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37、家令の願い
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「奥様のお世話をさせてもらいます。ヴァネッサです。よ、よろしくお願いします」
「ええ、よろしくね」
「は、はい!」
そばかすの散った、まだ少女とも言える女性はブランシュを前にしてひどく緊張していた。
(わたくしの前の所業を知っているから、もあるでしょうね)
というかそれが一番の理由であろう。
「あ、あの、奥様。わたし、鈍くさいところもありますが一生懸命働きますので、どうか見捨てないでください……!」
(うーん……)
この怯えよう……間違いない。先輩使用人たちにあれこれ吹き込まれたのだろう。
「ヴァネッサ」
「は、はい! 何でしょうか。喉が渇きましたか? あ、お召し物が気に入りませんでしたか? それとも何か御入用で……はっ、宝石商をお呼びするんですね? わたし気がつきませんで! 今すぐ手配を……」
「とりあえず用ができたら呼ぶから、それまで一人にさせてちょうだい」
ヴァネッサはポカンと鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、ブランシュが「聞いている?」と言えば、「はいいっ」と大きな声で返事をして、逃げるように部屋を後にした。
(そんなに怯えなくても……)
幼気な少女を虐めてしまったようで罪悪感に駆られる。こんなんで明日から上手くやっていけるだろうか。やはり王宮で世話をしていてくれた侍女を一人くらい連れてきた方がよかっただろうか。
(ううん。彼女たちだって、わたくしについてきたいとは思わなかったはずよ……)
ただ父や兄から命じられて世話をしていたにすぎない。強い主従関係、信頼があれば降嫁した王女に付き添う者もいるが……ブランシュの場合は誰一人名乗り出なかった。
(乳母のイネスは、田舎へ帰されてしまったものね……)
世話をする、と言われても彼女の年齢を考えるとそろそろ体力的にきついだろう。自分のことなど忘れて田舎でのんびり暮らしている方がいい。それは侍女にもいえた。もともとみなそれなりの家柄の娘である。あのまま王宮で働き続けた方が将来の伴侶にも巡り合えるだろう。
だからこれでいいのだ。
(頑張ろう……)
そう思ってブランシュは……まず家令を呼ぶことにした。
「――奥様。お呼びでございますか」
「ええ。その……妻となったわたくしは何をすればいいのかしら」
「奥様がなさりたいことを自由になさってください」
「……以前のわたくしは、どういうふうに過ごしていたのかしら」
記憶喪失、ということは予め使用人たちにも伝えられている。その方が混乱が少ないのと、ブランシュに対する言動には十分気を配るように、というマティアスの配慮でもある。もちろんブランシュの記憶に関しては他言無用であると約束させ、違えた者は解雇すると言い渡していた。
つくづく、マティアスには頭が上がらない思いであった。だから少しでも彼に報いたい。公爵夫人としての義務を果たしたい。
(まずは現状把握よ)
そう思って家令に尋ねたわけだが――
「以前の奥様は宝石商やドレスのデザイナー、仕立屋、靴屋、美術商人や宮廷画家、それから……」
「も、もういいわ」
要は買い物三昧だったらしい。
(宮廷画家って……)
マティアスと自分の肖像画でも描こうとしていたのだろうか。
「他には、何をしていたの?」
「公爵邸の庭をご覧になられて、後は自室で過ごされていました」
「どこかに出かけたりはしなかったの?」
やっと王宮の外へ出られたのだ。観劇や舞踏会に参加しそうなものであるが。
「旦那様とご一緒でなければ嫌だとおっしゃられていましたので……」
「なるほど」
台詞だけ聞くと健気な新妻である。
(マティアスの立場からすれば冗談じゃない、って感じだったんでしょうけれど)
「じゃあ、お友達とかも、いなかった、ということね?」
「私たちが存じ上げないだけで、もしかしたらこっそりといらっしゃったのかもしれません」
淡々と述べられる気遣いが逆に辛い。
「とりあえず状況はわかったわ」
それで、だ。
「わたくしは何をすればいいのかしら?」
「お好きなように、と旦那様からも言付かっております」
マティアスの言う通りにしろ、という圧を感じる。気のせいかもしれないが。
「好きなように、というならば、わたくし、貴族の妻が一般的に行うことをやってみたいわ。あなた、教えてちょうだい」
これでどうだ、というように見れば、相手は素直に「かしこまりました」と了承する。
「先代の奥様を例に挙げますと、舞踏会などに参加した時の相手へのお礼状を書いたり、茶会に参加する、あるいはこちらからお招きして交友関係を深めたり、テーブルをどのようにセッティングするか、ああ、その際使用する食器などにも気を遣われて」
「ちょ、ちょっと待って。そんなにいっぺんに言われても覚えられないから、書き留めるわ」
ブランシュが熱心にメモを取り始めると、家令はほんの少しだけ目を丸くしたが、すぐにもう一度始めから言い直してくれた。
「――とまぁ、だいたいこういったところでしょうか」
「……大変ね」
わたくしにできるかしら、とブランシュは箇条書きで書き連ねた要項を見て気持ちが沈んでいく。
「人には得意不得意がありますので、奥様がすべてを担う必要はありません。少しずつ、できるところから覚えていかれてはいかがでしょうか」
「そう言ってもらえると、助かるわ。ありがとう」
疲れた声でお礼を述べると、家令は黙り込んだ。
「何か?」
「いえ、本当に以前とは違うのだと思いまして」
黙り込んだブランシュに、「失礼いたしました」と彼は謝る。
「ブランシュ様。いろいろ申し上げましたが、奥方に一番求められることは、旦那様を支えてくださることです」
「支える……」
「マティアス様を愛し、大切になさってくれるのならば、私たちが望むことはそれ以上ありません」
どうかお願いします、と頭を下げられてしまった。
「ええ、よろしくね」
「は、はい!」
そばかすの散った、まだ少女とも言える女性はブランシュを前にしてひどく緊張していた。
(わたくしの前の所業を知っているから、もあるでしょうね)
というかそれが一番の理由であろう。
「あ、あの、奥様。わたし、鈍くさいところもありますが一生懸命働きますので、どうか見捨てないでください……!」
(うーん……)
この怯えよう……間違いない。先輩使用人たちにあれこれ吹き込まれたのだろう。
「ヴァネッサ」
「は、はい! 何でしょうか。喉が渇きましたか? あ、お召し物が気に入りませんでしたか? それとも何か御入用で……はっ、宝石商をお呼びするんですね? わたし気がつきませんで! 今すぐ手配を……」
「とりあえず用ができたら呼ぶから、それまで一人にさせてちょうだい」
ヴァネッサはポカンと鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、ブランシュが「聞いている?」と言えば、「はいいっ」と大きな声で返事をして、逃げるように部屋を後にした。
(そんなに怯えなくても……)
幼気な少女を虐めてしまったようで罪悪感に駆られる。こんなんで明日から上手くやっていけるだろうか。やはり王宮で世話をしていてくれた侍女を一人くらい連れてきた方がよかっただろうか。
(ううん。彼女たちだって、わたくしについてきたいとは思わなかったはずよ……)
ただ父や兄から命じられて世話をしていたにすぎない。強い主従関係、信頼があれば降嫁した王女に付き添う者もいるが……ブランシュの場合は誰一人名乗り出なかった。
(乳母のイネスは、田舎へ帰されてしまったものね……)
世話をする、と言われても彼女の年齢を考えるとそろそろ体力的にきついだろう。自分のことなど忘れて田舎でのんびり暮らしている方がいい。それは侍女にもいえた。もともとみなそれなりの家柄の娘である。あのまま王宮で働き続けた方が将来の伴侶にも巡り合えるだろう。
だからこれでいいのだ。
(頑張ろう……)
そう思ってブランシュは……まず家令を呼ぶことにした。
「――奥様。お呼びでございますか」
「ええ。その……妻となったわたくしは何をすればいいのかしら」
「奥様がなさりたいことを自由になさってください」
「……以前のわたくしは、どういうふうに過ごしていたのかしら」
記憶喪失、ということは予め使用人たちにも伝えられている。その方が混乱が少ないのと、ブランシュに対する言動には十分気を配るように、というマティアスの配慮でもある。もちろんブランシュの記憶に関しては他言無用であると約束させ、違えた者は解雇すると言い渡していた。
つくづく、マティアスには頭が上がらない思いであった。だから少しでも彼に報いたい。公爵夫人としての義務を果たしたい。
(まずは現状把握よ)
そう思って家令に尋ねたわけだが――
「以前の奥様は宝石商やドレスのデザイナー、仕立屋、靴屋、美術商人や宮廷画家、それから……」
「も、もういいわ」
要は買い物三昧だったらしい。
(宮廷画家って……)
マティアスと自分の肖像画でも描こうとしていたのだろうか。
「他には、何をしていたの?」
「公爵邸の庭をご覧になられて、後は自室で過ごされていました」
「どこかに出かけたりはしなかったの?」
やっと王宮の外へ出られたのだ。観劇や舞踏会に参加しそうなものであるが。
「旦那様とご一緒でなければ嫌だとおっしゃられていましたので……」
「なるほど」
台詞だけ聞くと健気な新妻である。
(マティアスの立場からすれば冗談じゃない、って感じだったんでしょうけれど)
「じゃあ、お友達とかも、いなかった、ということね?」
「私たちが存じ上げないだけで、もしかしたらこっそりといらっしゃったのかもしれません」
淡々と述べられる気遣いが逆に辛い。
「とりあえず状況はわかったわ」
それで、だ。
「わたくしは何をすればいいのかしら?」
「お好きなように、と旦那様からも言付かっております」
マティアスの言う通りにしろ、という圧を感じる。気のせいかもしれないが。
「好きなように、というならば、わたくし、貴族の妻が一般的に行うことをやってみたいわ。あなた、教えてちょうだい」
これでどうだ、というように見れば、相手は素直に「かしこまりました」と了承する。
「先代の奥様を例に挙げますと、舞踏会などに参加した時の相手へのお礼状を書いたり、茶会に参加する、あるいはこちらからお招きして交友関係を深めたり、テーブルをどのようにセッティングするか、ああ、その際使用する食器などにも気を遣われて」
「ちょ、ちょっと待って。そんなにいっぺんに言われても覚えられないから、書き留めるわ」
ブランシュが熱心にメモを取り始めると、家令はほんの少しだけ目を丸くしたが、すぐにもう一度始めから言い直してくれた。
「――とまぁ、だいたいこういったところでしょうか」
「……大変ね」
わたくしにできるかしら、とブランシュは箇条書きで書き連ねた要項を見て気持ちが沈んでいく。
「人には得意不得意がありますので、奥様がすべてを担う必要はありません。少しずつ、できるところから覚えていかれてはいかがでしょうか」
「そう言ってもらえると、助かるわ。ありがとう」
疲れた声でお礼を述べると、家令は黙り込んだ。
「何か?」
「いえ、本当に以前とは違うのだと思いまして」
黙り込んだブランシュに、「失礼いたしました」と彼は謝る。
「ブランシュ様。いろいろ申し上げましたが、奥方に一番求められることは、旦那様を支えてくださることです」
「支える……」
「マティアス様を愛し、大切になさってくれるのならば、私たちが望むことはそれ以上ありません」
どうかお願いします、と頭を下げられてしまった。
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