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怒り

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「おまえは愛する男のために俺たち王家を裏切ったんだ。なら、望み通り一緒にさせてやる」

 ルドヴィクは手を上げて「捕えろ!」と大声を張り上げた。するとどこに隠れていたのか、兵たちがぞろぞろと、上から縄を下ろして降りてくる。完全に武装した状態で、剣や槍を手にして、後方では弓矢まで構えていた。

「やつらは反逆罪だ。捕まえて共に幹へ括りつけろ!」
「で、殿下。しかし相手は王女殿下でありますぞ」

 意外にも反対の声を上げたのは司教たちであった。

「国王陛下にこのことがばれれば、なんと嘆き悲しむことか」
「そうです。いくら温厚な陛下でも、姫が亡くなればどうお思いになるか……」

 アニエスのことを心配して、というよりも父の怒りを買うことを彼らは恐れているらしかった。

「黙っておけばいいだけの話だ」

 ルドヴィクはわからないかとうっすらと笑みを浮かべた。

「神殿へ足を踏み入れた我が妹は最愛の恋人が死んでいる姿に絶望し、自らも命を絶った。そういう筋書きにすれば、父上も納得なさるだろう」
「なんと……」

(最低ね)

 これにはさすがに司教たちも目を覚ますのではないかと期待したが、満足したように微笑むだけであった。

「実に素晴らしい。貴方様はやはり陛下よりもよほど国王としての器が備わっております」
「ははっ、そうだろう? アニエス。聞いたか? おまえは俺が王の器に相応しくないと言ったが、やつらは誰よりも相応しいと言う。神の遣いである教会がだぞ?」

 おまえの言葉は間違いだと兄は高らかに笑ったが、アニエスの心は余計に冷めていく一方だった。

「そうやって、教会にまんまと乗せられたわけね」
「乗せられたんじゃない。未来の国王として乗ってやっただけだ」
「情けない。本当に我が兄ながら情けないわ」

 はぁと自然とため息をつけば、ルドヴィクは眉根を寄せ、苛立った口調で言い返した。

「これから死ぬというのに、ずいぶんと余裕だな。いいさ。おまえがどんなに誇り高く死んでいくか、この目で見届けてやる! おい、おまえたち! さっさとこの反逆者どもを捕まえて幹に縛り付けろ!」

 兵たちはみなルドヴィクに忠誠を誓った人間らしい。他と優遇して手懐けてきたのだろう。命令通り自分とユーグを捕えようと迫ってきた。

(まずいことになったわね)

「ユーグ。どうしましょうか」
「大丈夫ですよ、姫様」

 こんな時だというのにユーグはやはり落ち着いており、もはやアニエスも慣れてきてしまった。

「あなたって本当に豪胆というか何と言うか……肝が据わってるのね」
「姫様ほどではないと思いますが……まぁ、一度死にかけましたからね。それより、頬を見せてください。……あぁ、赤くなっている。なんて酷いことをなさったのでしょう」
「これくらい平気よ。あれでもだいぶ手加減してくれたようだから。わたくしより、あなたの方が痛々しいわ」
「私の方こそ、なんともありません。むしろ姫様の分まで、私がぶたれるべきでした」
「あなたのその綺麗な顔をさらに痛めつけていたら、わたくしがお兄様をどうかしていたかもしれないわ」
「姫様……」
「おいそこ! 何をいちゃついているんだ!」

 全くである。兵たちに周りを囲まれた状況だというのに自分たちは何を悠長に話しているのか。

「ね、ユーグ。わたくし、あなたと死ねるのならば全く怖くないの」

 アニエスの言葉にユーグは目を瞠った。その表情に彼女はとびっきりの悪戯を思いついた時のような、愉快な笑みを浮かべてみせる。

「置いていかれるのはもう嫌。だからどこまでもあなたと一緒についていくわ」

 自分からユーグの手を取り、しっかりと握りしめる。

「アニエス! 今ならまだ許してやるぞ!」

 遠くから叫んでくる兄の言葉も心には響かない。自分だけ生きていても仕方がないからだ。アニエスの決意にユーグは驚いていたようだったが、やがて相好を崩し、強く手を握り返してきた。

「ありがとうございます、姫様」

 ですが、と続ける。

「私は貴女と生きていきたい」
「ユーグ……」
「だから一度何もかも終わらせようと思います」
「えっ」

 それはどういう意味か、と尋ねようとした瞬間、地面が揺れ始めた。

「な、なんだ、地震か……?」

 最初は小さく、次第に大きく、神殿全体を揺らし始める。まるで何かが近づいて来るように――

「ひぃっ、神樹がお怒りになられたのだ」
「怒っているのは神樹ではない」

 ユーグの訂正も、司教たちの悲鳴でかき消される。突き上げるような揺れにアニエスも立っていられなくなりユーグに抱き寄せられた。

「――来る」

 ぎりぎりとつんざくような、耳障りな悲鳴が響き渡る。

「し、神樹の根が浮かび上がっている!」

 いくつもの瘤を拵えていた根元がぶくぶくとさらに膨れ上がっていくかと思えば裂け目を作っている。内側から何者かが強引にこじ開けるように、そしてその苦痛に耐えきれず神樹が悲鳴を上げているように聴こえた。

 いや、本当に痛いと叫んでいるのだ。これまで生贄にされてきた者たちの魂が助けてくれと憐れな断末魔をあげている。そしてそんな彼らに応える声もまた聴こえてきた。

 ――許さない。おまえたちだけは決して許さない。

「あ――」

 根元から何かが見えたと思えば、巨木の幹をあっという間に真っ二つにして、物凄い音を立てて頭上へ現れ出る。青と白銀の鱗にびっしりと覆われた蛇のような長い長い胴体は、まだ半分も地上に出しきっていない。

 しかし硬く尖った背びれや鉤爪、眼光の強さ、どれをとっても鋭く、人間など容易く殺してしまうのが見ているだけで伝わってくる。

「な、なんだこれはっ」
「りゅ、竜だ。初代ダルトワ王が封印した悪竜。あの噂は本当だったのだ!」

 司教たちはわぁわぁと喚きだす。ルドヴィクが「落ち着け!」と怒鳴っても聴こえていない様子で、兵たちも動揺を隠せないでいる。そしてそれは人間だけではなく植物も同じであった。

 神樹は息を吹き返したように、あるいは身の危険を感じたからか、太い枝を四方に振り回し、竜の身体を傷つけようとする。植物たちも枝や蔓を伸ばして竜の胴体に絡みつく。

 動きを封じられた竜に、ルドヴィクも好機だと思ったのか兵たちに命じた。

「ユーグとアニエスを捕まえろ! 生贄として神樹に捧げれば、もう一度封印されるはずだ! 火を放て!」

 後方に控えていた兵たちが一斉に火矢を放つ。下にいる兵たちはアニエスとユーグを引きずって幹の所まで連れて行こうとする。だが――

「そんなことをしても無駄です」

 ユーグの声に、竜の咆哮が重なり合う。放たれた火矢を物ともせず、胴体をくねらせ、ぶちぶちと蔓を切り裂き、太い幹を細い小枝のようにぼきぼきとへし折っていく。

「今までずっと縛られ、眠らされ、すでに我慢の限界だったでしょうから」

 自由になった竜は逆にこちらから搦めとるように神樹の太い幹へと巻きついていき、胴体を締め上げるように上へ上へと伸びていく。

 大樹は悲鳴を上げ、パニックに陥ったかのように枝を縦横あらん限りの力で振り回す。当然捕まえられていた司教たちも道連れだ。

「ぎゃああああ」
「助けてくれぇ」

 彼らの憐れな断末魔を無視して、神樹は少しでも身体を回復させようとしてか、捕まえた餌を次々と幹に縛り付け、自分の体内へとり込もうとしていた。

 司教たちばかりではなく兵たちにも枝を伸ばし、餌として口の中へ放り込んでいく。アニエスとユーグを引きずっていた兵もあっさりと捕えられ、強引に連れて行かれる。

「いやだぁ」
「死にたくない!」

 まさにこの世の地獄といえる光景が繰り広げられていたが、アニエスは人知を超えた存在と圧倒的な支配力にただ呆然とすることしかできない。

「ユーグ……わたくしは夢でも見ているの?」
「いいえ。夢ではありません」

 ユーグの口調は実にしっかりとしており、彼の存在だけが唯一の現実に思えて、アニエスは顔をちらりと見た。彼は未だ地面から胴体を出しきっていない竜をただ静かに見上げていた。

「建国神話では、この土地を支配していた竜をダルトワ王が討ち滅ぼしたと言われています。人間たちにとって、竜は自然を支配する悪の存在だったから。ですが、竜からすれば、人間たちは住処を奪い、自然を傲慢にも支配しようとした、略奪者でしかなかった」

 悪はどちらであるか。

 アニエスは人間であるが故、それを決めることはできない。だが、竜は何百年もの間、この地下で身体を拘束され、自由を奪われ続けてきた。その怒りがどれほどのものであるか、今、目の前で露わにされている。

 助けなければならないとは思うが、ただの人間でしかない自分の存在はあまりにもちっぽけすぎた。

「おい! 何をそろいもそろって腑抜けている! ダルトワ王が討ち滅ぼし損ねた悪竜が眼の前にいるのだぞ! 逃げるな! 戦え!」

 一方ルドヴィクは怯むことなく兵たちに戦うことを命じたが、彼らはもはや勝ち目はないと悟ってか、我先にと神殿の入口へ向かって逃げていく。

 しかしたどり着ける者は誰一人としておらず、植物たちに手足を捕まえられ、ずるずると神樹の方へ引き戻されるのがおちだった。

「くそっ、どいつもこいつも役立たずめがっ!」

 ルドヴィクは近くにいた兵から剣を奪い取ると、単身神樹へと向かっていく。

「今度こそ俺が息の根を止めてやる! そうすれば、正真正銘我が王家が――俺こそが王に相応しいと認められる!」

 実に勇猛果敢な振る舞いであったが、それはあまりにも愚行と言えた。彼一人が立ち向かったところで結果は目に見えている。他の人間たちと同様あっけなく捕縛され、ユーグが磔にされていた幹へとルドヴィクは縛り付けられていく。

「お兄様!」
「くっ、離せっ、うわああぁあ」

 王家の血を引いているからか、ルドヴィクは他の者たちと比べ、苦しみ方が半端でなかった。一刻も早くこの苦痛から逃れたいと思うのは神樹の方も同じなのか、ルドヴィクの身体を他の人間より真っ先に食らおうとしていた。

「誰かっ、助けて、助けてくれぇっ」

 ルドヴィクはアニエスの方を見ていた。彼女は舌打ちしたい気分に駆られた。

「あの馬鹿兄貴っ!」
「姫様!」

 助けに行こうとしたアニエスをユーグが引き留めるが、彼女はごめんなさいと謝った。

「どうしようもないやつだけど、あれでも兄なの。助け出して、しっかり反省させないと」

 こんなところであんな化け物に食われるなど許すものか。きちんと裁いて罰を与えさせてやる。

「わかりました。私もお助けいたします」

 二人はどうにか幹の根元まで辿りつくと、あと少しで完全に呑み込まれようとしているルドヴィクの身体を引き抜こうとする。

「お兄様! しっかりして!」

 自我の方はすでに呑み込まれてしまったのか、あるいは恐怖から気を失っただけか、ルドヴィクは白目を剥いて反応がなかった。

「くっ、枝も何も巻きついていないのになんて馬鹿力なのっ」

 このまま見捨てるしかないのかと諦めかけた時、ズドンと地面が浮き上がった。とうとう大樹の根が圧倒的な竜の力ですべて引き抜かれ、宙に浮き始めたのだ。

 竜は徹底的に巨木を虐め抜こうと枝に肢体を巻きつけたまま、天井へ頭突きを食らわせていく。長い尻尾は神殿の壁へ激突し、薙ぎ倒すように壊されていく。

 土埃をあげながら瓦礫が下へと落下していき、下敷きになるまいと逃げ惑う人の姿はまるで小さな蟻のようで、誰かがやけっぱちになったのか火を放ち、神樹や植物へと燃え移り、瞬く間に燃え広がっていく。

 それは竜の身体にも飛び火して、さすがに今度は不快に感じたのか鼓膜が破けるかと思うほどの悲鳴を上げた。

「もうっ、あっちもこっちも……!」
「姫様! 足元にある剣を私に!」

 言われて初めて長剣が根に絡まっていることに気づいた。兄が兵から奪い取ったものだ。今にも落っこちそうになっていた長剣を拾い上げると、アニエスはユーグに渡そうとする。

 しかし剣が思いのほか重かったことと、神樹が大きく揺れたことで、バランスを崩しそうになった。

「アニエス!」

 ユーグがアニエスの方へ飛び移り、身体を支える。

(あ、危なかった……)

 足を踏み外していれば、間違いなく怪我する高さから落っこちていたと、どっと冷や汗が噴き出た。

「ありがと、ユーグ」
「いいえ。それより、剣をこのまま」

 ユーグは柄を握るアニエスの手に自分の掌を添え、虚から見える赤黒く、脈打つ物体――何百年にも渡って吸い取ってきた人間たちの心臓へと、止めを刺すように幹へ深々と剣を突き刺した。

 ――瞬間、神樹がこれ以上にない悲鳴を上げた。それと同時に、地下からゴゴゴゴと大地が震え、引き裂かれた地面の割れ目から水が勢いよく噴き出した。

 水を浴びた神樹は根元からみるみるうちに腐っていき、呑み込もうとしていた司教や兵たちを次々と吐き出していく。ルドヴィクの拘束も解け、アニエスはユーグと力を合わせて引っ張り出すことが叶った。

 それで急いで飛び降りようとしたのだが、ユーグにぐいっと抱き上げられる。

「ユーグ!?」
「しっかり掴まっていてください!」

 彼は右手にアニエスを抱き上げ、左肩にルドヴィクを担ぐ。

「えっ、待って。まさかこのまま――」

 勢いよく神樹から飛び降りたのと腐りかけて足場がなくなったのは同時であった。

(ひいぃぃっ)

 地下から噴出した水に兵たちが放った炎と神樹が血のように散らせる花びらが舞う中を潜り抜け、アニエスたちは地面へ重い衝撃と共に着地する。

 痺れが全身を襲うが、無事に着地できたことを放心したまま実感する。

(なんて無茶なことを……)

 というかユーグが二人分の重さを軽々と抱き上げたことに驚く。しかし彼の身体を心配する暇はなかった。

「ここはもうじき壊れます! 外へ出ましょう!」

 幸いにも、と言っていいかわからないが、竜が暴れてくれたおかげで壁が崩れ、二階まで上る必要もなく外まで続いていた。今度はきちんと出口も見える。

 アニエスは呆然と座り込んでいた兵たちにも逃げるよう大声で命じて、生き埋めになるのではないかという恐怖よりも、もう訳が分からない状態で神殿の外まで命からがら脱出したのだった。

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