記憶を失った悪女は、無理矢理結婚させた夫と離縁したい。

りつ

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28、知らない世界、雨宿り

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 翌日。細長いテーブルに、向かい合って朝食をとりながら、ブランシュはマティアスから馬に乗って湖まで行くことを告げられた。

「わたくし、馬になんて乗ったことないわ」
「私の馬に一緒に乗ります」

 それならばなおさら、と彼女は渋ったが、いろいろ言うとまた雰囲気が悪くなると恐れ、黙って従うことにした。

(こ、怖い)

「下を向かず、真っ直ぐ前を向いてください」

 耳元で囁かれるのも、心臓に悪かった。ブランシュを落とさないようぴったりと密着されるのも。おかげで最初は景色どころではなかったが、次第にブランシュは落ち着き、馬で駆け抜けていく爽快感、鼻腔や胸いっぱいに広がる清澄な空気、緑と青の美しい自然の光景に目を奪われ、鬱屈とした心が晴れていく気がした。

 湖のほとりに着くと、馬から下される。近くの木に馬を繋ぎ、マティアスは少し歩こうと手を差し出した。

「……こんな場所があるなんて、わたくし、全く知らなかったわ」

 湖の水面はまるで巨大な鏡のようだった。陽光できらきらと輝き、水の中にもう一つの世界が映し出されている。

(ああ、ブランシュが見てきた世界はとても狭かったんだわ……)

 王女という身分でありながら、この広い世界と比べればなんとちっぽけな存在であるか。彼女はきっと知らなかった。世界はすべて自分のものだと傲慢にも思っていた。

「陛下は視察などで王都を離れることもあったのでしょう? わたくしにはそういったこと、なかったのかしら」
「病気がちだったこともあり、外出することはほぼ禁じられていました」
「病気が治っても?」
「……ええ」

 ブランシュの性格では問題を起すと思われていたかもしれない。

「貴女は、王女ですから」

 危険な目に遭わせられない。嫁いでもいない娘が異性に顔を晒すことはよくない。そういったいくつもの理由でブランシュは外へ出ることを許されなかった。

(彼女の我儘は、自由になれない鬱屈さも原因だったのかもしれない……)

 もっと身体が丈夫だったら、ジョシュアの妹ではなく弟だったら、自由に動き回れる身分だったら……ブランシュの人生はきっと変わっていた。

(マティアスとも、こうして歩いてはいなかった)

「殿下?」
「……何でもないわ」

 心地よい風がブランシュの髪を巻き上げ、帽子を飛ばしそうになったので慌てて押さえる。湖の方へ落ちなくてよかったとホッとすると、ボートが岸に寄せられているのが目に入った。

「乗りますか?」
「いいの?」

 思わずぱぁっと顔を輝かせる。子どものようにはしゃぐブランシュにマティアスは目を丸くして、口元を覆った。

(あ……)

 思わず、というようにマティアスが笑ったのが見え、ブランシュは恥ずかしくなる。でも、彼の表情が緩んだことに嬉しいと思う自分もいた。

「では、行きましょうか」
「……ええ」

 マティアスはブランシュのために湖の周りをぐるりと漕いでくれた。一人で漕ぐのは辛いだろうと途中ブランシュも替わることを申し出たが、絶対に無理だと言われ、それにムッとして半ば無理矢理オールを受け取ったが、数分も経たずに腕が痺れて、結局マティアスに漕いでもらうこととなった。

 マティアスはやっぱりという表情をしながら漕ぐので、ブランシュはいろいろ言い訳するように言葉を重ねて、それにはいはいと彼は適当にあしらった。

 ブランシュが自分だって頑張ったのだと内心膨れていると、彼が声を立てて笑った。ブランシュはびっくりして、何も笑うことはないじゃないかと腹が立って、けれど次第におかしくなって、マティアスと同じように笑みを零した。

 用意してもらった昼食を木のそばで食べて、木陰に生えている植物の名前を尋ねて、寝っ転がってゆっくりと移ろう空を見上げていれば、時間はあっという間に過ぎていった。

「そろそろ戻りましょうか」
「ええ」

 馬に乗って戻る途中空模様が怪しくなってきて、ぽつりと肌に水滴を落としたかと思うと、やがてバケツをひっくり返したかのような土砂降りになった。ちょうど、森の中であった。

「少し、あそこで休憩していきましょう」

 森番が使用する小屋を指差しながらマティアスがつぶやく声も雨にかき消されてよく聴こえなかった。彼は手際よくブランシュを馬から下ろすと、先に入っているよう促した。勝手に入っていいのかしら、と思いながら恐る恐る扉を開けると、中には誰もおらず、がらんとしていた。

「何しているんですか」

 ぼけっと突っ立っていると、馬を濡れないよう屋根の下に繋いできたマティアスが入ってきて、暖炉に薪をくべ、部屋の中を暖め始めた。水筒の中に残っていた水をやかんに入れ、一緒に沸騰させようと火の近くへ置いた。そうして部屋の中を見渡し、引き出しへ真っ直ぐ向かうと、中を漁り、濡れた身体を拭くものをブランシュに手渡してくる。

 勝手知ったる様子でいろいろ拝借するマティアスにブランシュの方が遠慮してしまう。

「そんな勝手に、いろいろしていいの?」
「いいんです。ここはこういった時のための小屋でもありますから」

 本当? と思いつつ、ブランシュは濡れて気持ち悪かった水気を拭き取っていく。

「そのままでは風邪を引きますから、服を脱いでください」
「このままでもだい……っくしゅん」

 言ったそばからくしゃみをして、ぶるりと身体を震わせた。

「ほら、言ったじゃありませんか。私は向こうを向いていますから」

 ブランシュはこんな場所で、マティアスのすぐそばで衣服を脱ぐことに抵抗を覚えたが、仕方がないかと腹を括って脱ごうとした。だが――

「あの」
「脱ぎましたか」
「いえ、その、まだなんだけれど……」

 マティアスがどうかしたのかと振り向くと、まだびしょ濡れのブランシュの姿があった。

「風邪をひいてもいいんですか」

 やや咎める声で言われ、困ったようにブランシュはマティアスを見る。

「……後ろに釦があるの」

 彼は少し沈黙して、こちらへ近づいてくる。彼女はごめんなさいと言いながら、後ろを振り向く。一つにくくっていた髪の毛をどかし、釦の部分を見せるよううなじを露わにした。

「……たしかに、これは一人では脱げませんね」
「ごめんなさい。もっと、考えておけばよかったわ」

 その答えがおかしかったのか、彼が笑った。

「こんなことになるって、もっと考えればわかっていたんですか」
「……言葉尻を捕えないで」

 すみません、と謝り、釦を外していく。薪がぱちぱちと燃える音。やかんがヒューヒューと鳴る音。外で激しく降る雨音がやけに耳についた。

「終わりました」
「ありがとう」

 あとは大丈夫だと言いかけて、下から上へするりと背中を撫でられる。思わずびくっとした。

「こ、公爵?」
「これも、一人では外せないでしょう?」

 これ、とはコルセットのことである。後ろに小さくて丸い穴がびっしりとあり、すべてを繋げるようにリボンが通されている。いつも侍女が四苦八苦しながら着せているので、当然一人で脱ぐこともできない、と考えたのだろう。

「それは、大丈夫よ」
「本当ですか」
「本当よ。たしかに後ろの紐を見ると大変に思えるかもしれないけれど、前に引っかける部分があって、これを外せば、」

 リボンを緩めようとするので、くるりと振り返って、前を見せた。驚いた瞳と目があって、あ、と思う。

(なにも、見せる必要はないじゃない)

「あの、だから、もう大丈夫」

 慌てて背中を見せれば、しゅるりと背中のリボンを解かれた。

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