記憶を失った悪女は、無理矢理結婚させた夫と離縁したい。

りつ

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39、怖いほどの

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 ある昼下がり。ブランシュはルメール家の図書室に籠って、熱心にとある一冊の本を読み耽っていた。

「――シュ、ブランシュ」
「きゃっ」

 耳元で囁かれ、ブランシュは読んでいた本を落っことしそうになった。慌てて胸に抱きとめたものの、振り返って悪戯してきた相手を軽く睨んだ。

「マティアス。耳元で囁くのはやめてちょうだい」
「すみません。何度呼びかけても、聞こえていらっしゃらない様子でしたので」

 耳元に手を当てて、頬を染める妻を見ながら、マティアスはしれっとした調子で答える。

「何をそんなに熱心に読んでいたのですか」

 表紙を覗き込もうとするので、ブランシュはとっさに後ろに隠して見せないようにした。

「……」
「別に、たいした本ではないわ」
「たいした本ではないなら隠す必要はないのでは?」
「……」

 今度はブランシュが沈黙する番であった。マティアスはなぜ隠すのかわからないと不思議そうにしていたが、やがてああ、と合点のいった顔をする。

「もしかして、人に見せられないような本でもお読みに?」
「違うわよ!」

 なんでそんな本を真昼間から堂々と読むのだ。というかそんな本がこの屋敷にあるのか。

「隠されると、よけいに気になります」
「もう。わかったわよ……笑わないでね」

 そう言っておずおずと見せた本は最近中流階級の女性に向けて出版された家政本であった。

 料理や洗濯に関する家事だけでなく、茶会で人を招く際に注意することや使用人との付き合い方についてもこうした方がいい、という助言が書かれている。

「なぜ、これを?」
「……わたくしは知らないことが多いから、世間一般的にどういうのが正しいのか、知っておこうと思って勉強していたの」

 考えてみると、ブランシュは王女というやんごとなき身分であり、もともとは公爵家に嫁ぐ予定もなかった。貴族の奥方としての身につけることも、知る必要はないと教えてくれなかったのではないか。

「貴女はこんなこと、なさらなくていいのに」
「だめよ」

 ブランシュはきっぱりと言った。

「あなたの妻になったからには、きちんとその役目を果たしたいの」
「ブランシュ……」

 マティアスはしばし驚いたように自分を見ていたが、やがて近寄って、そっと抱きしめてきた。

「な、なに?」
「……いいえ。頑張ろうとしている貴女が、すごく……」
「すごく?」
「なんでしょうね」

 彼は誤魔化して、ブランシュの綺麗にまとめた髪の毛にちゅっとキスした。ごく自然にされたので彼女は遅れてどぎまぎする。

「でもたまには、息抜きも必要です」
「別に必要は……」
「ヴァネッサも心配していました」

 怯えがなくなったせいか、以前のような派手な失敗をしなくなったメイドの顔を思い浮かべ、ブランシュは言葉に詰まる。

「わかったわ。少し、休みます」
「……」
「なぁに? 休むのだから、いいでしょう?」
「いえ。私の言葉には躊躇いが生じたのに、メイドの言葉には素直に従うのだな、と思いまして」
「あなたって……」

 意外と面倒な性格なのね、と言いかけたがやめた。これはたぶん、やきもちとかそういうのとはまた違うだろうから。

「どこか、出かけますか」
「あなたは、どこか行きたいところある?」
「いいえ。私は特に……」

 じゃあいいわ、とブランシュは本を片付けながら言った。

「家でゆっくりしましょう」
「……どこかに出かけたいと思わないのですか」

 思わない……わけではない。いや、むしろ興味ならある。記憶を失う前のブランシュがマティアスと行きたかったという劇場や、庶民が出入りする喫茶店とやらにも足を運んでみたい。

 朝の静かな公園をただ二人で散策するのでも、ブランシュはきっと大満足する。でも――

「いろいろ学んで疲れてしまったから、今日はお部屋でお休みするわ」
「……では、今度の機会に」
「ええ。そうしましょう」

 にっこり笑って約束しても、マティアスはどこか探るような目つきでブランシュの後をついてくる。

「この後は、いかがなされますか」
「部屋でお昼寝でもしようかしら」
「貴女の部屋で?」

 隣に並び、そっと手を絡まされる。先ほどのキスはもちろん、こうしたさりげない触れ合いでも気を抜くと動揺しそうになり、ブランシュは顔の筋肉に力を入れて耐えた。

「ええ。あなたも、せっかく久しぶりのお休みなのだから身体を休ませるといいわ」

 溜まっていた分の仕事を片付けているのか、王宮からのマティアスの帰りは遅い。そしていつも眠そうに朝出かけて行く姿に、ブランシュは気がかりでもあったのだ。

 だから自室で、ゆっくりと休んでほしいと言ったのだが――

「では、寝室で一緒に休みましょう」

 前へつんのめりそうになり、ブランシュは夫の腕に支えられた。ありがとう、とお礼を言うのも忘れて、マティアスの顔をまじまじと見上げる。

「嫌ですか」
「い、一緒にお昼寝するの?」
「お昼寝、の前にしたいことがありますけれど……嫌ですか」

 ブランシュは目を丸くして、やがてじわじわと頬を赤くさせ、ぱくぱくと口を開いた。

「ブランシュ」

 夫の胸に頭を預け、彼女は「嫌じゃないわ……」と小さな声で呟いた。

「じゃあ、いきましょう」

 優しい声で促され、手を繋いで夫婦の寝室へ導かれる。扉が閉まると同時にマティアスは腰を屈んでブランシュの唇を奪った。

 彼女はせめて寝台まで待ってほしいとお願いしたかったが、息もつかせぬ接吻と巧みな舌使いに何も考えられなくなってしまう。

 ぼうっと潤んだ目で自分を見つめる妻に、マティアスは満足そうに微笑み、軽々と彼女を抱き上げ、寝台の方へと連れて行く。

 後ろで結んでいたリボンをしゅるりと解かれ、優しく寝かせられると、腰まであるストロベリーブロンドが波打つようにシーツに散らばった。片手でネクタイを緩めながら、自分を見下ろす瞳にぞくりとする。

(あぁ、もうだめだ……)

 マティアスに求められている。そう思うと、ブランシュはもう逆らえなかった。彼にすべてを明け渡してしまう。

 服を丁寧に脱がされ、気が狂うほどの愛撫を施され、ブランシュの中へ繋がりを求めてマティアスがゆっくりと入って来ても拒むことはできない。

「ん……」
「ブランシュ……」

 彼に優しく口づけされ、愛おしむように名前を呼ばれると、ブランシュは泣きそうになる。気がついた彼に目元をそっと撫でられる。

「私にこうされるのは嫌ですか」

 嫌じゃない。嫌なはずない。どうしようもなく気持ちよくて、もっと欲しくなる。

(こんなこと、思う資格ないのに……)

 マティアスに抱かれる度、ブランシュは罪悪感で心が軋む。エレオノールやあの男性を不幸にして今自分は幸せを感じている。恐ろしい。怖い。

(いつか、彼がわたくしのもとから……)

 考え事をするブランシュに、マティアスが彼女の弱い所を責める。

「ぁっ、ん、マティアス……!」

 声を必死に抑えながら、ブランシュは夫の名前を繰り返した。マティアスはその度に苦しげな表情をしてブランシュを激しく揺さぶり、日が落ちて、夜が訪れてからも、彼女を手放さなかった。


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