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2、記憶喪失
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「記憶喪失のようです」
宮廷医師は診察を終えると、そう告げた。
「記憶喪失だと?」
目を覚まして、一番初めに会いに来た男――この国の王が、男を鋭く睨みつけた。
「どういうことだ。ブランシュはなぜそんなことになった」
「おそらく王女殿下が池へ飛びこまれ、」
「池へ飛び込んだ?」
彼女は――ブランシュは医師の言葉にぎょっとした。彼はハッとした様子で口を噤み、困ったように国王や、彼の後ろで控えて居た者たちに目をやった。その中に、ブランシュに激しく詰め寄った男性もいた。
「ブランシュ。本当に何も覚えていないのか」
青みがかった黒髪をした、目つきの鋭い男に問われ、ブランシュは怯みながらも数度頷いた。それでも彼は怪しむ目つきで観察した後、ため息をついて、口を開く。
「おまえはルメール公爵邸の庭で身を投げ出した所を助け出され、半年近く眠った状態だったんだよ」
「そんな……」
呆然としたまま、彼の言葉に耳を傾けながら、じわじわと足先から恐怖が這い上がってくる気がした。ここまで聴いても、自分は何も思い出せない。その時の状況だけでなく、それよりもずっと前のこと――自分自身のことですら。
「どうして……どうしてわたくしは、そんなことを……」
そこでみんなが顔を見合わせた。
「ブランシュ。それは私たちみんながおまえに聞きたいと思っていたことだよ。なんでおまえは死を選んだりなんかしたのかと」
あくまでも丁寧な口調であったが、どうも先ほどから男はブランシュを責めているように感じる。
「ジョシュア! ブランシュはまだ病み上がりなんだ。そんなふうに問いただすな!」
国王だけがブランシュを守るように声を荒げ、彼女を優しく見つめてきた。しかし彼女はその人について全く記憶がないので、ただ居心地の悪さを感じるだけであった。
「ブランシュ。辛いことを聞いてしまってすまなかった。思い出せないのならば、それまでのことだったのだ。何も心配することはない。それよりも、これからゆっくりと療養しなければならない。いいね?」
ブランシュはこくりと素直に頷きつつも、医師へと目をやった。
「わたくしの記憶は、元に戻るのでしょうか」
「それは……冷たい水に浸かり、長いこと意識を失っておりましたので、そのショックで頭の方にも何かしらの影響を受けているのだと思われます。だから陛下のおっしゃる通り、ゆっくりと身体を休まれていれば、そのうち思い出すこともあるのかもしれません」
「つまりはっきり思い出すとは限らない、ということだな」
ジョシュアと呼ばれた男がそう確認すると、冷や汗を流しながら医師は目を伏せた。彼はもう一度ため息をつき、ブランシュを見やった。
「とにかく、こうなってはしばらく療養するしかない。公爵邸へ帰るのはまだ先にして、ここでゆっくりと休みなさい」
「はい……」
とりあえず今日は解散しようと、みなが戻ろうとするなか、銀髪の男がじっとブランシュを見て言った。
「本当に記憶喪失なのですか」
「マティアス」
「だって、そうでしょう。私や彼女にあんなことをして、それで今度は自殺まがいのことをして、ただ、気を引こうとなさっていただけでは、」
「マティアス!」
国王の怒鳴り声に、ブランシュはびくりと肩を震わせ、みなも閉口したが、マティアスだけは恐れもせず、王を平然と見つめ返した。
「貴様の公爵家での扱いが、我が娘を死に追いやったのではないか? 貴様を殺人罪として処刑してもよかったのだぞ!」
「父上。やめてください」
ジョシュアがマティアスを庇うように間に入った。
「彼がそう思うのも仕方がありません」
ブランシュは不安に包まれながら、おろおろと三人に目をやった。
(どうしてこの人たちはこんなにも怒っているの?)
その原因が自分にあるようで、いや、そんなはずはないと、ブランシュは逃避するように否定した。
「ブランシュ。このマティアスという男についても、おまえは何も憶えていないのか?」
ジョシュアに問われ、彼女は恐る恐るマティアスへ視線を向ける。彼は無表情で自分を見ていた。
「……ええ。何も」
「……そうか」
「彼は、わたくしとはどういったご関係なのでしょう」
記憶のないブランシュが当然の疑問をぶつけると、マティアスが突然笑い声を上げた。ぎょっとするブランシュに、気の毒そうに見つめるジョシュア、国王ですら怒りを鎮めて気まずそうに視線を伏せた。
「これが演技ならば、たいしたものですね」
マティアスは笑って、ぞっとするほど冷たく、憎しみの籠った目でブランシュを見た。
「忘れているのならば、お教えします。私はあなたの夫です」
「夫……?」
では、自分は彼の妻だというのか。
しかし、それならばなぜ自分が目覚めた時にそばにいなかったのか。今憎悪の眼差しを向けているのか。
「私と婚約者を無理矢理別れさせ、結婚を強いたほど、貴女は私のことを愛しておられたですよ」
ブランシュは息をするのも忘れて、呆然とマティアスを見つめた。
「公爵家へ嫁いでからも、何が不満なのか周囲に当たり散らして、使用人の目を掻い潜って、自殺した」
それで目が覚めたら、すべての記憶を失っていた。
「貴女は本当に、私を苦しめるのが上手な方だ」
乾いた声で笑ったマティアスの顔が泣きそうにブランシュの目には映ったのだった。
宮廷医師は診察を終えると、そう告げた。
「記憶喪失だと?」
目を覚まして、一番初めに会いに来た男――この国の王が、男を鋭く睨みつけた。
「どういうことだ。ブランシュはなぜそんなことになった」
「おそらく王女殿下が池へ飛びこまれ、」
「池へ飛び込んだ?」
彼女は――ブランシュは医師の言葉にぎょっとした。彼はハッとした様子で口を噤み、困ったように国王や、彼の後ろで控えて居た者たちに目をやった。その中に、ブランシュに激しく詰め寄った男性もいた。
「ブランシュ。本当に何も覚えていないのか」
青みがかった黒髪をした、目つきの鋭い男に問われ、ブランシュは怯みながらも数度頷いた。それでも彼は怪しむ目つきで観察した後、ため息をついて、口を開く。
「おまえはルメール公爵邸の庭で身を投げ出した所を助け出され、半年近く眠った状態だったんだよ」
「そんな……」
呆然としたまま、彼の言葉に耳を傾けながら、じわじわと足先から恐怖が這い上がってくる気がした。ここまで聴いても、自分は何も思い出せない。その時の状況だけでなく、それよりもずっと前のこと――自分自身のことですら。
「どうして……どうしてわたくしは、そんなことを……」
そこでみんなが顔を見合わせた。
「ブランシュ。それは私たちみんながおまえに聞きたいと思っていたことだよ。なんでおまえは死を選んだりなんかしたのかと」
あくまでも丁寧な口調であったが、どうも先ほどから男はブランシュを責めているように感じる。
「ジョシュア! ブランシュはまだ病み上がりなんだ。そんなふうに問いただすな!」
国王だけがブランシュを守るように声を荒げ、彼女を優しく見つめてきた。しかし彼女はその人について全く記憶がないので、ただ居心地の悪さを感じるだけであった。
「ブランシュ。辛いことを聞いてしまってすまなかった。思い出せないのならば、それまでのことだったのだ。何も心配することはない。それよりも、これからゆっくりと療養しなければならない。いいね?」
ブランシュはこくりと素直に頷きつつも、医師へと目をやった。
「わたくしの記憶は、元に戻るのでしょうか」
「それは……冷たい水に浸かり、長いこと意識を失っておりましたので、そのショックで頭の方にも何かしらの影響を受けているのだと思われます。だから陛下のおっしゃる通り、ゆっくりと身体を休まれていれば、そのうち思い出すこともあるのかもしれません」
「つまりはっきり思い出すとは限らない、ということだな」
ジョシュアと呼ばれた男がそう確認すると、冷や汗を流しながら医師は目を伏せた。彼はもう一度ため息をつき、ブランシュを見やった。
「とにかく、こうなってはしばらく療養するしかない。公爵邸へ帰るのはまだ先にして、ここでゆっくりと休みなさい」
「はい……」
とりあえず今日は解散しようと、みなが戻ろうとするなか、銀髪の男がじっとブランシュを見て言った。
「本当に記憶喪失なのですか」
「マティアス」
「だって、そうでしょう。私や彼女にあんなことをして、それで今度は自殺まがいのことをして、ただ、気を引こうとなさっていただけでは、」
「マティアス!」
国王の怒鳴り声に、ブランシュはびくりと肩を震わせ、みなも閉口したが、マティアスだけは恐れもせず、王を平然と見つめ返した。
「貴様の公爵家での扱いが、我が娘を死に追いやったのではないか? 貴様を殺人罪として処刑してもよかったのだぞ!」
「父上。やめてください」
ジョシュアがマティアスを庇うように間に入った。
「彼がそう思うのも仕方がありません」
ブランシュは不安に包まれながら、おろおろと三人に目をやった。
(どうしてこの人たちはこんなにも怒っているの?)
その原因が自分にあるようで、いや、そんなはずはないと、ブランシュは逃避するように否定した。
「ブランシュ。このマティアスという男についても、おまえは何も憶えていないのか?」
ジョシュアに問われ、彼女は恐る恐るマティアスへ視線を向ける。彼は無表情で自分を見ていた。
「……ええ。何も」
「……そうか」
「彼は、わたくしとはどういったご関係なのでしょう」
記憶のないブランシュが当然の疑問をぶつけると、マティアスが突然笑い声を上げた。ぎょっとするブランシュに、気の毒そうに見つめるジョシュア、国王ですら怒りを鎮めて気まずそうに視線を伏せた。
「これが演技ならば、たいしたものですね」
マティアスは笑って、ぞっとするほど冷たく、憎しみの籠った目でブランシュを見た。
「忘れているのならば、お教えします。私はあなたの夫です」
「夫……?」
では、自分は彼の妻だというのか。
しかし、それならばなぜ自分が目覚めた時にそばにいなかったのか。今憎悪の眼差しを向けているのか。
「私と婚約者を無理矢理別れさせ、結婚を強いたほど、貴女は私のことを愛しておられたですよ」
ブランシュは息をするのも忘れて、呆然とマティアスを見つめた。
「公爵家へ嫁いでからも、何が不満なのか周囲に当たり散らして、使用人の目を掻い潜って、自殺した」
それで目が覚めたら、すべての記憶を失っていた。
「貴女は本当に、私を苦しめるのが上手な方だ」
乾いた声で笑ったマティアスの顔が泣きそうにブランシュの目には映ったのだった。
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