭をどう作り変えようが、彼の自由だ。
「わかったわ。それより、あなた寝間着のままだわ。部屋へ戻りましょう」
ブランシュの指摘にマティアスははたと気づいたように自身の服装を見下ろし、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「そうですね。戻りましょう」
先に彼が立ち上がり、ブランシュへと手を伸ばす。こちらを見下ろすマティアスの顔は優しく微笑んでいる。いつまで彼は自分にこの笑みをくれるだろうかと思いながら、ブランシュは手を取った。
「それで、考え事、というのは何でしょうか」
てっきり聞き逃していたかと思ったが、マティアスは屋敷へ戻るまでしっかりと尋ねてきた。
「たいしたことじゃないの」
「それは聞いてみないとわかりません」
諦めてくれない様子にブランシュは小さくため息つき、おずおずと切り出す。
「刺繍が上手くできないから、どうしようって悩んでいたの」
なんだ、そんなことかとマティアスは安堵したように頬を緩ませた。
「貴女は今まで針など危ないからと持たせてもらえなかったんです。上手くできないのは当然です」
針で突き刺して包帯を巻いた箇所――ブランシュは大げさだと言ったがヴァネッサやマティアスが許さなかった、指をそっと撫でられる。
「今まではそれでよかったかもしれないけれど、これからはそうもいかないでしょう。……ううん。わたくしができるようになりたいの」
未来のことを前向きに話すブランシュに、マティアスも嬉しそうに、少し揶揄する口調で言った。
「誰かに、渡したいものでもあるんですか」
「……わたくしが渡したら、あなたは受け取ってくれる?」
「私にくれるんですか?」
思いもしなかった、というように言われるのが少し腹立たしい。
「他に渡す相手など、いないでしょう」
「ジョシュア陛下なら喜んで受け取ってくれると思いますよ」
「……あなたは?」
「ええ、もちろん。ありがたく頂戴いたします」
眩しい笑顔に、ブランシュは胸が締めつけられる。俯いた顔を恥ずかしがったと思ってマティアスが小さく笑う。その声が愛おしい。
(あげるわ。あなたになら、何もかも)
マティアスの心が手に入るなら、自分のすべてを差し出してでも構わない。
いつも必ずブランシュより早く目が覚めて起きているマティアスが、連日続く舞踏会の疲れのせいか、朝になってもぐっすりと寝入っていた。
ブランシュはしばし夫の寝顔を見つめていたが、やがて起こさぬようにそっと寝室を抜け出し、自分の部屋で着替えと朝食を済ませ、朝の散歩がてら庭を歩いた。
(もう、お会いになったのかしら……)
会っているだろうな、と漠然と思い、胸が痛んだ。賢明にその痛みに気づかぬ振りをして、けれど動揺は抑えきれなかったようで、彼女の足はいつの間にか水辺のあたりまで歩いていた。
(ひょっとしてここが……)
木立に隠されるようにして池の水面が見える。野生の花が植わっており、都会でありながら田舎の田園風景を思わせた。
ブランシュはこの池で、自殺を図ろうとした。
(ブランシュも、今のわたくしのような気持ちだったのかしら……)
好きな人がどうあっても自分を想ってくれないと知り、絶望する気持ち。その苦しみから逃れたくて、死へと逃れようとしたのか。
「まさか生き延びるなんて、思いもしなかったでしょうね……」
疲れて、そのまま茂みに座り込む。鳥の囀る音が遠くで聴こえ、明るい光に包まれているのに、ブランシュの心はどうしようもなく寂しかった。
(ねぇ、ブランシュ。わたくしはこれからどうすればいいの?)
まるで水面に映る自分の姿が記憶を失う前のブランシュに見えて、問いかけるように覗き込んだ時――勢いよく腕を引かれた。強制的に振り向かされて、その顔にブランシュは声を上げた。
「まぁ、マティアス」
彼は走ってきたのか、ひどく呼吸が乱れていた。
「どうしてここにっ……」
引き攣った表情と震える声にブランシュはハッとする。彼はまたブランシュが池に身を投げるのではないかと思ったのだ。
「ごめんなさい。少し、散歩しようと思って、考え事をしていたらここまで来てしまって……」
もう戻るわ、とブランシュを急いで帰ろうとした。それくらいマティアスの顔が青ざめていたからだ。しかし彼は力が抜けたようにその場に座り込み、片手でブランシュの手を離さぬまま、ゆっくりと息を吐いた。
「マティアス……」
おろおろとするブランシュをちらりと横目で見ると、彼は大丈夫ですと掠れた声で答えた。
「ただ起きて、貴女がそばにいなかったから……」
「本当にごめんなさい。疲れているだろうと思って、まだ寝かせてあげたくて」
でもこんなに心配させるなら、書置きでも残して出ればよかった。いや、そもそもここへ来なければよかった。
「この池……埋めようと思っているんです」
「え?」
顔を上げると、マティアスが力なく微笑んでいた。
「ほら、危ないでしょう? だから埋めて、木とか花とか植えて、石像とかも置いてしまえば、もう貴女は溺れたりしないでしょう?」
突然そんなことを提案するマティアスに、ブランシュは困惑する。
「わたくしはもうそんな馬鹿な真似はしないし、ここへも来ないわ。だからわざわざ池を壊さなくても……」
「いいえ。貴女がこの敷地内を自由にするのはいいんです。ただもう二度と、貴女が向こうに行ってしまわないように、また私のことを忘れたりしないように、気をつけないといけないんです」
ブランシュはなんだかマティアスの言い方に引っかかりを覚えたが、安堵したせいだろうと思って特に深く尋ねることはしなかった。どのみちこの屋敷の主は彼である。庭をどう作り変えようが、彼の自由だ。
「わかったわ。それより、あなた寝間着のままだわ。部屋へ戻りましょう」
ブランシュの指摘にマティアスははたと気づいたように自身の服装を見下ろし、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「そうですね。戻りましょう」
先に彼が立ち上がり、ブランシュへと手を伸ばす。こちらを見下ろすマティアスの顔は優しく微笑んでいる。いつまで彼は自分にこの笑みをくれるだろうかと思いながら、ブランシュは手を取った。
「それで、考え事、というのは何でしょうか」
てっきり聞き逃していたかと思ったが、マティアスは屋敷へ戻るまでしっかりと尋ねてきた。
「たいしたことじゃないの」
「それは聞いてみないとわかりません」
諦めてくれない様子にブランシュは小さくため息つき、おずおずと切り出す。
「刺繍が上手くできないから、どうしようって悩んでいたの」
なんだ、そんなことかとマティアスは安堵したように頬を緩ませた。
「貴女は今まで針など危ないからと持たせてもらえなかったんです。上手くできないのは当然です」
針で突き刺して包帯を巻いた箇所――ブランシュは大げさだと言ったがヴァネッサやマティアスが許さなかった、指をそっと撫でられる。
「今まではそれでよかったかもしれないけれど、これからはそうもいかないでしょう。……ううん。わたくしができるようになりたいの」
未来のことを前向きに話すブランシュに、マティアスも嬉しそうに、少し揶揄する口調で言った。
「誰かに、渡したいものでもあるんですか」
「……わたくしが渡したら、あなたは受け取ってくれる?」
「私にくれるんですか?」
思いもしなかった、というように言われるのが少し腹立たしい。
「他に渡す相手など、いないでしょう」
「ジョシュア陛下なら喜んで受け取ってくれると思いますよ」
「……あなたは?」
「ええ、もちろん。ありがたく頂戴いたします」
眩しい笑顔に、ブランシュは胸が締めつけられる。俯いた顔を恥ずかしがったと思ってマティアスが小さく笑う。その声が愛おしい。
(あげるわ。あなたになら、何もかも)
マティアスの心が手に入るなら、自分のすべてを差し出してでも構わない。
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