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出口

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 もう襲ってくることはないとユーグは言ったが、アニエスはまた神樹が暴走するのではないかと内心びくびくしながら巨木を見ていた。

「大丈夫ですよ」
「そんなこと言ったって、大事な養分が逃げてしまったのよ? なりふり構わず攻撃してくる可能性があるわ」

 空腹は人を凶暴に、いや、人だけではなくすべての動物が敵意を露わにしてくる。なにせ自分の命がかかっているのだ。

「人間は水があればとりあえず二、三週間は生き延びられますから」
「あなたみたいに、断食に耐えられる者はほんの僅かなのよ? ってほらぁ!」

 アニエスとユーグの存在を嗅ぎ取ったのか、神樹が大きく揺れ出して、大小様々な枝が一斉に襲いかかってくる。

「本当ですね」
「何でそんな呑気に言っているのよ! 泉の所まで逃げ、ってちょっと!」

 ユーグは逃げるどころか、自らを差し出すように歩いていく。馬鹿じゃないの!? と思ったアニエスが慌てて止めようとした時、ユーグは右手を枝の方へ向けて、「止まれ」と命じた。

 そんなので止まるはずない、と思ったアニエスは息を呑んだ。なんと本当に枝はユーグの目の前でぴたりと動きを止めたのだ。

 彼は唖然とするアニエスの方をくるりと振り返ると、こちらへ来るよう手招きする。困惑しながらも近寄れば、彼は腰をぐいっと引き寄せ、「上へ運べ」と樹に命じた。するとどうしたことか。

 人が乗っても折れなさそうな太くてがっしりとした枝が目の前まできて、それにユーグに腰を抱かれた状態で乗って、落ちないようにまた別の枝が、ベルトのように腰に巻きついて、そのまま宙へと浮いていくではないか。

 二人はアニエスが最初神樹を見渡した場所まで運ばれ、何ら苦労することなく、地面へ降り立つことができた。

「さぁ。行きましょう」
「ちょっと待って。今のは何!?」

 ようやく我に返った彼女が説明を求めると、ユーグは不思議そうな顔をして首を傾げた。

「神樹に命じて運んでもらったのですが」
「それは見ればわかるわよ! そうじゃなくて……命令とか、どういうこと?」
「神樹に私たちを運べと、私が命じて、それに従うようになったんです」

 あまりにも淡々と説明されるので、なんだかアニエスは余計に混乱するばかりであった。

「私と神樹で意思を争って、私がこの神殿での主になった、という感じでしょうか」
「なによその主って……」
「この神殿では、神樹が一番偉いんです。他の植物たちも、みな彼らの意思に従って動いています」

 さらりと驚愕の事実を伝えられる。

「じゃあ、何……? わたくしがここへやってきた時、気持ち悪い植物にあの樹の所まで連れて行かれたのも、あなたに水を飲ませようとして悉く邪魔してきたのも、全部神樹が植物たちに命じていた、ってこと?」
「はい。侵入者や自分を傷つける者は排除せよ、という命令を下しているんだと思います」
「でも、あなたが途中で目覚めると、いつも引っ込んでいったわよね? というか、邪魔していなかったかしら?」
「あれは、一時的にですが、私の自我の方が強くなって、神樹の意識を強奪して、植物たちにやめろと命じていたんです」

 何やらこんがらがってきそうな説明だが、とりあえずユーグが意識を取り戻してくれたおかげで、自分は助けられていたということらしい。

「改めて思うけれど、わたくしったらとんでもない場所に足を踏み入れてしまったのね……」

 出口まで歩きながらアニエスはしみじみと呟く。ユーグはちらりとこちらを見て、困ったように返した。

「私が言える立場ではありませんが、本当に……今頃国王陛下も他の者たちも大騒ぎしていることでしょう」

 それを言われるとアニエスも耳が痛かった。勢い余って飛び出してきてしまったが、父たちからすればいきなり娘がいなくなったのだ。しかも一国の王女である。

(マルセルなら、わたくしが恐らくユーグを探しに神殿へ行ったと思い当たるでしょうけれど、それを正直にお父様たちに伝えるかはわからないわね……)

 教会の罪を告発するようなものだ。彼の立場を思えば、それはとても勇気がいることだろう。仮に言ったところで、子どもの言葉だと上手く誤魔化される可能性もある。

 何にせよ、やはり一度王宮へ戻るべきだろう。
 そう思って入り口までたどり着いたアニエスだったが……

「開かないわ」

 扉はうんとすんともしない。ユーグが押しても、二人でやっても、同じだった。

「もう! どうして開かないの!?」
「……この神殿は恐らく、外からは入ることができても、中からは出ることができないようになっているのでしょう」
「餌を逃がさないようにってこと? でも、あなたがきちんと生贄にされる光景を、司教たちも見届けたのではないの?」
「ええ。ですがその時は神樹も蔓たちもまだ大人しくて……ああ、もしかしたら」
「なに?」
 
 早く教えて、とアニエスは急いた。

「いえ……姫様はここから中へと入ってきたんですね?」
「そうよ。長い階段を上って……最初はびくともしなかったんだけれど、やけくそになって腕を打ち付けていたら、開いたの」
「打ちつけてとはまた乱暴な……怪我などなさいませんでしたか?」
「擦り傷程度はしたかもしれなかったけれど……でも、痛みなんてどうでもよかったわ。だってあなたに二度と会えないと思ったら、苦しくて、どうして想いを伝えなかったんだろうってすごく後悔したもの」
「姫様……」

 アニエスは言ってしまってから何だか恥ずかしくなった。

「ええっと、だから、なに? まったく痛くなったから大丈夫、ってちょっと!」

 なぜかユーグにひしと抱きしめられ、アニエスはたじろぐ。慌てて押し戻そうとすれば、ますますきつく抱きしめられ、小声で「愛おしい……」という呟きが聴こえた。

「どうしてこんなにも華奢な身体で貴女はそんなに情熱的なんでしょう……」
「わたくし、そこまで弱々しい身体つきではないと思うけれど」

 いちおう体力はつけておくべきだと思って好き嫌いせず、野菜、肉料理バランスよく、きちんと口にしていた。痩せすぎということはないだろう。

 しかしユーグからすればアニエスはか弱い乙女に見えるらしく、敵から守るようにぎゅうっと抱きしめてくる。

「その時の姫様に寄り添うことができず、本当に申し訳ありません」
「もう、いいから」

 いい加減苦しいと胸を叩けば、ようやく解放してくれる。自分を見下ろす目はひどく甘ったるく、逃げるように視線を逸らしながら、話を元に戻す。

「それで、わたくしはここから入ったのだけれど、もしかしてあなたたちは違うの?」
「はい。私たちはこことは反対方向から……あの泉の先の部屋から入ったのです」
「え? でもあそこに入り口なんて見当たらなかったわよ?」

 それともここと同じように隠し扉として仕掛けが施してあるのだろうか。

「この神殿へ入る条件は、おそらく血です」
「血?」

 怪訝な顔をするアニエスに、ユーグは頷く。

「私たちが入る時、動物の血を壁に撒いておりました。姫様も怪我をなさったのならば、その時の血に扉が反応したと思われます」
「……まるで悪魔を喚ぶ儀式みたいね」
「血の臭いを餌として認識しているのでしょうね。ですから外で人を待機させ、出る時に外側から血を撒いて扉を開けさせたのではないでしょうか」

 アニエスはなんだかこの神殿があの神樹の胃袋のように思えてきた。餌のにおいを嗅ぎ取れば、口を開いて胃の中へ誘い込む……。

(でも……)

「司教たちが生きていたのはどうして?」
「あの泉の水のおかげだと思います」
「泉?」
「はい。身を清めるためだと言って全身を浸からせて神樹の場所まで来ていましたから」

 ユーグは当時の状況を思い出すように黙り込み、壁に這うように生えている蔓をじっと見つめた。

「あの時、蔓や枝は私だけに巻きついてきて、幹へと縛り付けていた」
「……あなたは水を浴びなかった。だから植物たちが反応したってこと?」
「ええ、おそらく。私はすでに神子として認められているから必要はないと司教たちはおっしゃいましたが……ですが今思えば、きっと生贄にされるから浴びてはいけなかったのでしょう」

 泉の水は邪悪な魔物を振り払う聖なる水、ということか。

「じゃあ、あなたに水を飲ませたのもよかったのかもしれないわね」
「水?」
「そうよ。すごく苦しそうに魘されていたから、泉から水を汲んできて飲ませていたの」
「なるほど……。確かにそれはとても大きな抵抗力になったと思います。事実意識も長く保ち続けることができましたし、神樹の力が弱くなったことも、私が主導権を握る要因になったのでしょう」

 すべて合点がいったというようにうんうん頷いていたユーグは、ふとあることに気づいたようにアニエスに問いかける。

「どうやって私に水を飲ませていたのですか」
「えっ……」

 どきりとする。

「ど、どうだっていいじゃない」
「いえ、気になります。意識のない私に水を飲ませるのはさぞ大変だったでしょう。どうやってやったか、ぜひ教えてください」

 ぐいぐい迫ってくるユーグにアニエスは壁際へと追いつめられる。

「だから別に、こう手で掬って……」
「本当に?」

 違うだろうという金色の目に、アニエスは観念して白状した。

「ああ、もう! 口移しで飲ませたのよ!」

 文句あるか! と恥ずかしさから怒ったように言えば、なぜかユーグは「あぁ……」とその場にがっくりと膝をついたので、アニエスはぎょっとする。

「ちょ、ちょっとどうしたの。そんなにショックだったの? 悪かったわよ。でも仕方がないでしょう。緊急事態だったんだから」
「……でしょう」
「え?」
「私は何と勿体ないことをしてしまったのでしょう。姫様自らが口移しで水を飲ませてくれていたというのに全く覚えていないなんて……!」
「……」

 心配して損したと、アニエスは黙って立ち上がった。

「はっ。もしや姫様があんな淫らな口づけを覚えたのは、意識がない間私が貴女に教えて、あだっ」
「いい加減にしなさい。戻るわよ」

 ここから出られないとわかれば、別の方法を探すしかない。さっさともと来た道を戻っていくアニエスの後ろを、慌ててユーグが追いかけるのだった。

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