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23、狂わせた人生

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 男は若く、ブランシュの顔を見ると、とても驚いた様子でしばし固まった。一方ブランシュも相手がマティアスではないとわかり、狼狽えた。

「あの」
「これはブランシュ様」

 彼は自分を知っているようだった。いや、王女なのだから知っていて当たり前かもしれないが、ほとんどの人間が殿下と呼ぶので、名を呼ばれたということは、親しい仲だったのだろうか。

「本当にまたお会いできるなんて、思いませんでした」

(まずいわ。誰か、わからない)

 どうしようと迷っている間にも彼は部屋の内側へするりと身体を滑り込ませ、ブランシュの細い腕を掴んだ。無遠慮なその行為に、彼女は危機感を抱き、とっさに振り払った。

「あ……」

 男はまさかそんなことされるとは思わなかったのか、目を丸くした。そうしてひどく嫌な感じのする笑みでブランシュにまた一歩詰め寄る。

「酷いな。あんなに俺を利用したくせに、今さら他人の振りですか」

(利用……?)

 つまり以前自分はこの男と接触していたということか。

(一体、どんなことで?)

 胸がざわつく。

「あんなことさせて知らない振りをするなんて、相変わらず冷酷な人だ」

 聞きたくない。知りたくない。これ以上、自分の嫌な過去を突きつけないで欲しい。

「でも俺は貴女のそんな冷たさにも心酔していたんです。貴女のためなら、何でもやろうと思った。貴女が喜んでくれるなら。貴女に微笑みかけてもらえるなら、犯罪者になったってよかった」

 酔っ払ったように男は独り喋り続ける。

 距離を取ろうとしても、じりじりと追い詰められ、いつの間にか長椅子の縁に膝の裏が当たる。男はこの状況が楽しくて仕方がないというように目を爛々とさせ、ブランシュとの距離をさらに詰めていく。

「それ以上近づかないで!」

 不安と恐怖心でたまらなくなり、ブランシュは叫んだ。相手は笑った。

「約束したじゃありませんか。成功したら、俺の頬に、口づけを贈ってくださると」

 手が伸ばされ、ブランシュはとっさにテーブルに置いてあったグラスを手にして相手に投げつけた。彼が顔を守るように腕を出し、水が黒い礼装にかかる。ブランシュは逃げようと走った。けれど――

「きゃっ」

 もの凄い力で肩を掴まれ、暴れると頬を思いきり掌で叩かれた。それまで暴力など振るわれたことのなかったブランシュは、それで一気に身体が固まり、何も考えられなくなる。

「今さら一人だけ幸せになろうと思うなよ」

 顎を掴まれ、アルコールの臭いが肌に吹きかけられる。口の中が切れて、血の味が舌に広がっている。

「あの女を襲うよう命じて、俺は忠実に従った。だから人生が滅茶苦茶になったんだ」

(うそ――)

 あの女、というのが誰か、具体的な名前を出さずとも、ブランシュにはすぐわかった。でも信じられなくて、いくらなんでもそんなことするはずはないという思いがあって、彼女は男に尋ねていた。

「あの女って」
「しらばっくれるなよ。あの女だよ。あんたが好きで好きでたまらなかった男の婚約者、エレオノール!」

 男は引き攣った声で笑いながら、ブランシュを長椅子へと押し倒し、馬乗りになった。

「こうやって女に跨って、犯してしまえと言ったんだ」
「うそ……」
「嘘じゃねぇよ。ま、間一髪のところで助け出されたが、さぞ恐ろしかったことだろうよ。ドレスをびりびりに破かれて、身体を弄られたんだからよぉ!」

 こんなふうに! と彼はブランシュの薄紫色のドレスを胸元から思いきり下へずらすと、白い乳房を露わにさせた。ブランシュは悲鳴を上げたが、頭の中は男が告げた内容でいっぱいだった。

(襲わせた……この男に……マティアスの最愛の人を……)

 そこまでして、ブランシュは彼を手に入れようとした。いいや、もはやこうなってくると、マティアスのことを抜きにして、ブランシュはエレオノールに並々ならぬ憎悪を抱いていたように思う。

(どうして、そんなことを……)

 同じ女性として、信じられなかった。しかも自分を慕う者を利用して、その者の人生を破滅に追い込んでまで、彼女を傷つけようとしたこと。

 それがブランシュの正体だった。

(わたくしは……)

「あぁ、なんて美しい身体なんだ……」

 男は飢えた野良犬のような目でブランシュの乳房を掴んだ。荒々しい手つきは痛く、はぁはぁと鼻息荒く吐き出される呼吸が気持ち悪い。舌を這わせられ、べろりと舐められる。興奮した下半身をぐいぐい押し付けられ、顔を人形のようにべたべた触られる。浅ましい欲望に濡れた目が、ブランシュの瞳を覗き込む。

「ずっと、ずっと、貴女にこうしたかった。ブランシュ。貴女が手に入るなら俺は……!」

 唇を押し付けられそうになった時、バンッと扉が勢いよく開かれた。

「ブランシュ!」

 マティアスの声だ、とどこかぼんやりとした頭で思う。彼は男を引き剥がし、顔を思いきり殴りつけた。部屋にはジョシュアや他の人間も入ってくる。ジョシュアはブランシュの姿を見ると絶句した様子だったが、すぐに我に返り、殴りつけるマティアスを止めさせ、医者や侍女を呼んでくるよう命じた。

「ブランシュ! ブランシュ……!」

 マティアスがブランシュを抱き起し、肌蹴た肌を隠すように上着をかけて、痛いほどの力で抱きしめてくる。何度も名前を繰り返し呼んで、すまなかったと泣きそうな声や表情で謝っている。

(謝る必要なんてないのに……)

 自分の方がずっと酷いことをした。取り返しのつかないことを犯していた。

 ブランシュは自分を受けとめきれなくて、どこか俯瞰するように彼らを、マティアスの言葉を聞いていた。

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