大嫌いで大好きな人が生贄にされると知って、つい助けてしまいました。

りつ

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手にした未来

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 それから儀式の日まで、ユーグは静かに教会区画で過ごした。もう庭へは行かなかった。ただ神のために祈りを捧げ、俗世に染まった心を清めていった。

 それは幼い頃に戻って行く作業であった。何も考えず、ただ言われたことだけを従順にこなす、人形のような心に。

「ユーグ様。本当にこれで……よかったのですか」

 ユーグの下で見習いとして働いていたマルセルが思いつめた表情でそう尋ねてきた。

 きっと彼は自分とアニエスの気持ちを見抜いて、何か言わずにはいられなかったのだろう。年のわりにしっかりした少年の瞳は、今はどうしようもなく不安に揺れていた。

「マルセル。お気遣いありがとうございます。ですが私は大丈夫です」
「でも……ユーグ様はあの方のことが……」

 ユーグは微笑んで、いいのですと無言で答えた。ひどく卑怯な対応だとも思ったが、彼女への気持ちは言葉にできなかった。口にしたら消えてしまいそうな気もして、胸に仕舞ったまま、死んでしまいたかった。

(まるで乙女だな)

 これ以上恥を晒すまいとユーグは穏やかな口調で、アニエスが何か悩んでいるようだったら、聖職者として相談に乗ってあげてほしいと頼んで、会話をお終いにした。

「私がいなくなった後のこと、どうかよろしく頼みますね」
「ユーグ様……」

 自分が亡くなった後も、生贄の儀式は続いていく。ダルトワ王国の平和のために。そうだ。この国が平和だということは、アニエスもまた平穏無事に暮らせるということであり、彼女自身も望むことだろう。

 自分が死ぬことは決して意味のないことではない。彼女のためになるのならば……。

(なるべく、長く生きたい)

 そうすれば次の生贄まで時間が稼げる。アニエスを想うことも……。

(あぁ、また彼女のことを考えてしまう)

 心を空っぽにしなければならないのに、すぐに彼女の方へ思考が飛んでしまう。ユーグは忘れろ、と何度も自分に言い聞かせなければならなかった。

     ◇

「母上。お久しぶりです」

 儀式の日が近づくにつれて、ユーグは今まで世話になった人間に感謝と別れの言葉を述べた。自分を産んでくれた母にも、会いに行った。

「ユーグ……」

 母は身体を壊し、息子であるユーグにもいつの頃からか会いにこなくなっていた。ユーグもまた、会えば逆に母を辛い目に遭わせるだろうと思って積極的に会おうとはせず、それが互いにとって最善であろうと思っていた。

 だが久しぶりに再会した母の姿がひどく老け込んでいるのを見て、もしかしたら間違いだったのかもしれないとふと後悔にも似た気持ちが湧いた。

 たとえ別れが待っていても――いや、待っているからこそ、もっと親子の時間を大切にしなければならなかったのではないかと。

「ユーグ……。もうすぐ、旅立ってしまうの?」
「はい」

 母親はくしゃりと顔を歪ませて、一瞬泣き崩れてしまうのだろうかと思ったが、意外にも堪えてユーグの手を握りしめてきた。思えば物心ついて母親から触れられたのは初めてで、思わずぴくりと震えてしまう。

「ユーグ。あなたにこんな運命を背負わせてしまって、本当にごめんなさい……」

 母の手はあまりにも小さかった。手だけではない。腕も身体も、枝のように痩せ細って、自身の手に余るほどの苦悩を今までずっと独りで抱え込んできたのが伺えた。

 一体こういう時、何を言えば彼女は救われるのだろう。思いあぐねていると、母の方が口を開いた。

「私はあの方に選ばれて、あなたを授かることができて、とても幸せだった」

 あの方、というのは父のことだろうか。母の表情に愛おしさと懐かしさが浮かぶ。しかしすぐに陰りが生じた。

「でも、あの人はお役目を果たすために神殿へ行ってしまって、あなたも同じことをなすのだと思うと……逆らってはいけないことだとわかっていても、何度もあなたを連れてここを抜け出そうと思ったの。でも結局その前に司教様にばれてしまって……あなたに会うことも禁じられてしまった」

 ユーグは母の告白に驚いた。では自分が幼少時代母と会えなくなっていたのは、母が会いに来るのをやめたからではなく、自分を連れ出すことを教会側が防ぐためだったのだ。

「ユーグ。お願い。今からでも逃げて……!」
「母上……」

 母はがしりと腕を掴んで必死の形相で息子に懇願する。

「お願いよ。私のためにも……あの人にも先立たれて、あなたまでいくなってしまったら、私は……」

 そこまで言って我慢の限界が訪れたのか、母はさめざめと泣き始めた。

「母上。どうか、悲しまないでください。少しの間でしたが、私はとても幸せでした。父上もきっと……」

 息子の慰めも、母の心をさらに抉るだけであった。ユーグ自身も、口にしながら自分の言葉がひどく薄っぺらく聴こえた。悲しまないでほしいと伝えたくても伝わらない。母と過ごした時間はあまりにも短く、別離を悲しむ心さえも本当のところ湧いてこなかったから……。

 そのまま日は流れ、とうとう当日となった。神子を神殿へと送り返す儀式が大聖堂で盛大に執り行われた。天まで届くのではないかと思われるほど高い建物は、王国内の教会に民が寄付した金で建造されたものだ。

 作物がよく育ちますように。家族の病気が治りますように。死んで天国へいけますように。

 彼らはそんな些細な――その日の暮らしもやっとな彼らには切実な願いを、僅かばかりのお金と引き換えに神へと願った。

 そうした思いも一緒に抱えて自分は神殿に身を捧げるのだと長い長い身廊を歩きながら思った。

(父上も、その前の神子たちも、一体最後に何を思ったのだろう――)

 民の幸せだろうか。それとも、もうすでにそんな感情すら神に捧げて何も感じなかっただろうか。

 国王陛下の言葉を耳にしながら、ユーグは彼の後ろの光景へ目を映した。青、赤、緑、黄色といったステンドグラスが四方に埋め込まれ、一枚一枚に聖人たちの物語が描かれている。ユーグの祖先も、この中のどこかに描かれている。自分も死後、その一員になるだろう。

「そなたに永遠の祝福が授からんことを」

 国王の言葉が終わり、ユーグはゆっくりと国王に――この世に背を向ける。これから神の世界へ旅立つ。

(アニエス)

 最後に、偶然か無意識に見たいと思ったからか、わからないがアニエスの姿が目に映った。彼女は自分を真っ直ぐと、睨むように見つめていた。まるで初めて会った時のように。

 今ここで全てを打ち明けたらどうなるだろうか。彼女に一緒に来てくれと手を伸ばしたら、掴んでくれるだろうか。

 馬鹿な考えが浮かんだのは一瞬だった。もう逃げることは許されず、ユーグは彼女に別れを告げて、一度も振り返ることなく大聖堂を後にした。

 神殿へ着いた頃には、辺りはもう日が沈みかけていた。

(外の世界も、これでもう見納めか……)

「ユーグ様。失礼いたします」

 神殿へ入る際、ユーグは目隠しをされた。視界を奪うのは逃げ出さないようにするためか。あるいは汚らわしいものに目を触れさせないためか……。

 白い布を巻きつけられ、嗅覚でユーグは彼らが動物の血を壁に浴びせているのがわかった。よほど大量の血を撒いているのか、彼は吐き気を催した。手を引かれながら中へ入り、草木のにおいを強く嗅ぎ取り、途中で水の跳ねる音を聴き、神樹のある場所まで連れてこられた。

(あぁ……)

 見ていなくとも、その異様さが伝わってきた。見えない何かが自分を狂おしく求めていることも。次の食糧が欲しくてたまらないと涎を垂らして彼らは待っている。

(っ……)

 本能的な嫌悪と危機感から、ユーグはとっさに暴れた。しかしそれも見越していたのか、両側から取り押さえられる。そのまま幹へと身体を押さえつけられ、太い枝が、棘のついた茨が巻きついてきて、何重にも身体を拘束された。

「ユーグ様。どうか我らのためにお役目をお果たしください」

 視界を覆っていた布が剥ぎ取られ、司教たちが満面の笑みを浮かべて自分を見ていた。大事に大事に育ててきた供物をようやく神に捧げることができる。彼らは実に達成感に満ち溢れた顔で、去っていく。

(待ってくれ……独りにしないでくれ……!)

 これから迎える孤独にユーグは恐怖を覚え、すぐに呑み込まれた。

 今まで父や祖父、その前の代の生贄たちは、みな嫌々ながら役目を全うしたと思っていた。

 でも違った。

『神樹に身を捧げれば力が手に入る。そうすれば今の王家を排斥できる』
『王家を再び我が手に』
『もう一度あの栄光を手に入れたい』

 聴こえてくる声は王になることへの渇望だった。

 そこにダルトワ王国の平和を願う声や、民草を思う気持ちは一切聴こえてこなかった。

『我らはずっと苦難を強いられてきた』
『教会の子飼いにさせられて気づいたらもう死ぬしかなかった』
『だがそれももう一度王家を手にできると思ったから』

 妬み。嫉妬。心身を焼き尽くすほどの憎悪。

『神樹と一体になれば力が手に入る。この力さえあれば何でもできる。本物の神にだってなれる』
『しかし実際は何もできない。次から次へと新しい命が流れ込んでくる』
『一体いつまで我々はこの牢獄に繋がれていればいいのか』
『一体何のために命を投げ打ったのか』

 憎しみは殺意に変わる。もうどうにでもなればいいという破壊衝動に支配される。

『王家が憎い』
『すべてが憎い』
『滅んでしまえ。消えてしまえ』

 ――もうやめてくれ!

 ユーグの精神はおかしくなりそうだった。知りたくもない感情が次々と頭の中に流れ込んでくる。侵食して自分の意識と混ざり合いそうになる。

 まるで呪いだった。気持ち悪い。目を逸らしたくても逸らせない。たまに意識を取り戻して目を開けても、待っているのは孤独な世界。自分以外誰もいない。そのうち自分が何者かも忘れそうになり、身も心もゆっくりと粉々に砕け散っていく気がした。

『ユーグ!』

(アニエス……)

 走馬燈だろうか。これまで見せてくれた彼女のいろんな表情が映し出される。本当に、自分の世界は彼女ばかりだった。彼女で構成されていた。

「ユーグ! ユーグ……!」

 だから彼女が神殿へ助けに来た時、ユーグはもう自分は死んだのだと思った。自分は王の地位など望まない。欲しいのは、彼女たった一人だけだったから。

(私が死んだら、彼女はいつまで覚えていてくれるだろうか……)

 これから好きな男に巡り合う。その男に好意では勝てない。でも弄ばれた酷い男という意味では記憶に残り続けるかもしれない。

 何でもいい。憎しみでもいいから、彼女にはずっと自分のことを忘れないでほしかった。

「馬鹿! わたくしに何も言わないで一人で死ぬなんて絶対に許さないんだから!」

 けれどアニエスは、そんなユーグの考えを絶対に認めないと打ち壊した。目を覚ませと呼び続けて、女性にとって大変重い意味を持つ口づけさえユーグのために捧げてくれた。

(アニエス……)

 ユーグは意識が朦朧としながらも、彼女の声を聴く度に強い感情が胸の内から湧き起ってくるのを感じた。これまで必死に彼女が与えてくれたことを、今度は自分の意思で行いたくて仕方がない。

(死にたくない……生きたい。私は彼女と一緒に生きたい……!)

 ダルトワ王国のためだとか、祖先の悲願だとか、そんなのはどうでもよかった。ただ彼女が欲しい。彼女と生きて普通の人間が歩む人生を送りたい。

 貪欲な願いが、自分という人間を浮き彫りにして、神樹の支配から自由にした。

「姫様……」

 アニエスのお陰だった。彼女がいたから、自分は戻ってこられた。

「もう二度と、誰にも渡さない……」

 安らかに眠る彼女の頬をそっと手の甲で撫でる。くすぐったそうに身じろぎする彼女に目を細め、誓うように口づけした。

 彼女はすべてを懸けて自分を助けにきてくれた。愛を捧げてくれた。ならば自分も、それに応えるべきだ。一度は諦めたが、もう手放すことなど考えられない。一生、自分だけのつがいだ。

 ユーグの決意に、部屋の中が小さく揺れ始めた。彼は床へと触れて、そっと語りかける。

「おまえも、待ち望んでいるのだろう」

 神樹が餌を逃して、もう何日過ぎただろうか。聖水も中に取り込んでしまったはずだから、さぞ苦しみ、腹を立てていることだろう。だがそれはきっとも同じだ。

「もうそろそろ、彼らも異変に気づき始めることでしょう」

 そうしたら、この恐ろしい儀式にも終止符が打たれる。

 今までずっと選ばされ、従わされ、諦めてきた人生だった。

 だがそれももう終わりだ。今度は自分から、取りに行こう。

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