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19、隣国の王子様

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「お久しぶりです。ブランシュ様」

 一瞬誰だろう、と思ったが褐色の肌に宝石のような金の瞳を見てすぐに隣国の王太子、キルデリクだと悟った。

 記憶を失って、事前に今回出席予定の客を教えてもらっていたが、まさか本当に王子と対面するとは……ブランシュは緊張しながら、型通りの挨拶をする。

「私のこと、覚えていらっしゃいますか」

 ブランシュはどきりとする。キルデリクに記憶喪失のことを話したのか。彼女はわずかに迷ったが、動揺は晒さず、微笑んだ。

「ええ、もちろん。我が国の同盟国である王太子殿下を忘れるはずはありません」
「なるほど。それはよかった」

 何がなるほどかはわからないが、とりあえず何とかなったとブランシュは軽く息を吐く。

(王女は他国からの評判もよくなかったのよね……)

 彼女にとってマティアスだけが異性の対象であった。他国との友好を深めるため、縁談などの話も少なからずあったそうだが、彼女は拒否し、また王であった父もそれを許した。

 キルデリクの国とは一番距離が近いために、留学と称して我が国に滞在したこともある。その際ブランシュがどういう人間か、まざまざと見せつけられた。常識のある人間ならば、国の王妃として相応しくないと判断するだろう。そして実際、キルデリクはブランシュとの結婚はなしとして、他の相手を探し始めた。

 その王女とこうして再会しても、気まずいだけだろうし、一通りの挨拶は済ませたのだからすぐに立ち去るだろうと思った。

 しかし――

「よかったら一曲、踊っていただけませんか」
「え?」
「せっかくの舞踏会なんですから、楽しみたいではありませんか」

 ブランシュは信じられないと彼の顔を見つめた。

「キルデリク殿下。実は妻は体調が良くなくて……」

 差し出された手をただ黙って見ていることしかできなかったブランシュに代わり、マティアスが助け舟を出す。

「そうなのか?」
「ええ。ですから――」
「となると、前回と同じように私はすげなく断られるわけだな」

 すげなく、というのがどういう感じであったか、もちろんブランシュは憶えていない。だがさぞ嫌な断り方であったことは想像に難くない。

「あの時は公爵や王太子殿下……ジョシュア陛下が、こちらが申し訳なく思うほど謝ってくれてね」
「あ、あの時のことはわたくしも深く反省しております」

 ブランシュは冷や汗をかきながらキルデリクに訴えた。下手すれば友好関係にひびを入れかねなかった過去の自分の振る舞いに、今更ながら肝が冷える。

(ほんとに何をやっているのわたくしは……!)

 王女としての自覚がとんとない。ジョシュアが不満をぶつけたくなるのも当然だ。

「あの頃のわたくしは本当に幼稚で……」
「ああ。そうだろうとも。わかっている。あの時貴女は公爵しか目に映っていなかった。私に構うどころではなかった。それを私が理解せず、無理に誘おうとしたのがいけなかったんだ」
「いえ、そんなことは――」
「しかし今、貴女は念願叶って公爵と結婚することができた。とすると、だ。もう私の誘いを断る必要もない、ということになるのではないかな?」
「えっ? それは……いえ、そういうことに、なるのかしら……?」

 スラスラと淀みなく語られ、ブランシュは踊ってもいいのではないか、否、踊るべきではないかと思ってしまう。その一瞬の迷いをキルデリクは見逃さなかった。

「よかった。では、一曲楽しもう」
「殿下、お待ちください。彼女は――」

 マティアスが何か言う前に、キルデリクは素早くブランシュの手を取り、一歩踏み出すよう導いた。彼女は思わず公爵を振り返る。彼もまた、こちらを心もとない顔で見ていた。

「公爵は少し、休んでいるといい。なに。心配せずとも、すぐにお返しする」

 王太子はホールの中央までブランシュを引っ張ってくると、華奢な腰を引き寄せ、音楽に合わせてステップを踏み始める。彼が背が高く、身体つきもがっしりとして、香水の匂いがした。

「すまない。あまりに強引で、怒ってしまったかな?」
「いえ、そんな。あっ」

 動揺して、キルデリクの足を踏んでしまった。ブランシュは真っ青になって謝るが、なぜか彼は笑った。

「貴女のそんな顔、初めて見たな」

 先ほども、と彼は切れ長の目を細めた。

「私とは初対面かのようなよそよそしさ、ぎこちなさであったな。まるで、別人のようだ」

 ぎくりとする。

(ばれてる……?)

 いや、大丈夫だ。素知らぬ顔を突き通せばいい。

「わ、わたくしは公爵一筋ですから」
「ほぉ? 夫なのに、爵位で呼ぶんだな」

 また足を踏んでしまった。

「以前の貴女は、公爵のことを必ず名前で呼んでいた。まるで彼は自分のものだというように。彼とは特別な関係だと周囲に知らしめるように」

 くるりと回って、一瞬視界の端にマティアスの顔が過った気がした。

「けれど今日会った貴女は、彼のことを頑なに公爵と呼び、態度もよそよそしく、一定の距離を置いている。今までとは真逆だ」
「それは……結婚して逆に深い仲になってしまって、かえって恥ずかしくなってしまったんですの」
「ふーん」
「結婚しても、彼が臣下であるという意識が、まだ抜けきれないのです」
「なるほど」

 グッと引き寄せられ、キルデリクの重たく低い声が耳元で聴こえる。

「それにしては、公爵が貴女を見つめる目は以前とは違い過ぎる」
「それは……」

 ブランシュことを嫌っているから。

「彼は、わたくしのことを憎んでいるんです」

 ぽつりと呟き、ハッとする。つい正直に答えてしまったブランシュを、キルデリクは興味深そうに見ていた。

「記憶を失うと、立場まで逆転するんだな」
「なっ」

 また足を踏みそうになったが、今度はその前に素早く身体を浮かばせて回避させられた。

「危なかったな」
「……わたくしは、記憶を失ってなどおりませんわ」
「そうか。では、以前私が貴女と話した内容を教えてもらおうか」
「そんなの、憶えていませんわ」
「興味のない人間だからな。では、これは答えられるだろう。公爵の誕生日」

 返答につまった彼女に、キルデリクは自身の考えを確証したというように金の瞳を妖しく光らせた。

「認めるといい。ブランシュ。貴女の記憶がないこと」
「……何を、お望みですの」

 その言葉が意外だったのか、キルデリクは目を丸くして、少し苦笑いした。

「別にどうもしないさ。ただ本当に貴女が記憶を失ったとすれば、今までとは全く違う態度にも納得がいくというわけさ」
「わたくしが芝居を打っているとは、思いませんの?」
「芝居? どうしてまたそんな馬鹿なことをする必要がある」
「すべて公爵の気を引くために、ですわ」

 キルデリクはしばし考え、それはないなと簡潔に答えた。

「貴女はそれほど器用な人間だとは思えない」
「そんなのわかりませんわ」
「わかりますよ。もし演技だとしたら、私が貴女とこうして踊るまでに絶対何かしらのボロを出し、とっくの昔に陛下に幽閉されていたでしょう」

 サラッととんでもない事実を述べる王子である。

「だから私は、貴女に記憶がないことを信じます」

(変な人……)

 みんなブランシュのことを疑っていたのに、キルデリクだけはあっさりと信じると言う。どうも胡散臭さを感じ、ブランシュは懐疑の眼差しを彼に向ける。

「本当に、何も企んでいませんの?」
「そうですね……今、そうなってもいいかもしれないと思ったことなら、あります」

 曲が終わり、キルデリクがブランシュの手の甲を恭しくとって、お別れを告げようとする。口づけが、白い手袋越しに贈られ、金色の目が上目遣いでブランシュの瞳を捉えた。

「貴女が私の妻になってもいいかもしれない」

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