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36、戻ってきた公爵邸
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話も終わり、キルデリクは引き留めることもなく、ブランシュをあっさりと帰してくれた。無事に見合いの話にけりをつけることができて、彼女はほっとする。部屋に戻ると、安堵からその場に座り込んでしまった。
(よかった……)
これで自分は――
「ブランシュ」
マティアスの声に、ブランシュはゆっくりと振り返る。彼は床に座り込んだブランシュを見ると目を丸くして、慌ててこちらへ駆け寄った。跪き、同じ目線になってどこか具合でも悪いのかと尋ねてくる。
マティアスの顔をブランシュはぼんやりと見つめた。
「ブランシュ?」
「あ……いいえ。大丈夫よ。殿下とお話して、無事に済んだから、少しほっとしてしまったの」
いけない。しっかりしなくては、と思って立ち上がったブランシュをマティアスが後ろから抱きしめてきた。
「マティアス?」
「……キルデリク殿下のもとへ、嫁がれるのですか」
思いもしなかった言葉に、ブランシュは後ろを振り返る。マティアスの顔は俯いてよく見えなかったけれど、お腹に回された手が微かに震えていることから不安になっているのは感じられた。
「そんなこと、するはずがないでしょう」
そっと彼の手に自分の掌を重ねる。
「わたくしはあなたと結婚している。だから殿下の求婚はお受けできない。断るために、わたくしは彼とお会いして、話をつけてきたのですから」
「……申し訳ありません」
マティアスは抱擁を緩め、顔を上げる。ブランシュも身体を彼の方へ向けた。改めて見ると、やっぱりどこか落ち込んだ表情をしている。柔和な顔立ちのせいか、まるで主人に叱られた飼い犬のようにも見えた。
「それは何に対しての謝罪なの?」
「貴女を、信じていないわけでありません。ですが、相手は隣国の王子であり、次期国王となるお方。そんな方から求婚されれば、貴女でも断ることはできないかもしれない……どうしようもなく、不安になってしまったのです」
項垂れるマティアスをブランシュはしばらくじっと見ていたが、やがて固く握りしめられた彼の手を再び手に取り、両手で包み込んだ。
「わたくしはこう見えても、王女です。一度交わした約束を違えることは、絶対にしません」
それに、と思う。
「あなたの顔を見て、わたくしも安心したのです」
「安心……」
「はい。あなたのもとを離れずに済んだのだと……」
ブランシュも、マティアスと別れたくなかったのだ。
「わたくしは、あなたの妻なのでしょう?」
自信を持ってそう言いたかったけれど、知らず声が震えて、心細く聴こえてしまう。不安なのはブランシュも同じだった。彼が今こうして自分を望んでくれる――たとえそれが仕方がない成行きゆえ、だったとしても、選んでくれたことに喜び、同時にいつか突き放されるのではないかと考えない日はない。
「ええ。私は貴女の夫です」
抱きしめられる温もりも、いつか手放さないといけないかもしれない。
(それでも、今だけは……)
「家に、帰りましょう」
「ええ」
許してほしい、と彼女は目を瞑った。
ルメール公爵家は、王宮から近く、また土地の広さも屋敷の大きさも、貴族の中では群を抜いて素晴らしかった。
(ここが、マティアスの生まれ育った家……)
そしてほんの少しの間であったが、ブランシュが王宮を出て、嫁いできた場所。
「お帰りなさい、旦那様、奥様」
家令や使用人たちに出迎えられ、彼女は思わず緊張が走る。兄のジョシュアの話によると、ブランシュは彼らからよく思われていない。
「ブランシュ。部屋に行こう」
「え、ええ」
固まるブランシュを、マティアスが率先して案内しようとする。その親密な様子に、メイドの何人かが目を丸くするのを、ブランシュは確かに見た。
(驚くのも無理ないわ……)
あの王女を今や労わるように接しているのだから。一体何が起こったのか、不思議でたまらないだろう。
「疲れましたか」
歩きながらそっと話しかけられ、ブランシュは横目でマティアスを見上げる。
「いいえ。大丈夫よ」
「部屋で少しお休みになってください」
「そうね……」
いいのかな、と思いつつ、部屋に着いた。ブランシュに宛がわれた私室である。ガチャ、と白い扉を開かれ、飛び込んできた光景に小さく息を呑む。
(まぁ。すてき……)
少し灰色がかった水色の壁紙に大きな窓からは陽光がたっぷりと降り注ぎ、レースのカーテンをはためかせながら、柔らかい曲線を描く白い家具たちを眩しく輝かせている。清潔感の漂う、可愛らしい室内は、ブランシュの好みに合っていた。
「気に入りましたか?」
「ええ。とても……」
窓際やチェストの上に飾られた素朴な花も、ブランシュは好きだと思った。
(ここで、ブランシュも暮らしていたんだ……)
「貴女が戻ってくると決まって、壁紙や家具も新しく取り替えたんです」
「えっ、そうなの?」
「はい。以前の貴女は、王宮から持ち込んだ家具を使っていらっしゃったのですが……そちらの方がよろしかったですか?」
「いえ、それは構わないけれど……」
わざわざ替えたことにブランシュはどう反応すればいいかわからなかった。
「前と同じだと、嫌なことを思い出してしまうかもしれませんし、王宮にいるようで、落ち着かないかと思いまして……」
マティアスは今のブランシュのことを考えてくれたのだとわかり、彼女は胸が熱くなった。
「ありがとう、マティアス。いろいろ気を遣ってくれて……嬉しいわ」
「いえ、他にも何かご要望があれば、遠慮なくおっしゃってください」
もう十分だ、と彼女は言いかけたが、「旦那様」と外から声をかけられ言い損ねた。
「なんだ」
「お食事はどうなされますか」
「軽いものをこの部屋に持って来てくれ」
「かしこまりました。それから……」
外出していた間、溜まっていた用件があるのだろう。マティアスは少し待っていてくださいと言い残すと、部屋を出て行った。一人になったブランシュは猫脚のついた肘掛け椅子へと腰を下ろし、ふうと息をつく。
(これから、上手くやっていけるのかしら……)
やるしかない、と思っても、やはり不安は付き纏うものであった。
(よかった……)
これで自分は――
「ブランシュ」
マティアスの声に、ブランシュはゆっくりと振り返る。彼は床に座り込んだブランシュを見ると目を丸くして、慌ててこちらへ駆け寄った。跪き、同じ目線になってどこか具合でも悪いのかと尋ねてくる。
マティアスの顔をブランシュはぼんやりと見つめた。
「ブランシュ?」
「あ……いいえ。大丈夫よ。殿下とお話して、無事に済んだから、少しほっとしてしまったの」
いけない。しっかりしなくては、と思って立ち上がったブランシュをマティアスが後ろから抱きしめてきた。
「マティアス?」
「……キルデリク殿下のもとへ、嫁がれるのですか」
思いもしなかった言葉に、ブランシュは後ろを振り返る。マティアスの顔は俯いてよく見えなかったけれど、お腹に回された手が微かに震えていることから不安になっているのは感じられた。
「そんなこと、するはずがないでしょう」
そっと彼の手に自分の掌を重ねる。
「わたくしはあなたと結婚している。だから殿下の求婚はお受けできない。断るために、わたくしは彼とお会いして、話をつけてきたのですから」
「……申し訳ありません」
マティアスは抱擁を緩め、顔を上げる。ブランシュも身体を彼の方へ向けた。改めて見ると、やっぱりどこか落ち込んだ表情をしている。柔和な顔立ちのせいか、まるで主人に叱られた飼い犬のようにも見えた。
「それは何に対しての謝罪なの?」
「貴女を、信じていないわけでありません。ですが、相手は隣国の王子であり、次期国王となるお方。そんな方から求婚されれば、貴女でも断ることはできないかもしれない……どうしようもなく、不安になってしまったのです」
項垂れるマティアスをブランシュはしばらくじっと見ていたが、やがて固く握りしめられた彼の手を再び手に取り、両手で包み込んだ。
「わたくしはこう見えても、王女です。一度交わした約束を違えることは、絶対にしません」
それに、と思う。
「あなたの顔を見て、わたくしも安心したのです」
「安心……」
「はい。あなたのもとを離れずに済んだのだと……」
ブランシュも、マティアスと別れたくなかったのだ。
「わたくしは、あなたの妻なのでしょう?」
自信を持ってそう言いたかったけれど、知らず声が震えて、心細く聴こえてしまう。不安なのはブランシュも同じだった。彼が今こうして自分を望んでくれる――たとえそれが仕方がない成行きゆえ、だったとしても、選んでくれたことに喜び、同時にいつか突き放されるのではないかと考えない日はない。
「ええ。私は貴女の夫です」
抱きしめられる温もりも、いつか手放さないといけないかもしれない。
(それでも、今だけは……)
「家に、帰りましょう」
「ええ」
許してほしい、と彼女は目を瞑った。
ルメール公爵家は、王宮から近く、また土地の広さも屋敷の大きさも、貴族の中では群を抜いて素晴らしかった。
(ここが、マティアスの生まれ育った家……)
そしてほんの少しの間であったが、ブランシュが王宮を出て、嫁いできた場所。
「お帰りなさい、旦那様、奥様」
家令や使用人たちに出迎えられ、彼女は思わず緊張が走る。兄のジョシュアの話によると、ブランシュは彼らからよく思われていない。
「ブランシュ。部屋に行こう」
「え、ええ」
固まるブランシュを、マティアスが率先して案内しようとする。その親密な様子に、メイドの何人かが目を丸くするのを、ブランシュは確かに見た。
(驚くのも無理ないわ……)
あの王女を今や労わるように接しているのだから。一体何が起こったのか、不思議でたまらないだろう。
「疲れましたか」
歩きながらそっと話しかけられ、ブランシュは横目でマティアスを見上げる。
「いいえ。大丈夫よ」
「部屋で少しお休みになってください」
「そうね……」
いいのかな、と思いつつ、部屋に着いた。ブランシュに宛がわれた私室である。ガチャ、と白い扉を開かれ、飛び込んできた光景に小さく息を呑む。
(まぁ。すてき……)
少し灰色がかった水色の壁紙に大きな窓からは陽光がたっぷりと降り注ぎ、レースのカーテンをはためかせながら、柔らかい曲線を描く白い家具たちを眩しく輝かせている。清潔感の漂う、可愛らしい室内は、ブランシュの好みに合っていた。
「気に入りましたか?」
「ええ。とても……」
窓際やチェストの上に飾られた素朴な花も、ブランシュは好きだと思った。
(ここで、ブランシュも暮らしていたんだ……)
「貴女が戻ってくると決まって、壁紙や家具も新しく取り替えたんです」
「えっ、そうなの?」
「はい。以前の貴女は、王宮から持ち込んだ家具を使っていらっしゃったのですが……そちらの方がよろしかったですか?」
「いえ、それは構わないけれど……」
わざわざ替えたことにブランシュはどう反応すればいいかわからなかった。
「前と同じだと、嫌なことを思い出してしまうかもしれませんし、王宮にいるようで、落ち着かないかと思いまして……」
マティアスは今のブランシュのことを考えてくれたのだとわかり、彼女は胸が熱くなった。
「ありがとう、マティアス。いろいろ気を遣ってくれて……嬉しいわ」
「いえ、他にも何かご要望があれば、遠慮なくおっしゃってください」
もう十分だ、と彼女は言いかけたが、「旦那様」と外から声をかけられ言い損ねた。
「なんだ」
「お食事はどうなされますか」
「軽いものをこの部屋に持って来てくれ」
「かしこまりました。それから……」
外出していた間、溜まっていた用件があるのだろう。マティアスは少し待っていてくださいと言い残すと、部屋を出て行った。一人になったブランシュは猫脚のついた肘掛け椅子へと腰を下ろし、ふうと息をつく。
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