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これから

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「まったく、もう……」

 アニエスはユーグの背中の怪我を治療しながらぶつぶつと文句を口にしていた。

「こんな怪我をしてあんなことをするなんて、どうかしているわ」
「すみません……」

 治療、といっても、薬も何もないので、とりあえず泉の水で傷口をそっと洗い、清潔な布で体を巻きつけることで一応の処置とした。

 これまで病人の手当などやったことのないアニエスにとって、巨大な鉤爪で引っかかられたような傷痕を見ることも、またそれが大切な人が負った怪我だということも、かなりショックを受けた。ゆえに不安をぶつけるようにして、ついユーグを責めてしまう。

 そこには初めて身体を繋げたことによる気恥ずかしさもあった。

「……まぁ、わたくしも受け入れてしまったから、責任はあるのだけれど」
「いいえ。たとえ姫様が屈強な力で拒もうとしても、私はきっと自分の想いを遂げようと、泣き落としでも何でもしたでしょうから、姫様に責任はありません」
「泣き落としって……それはそれで地獄な光景な気がするわ……」

 別に、と思う。

「わたくしは、嫌なことは嫌だと言うから……。だから、あなたを受け入れたことに変わりはなかったと思うわ」
「姫様……」
「でも! もう怪我人相手にはしないから!」

 ユーグの顔を見ぬまま、早口でそう捲し立てた。

(待って。怪我人には、ということは、そうでない時はするみたいに聴こえたんじゃ……)

「あのね、今のは――」
「姫様。私より、姫様のお身体の方が心配です」
「わたくし?」
「はい。姫様と想いを添い遂げたことに微塵も後悔はありませんが、あの場所でしてしまったことには大変申し訳なかったと思っております」

 ユーグのどこまでも生真面目な口調に、アニエスはなんだか居たたまれなくなる。

「別に……わたくしは大丈夫よ」
「いえ。初めてだというのに無理をさせてしまいました。血も流されて。本当にだいじょう、むぐっ」

 それ以上言うなというようにアニエスはユーグの口を手で塞いだ。ふがふがとまだ何か言い足りなさそうに話すユーグを睨むように見上げながら、アニエスはきっぱりと言い放った。

「本人が大丈夫だといっているのだから、大丈夫なの。恥ずかしいから、この話題はもうお終いよ!」

 わかった? と確認すれば、ユーグはこくりと素直に頷く。よろしいと解放してやれば、なぜかがばりと抱きしめられた。

「ちょっ……」
「姫様。お慕いしております」
「なっ」
「好きです。愛しています。貴女がいれば、私は他に何もいらない」
「と、突然どうしたのよ……」

 怒涛の愛の言葉をぶつけられ、アニエスは頭の中がこんがらがって爆発しそうになる。

「貴女にもっと愛おしいというこの感情を伝えたいのに、言葉では伝えられない」
「もう、十分伝わっているから……」

 そんな、とさらに強く抱きしめられる。

「姫様は本当に可愛らしくて、でも芯はとても強い方で、眩いばかりに美しくて、狂おしいほどに愛おしい存在なんです……」

 人から褒められるのは決して嫌いではない。むしろ好きだ。しかし好きな人からの愛の言葉はこんなにもむず痒く、恥ずかしくなるとは……アニエスはどうすればよいかわからなかった。

 ユーグはそんな彼女の動揺する姿も可愛いと、首筋に顔を埋めてぐりぐりと押しつけてくる。それだけではなくすぅはぁとアニエスのにおいを嗅ぐように鼻を押し付けてきて――

「ちょっと。何をしているの」
「姫様から甘くて良い香りがするのでつい、あだっ」

 調子に乗るなと頭を軽く叩き、アニエスは冷静になった。

「それよりあなた、本当に身体は大丈夫なの?」

 表立っての外傷は背中だけのようだが、内臓とか、目に見えていない部分は大丈夫なのか、アニエスは心配になって尋ねる。

「ええ、特に問題ないようです」
「本当でしょうね?」

 たとえ問題があってもユーグなら何か隠しているのではないと疑ってしまう。上から下までじろじろと目視していると、彼に微笑まれた。

「本当です。何なら確かめますか?」
「それはけっこうよ」
「そうですか……」

 ユーグはなぜか残念そうな顔をしたが、気を取り直してまた笑みを浮かべた。

「体調は問題ありません。むしろあの樹に縛り付けられている時の方が辛かったので……今はそれから解放されて、ひどく生き生きとしている気分です」

 それはまた別の理由からではなくて? とも思ったが無視して話を続ける。

「どうやってあの樹から離れることができたの?」
「眠っている間、姫様が遠くへ行ってしまう夢を見たのです。とても現実味のある、苦しくなる夢で……起きて貴女の姿がどこにも見当たらず、それまで貴女と過ごしたこともすべて私の幻覚ではなかったのかと……意識が錯乱してしまい、荒れ狂う感情が神樹の暴走へと繋がりました」
「繋がった、ってどういうこと?」
「あの神樹は、いつまでも自我を壊さない私に業を煮やしていました」

 以前ユーグは、神樹は生贄となった人間の意思を乗っ取ると教えてくれた。身体だけではなく、心を明け渡すことで、神樹の一部になれるのだと。

 しかしユーグは自我を保ち続け、アニエスとも長く話ができるようになっていった。その変化を神樹は怒ったということか。

「以前から思っていたけれど、あの神樹って生き物みたいね」
「ええ。きっとずっと人間を取り込んでいたので、いつしか魔物として意思を持ってしまったのでしょう」
「魔物……」

 ユーグが縛り付けられていた幹の樹相を思い出す。中が腐って穴ができた虚が口のようで、凸凹になった木肌が目や鼻のようで……本当に一つの顔に見えた。人間を養分として食らう魔物……。

 気味が悪くなって、アニエスは眉根を寄せた。そんなアニエスを気遣うように、ユーグはそっと背中を撫でた。

「どう表現したらいいかわかりませんが、私の自我とあの樹の意思がぶつかり合い、恐怖に呑み込まれそうになったところを、貴女への感情で私が怒りを樹にぶつけ、見事勝ち取った。だから、あの樹の束縛から自由になった、というところでしょうか」

 神樹はユーグの意思を挫こうと悪夢を見せたつもりが、それがかえって彼の怒りを招き、結果手放す羽目になってしまったのだ。

「やるじゃない。ユーグ」

 暗くなりかけた雰囲気を吹き飛ばすように、また彼の意思の強さを称賛するように、アニエスは明るい声で言った。実際、すごいことだろう。

「あなたって見た目は飄々としているのに、意外と中身は逞しいというか……ガッツもきちんと備わっているわよね」

 断食に極寒や極暑に晒される苦行などもユーグは実に涼しい顔でこなしていたという。神の加護があるから、本当に神の化身だからこそ、耐えうることができたのだと周囲の者が驚嘆していたことを思い出す。

「姫様のお陰です。姫様への想いが、すべての闇を打ち払ったのです」
「そ、そう……まぁ、何でもいいわ」

 とにかくユーグは神樹に打ち勝ったということだ。

「あの樹はもう、わたくしたちを襲ってこない?」
「ええ。決定権はもう私が手にしましたから。まだ少し抵抗するかもしれませんが、力は失われていく一方でしょう」
「ふぅん?」

 よくわからないが、とりあえず大丈夫そうなのでほっとする。

 それより、だ。

「これからどうしましょうか」

 最悪の場合、ユーグが永遠に幹から離れられないことを覚悟していた。

 その時はもう仕方がないと、アニエスも最期までそばにいるつもりだったが、彼が解放されたことで一緒に共倒れする必要はなくなった。

「あなたは、どうしたい?」
「私は……自分が生き延びるとは思っていなかったので、正直わかりません」
「そう……。それもそうね」

 彼は未来など考えずに、いや、未来を捨ててここへ連れてこられたのだから、答えなど持ち合わせていなくて当然かもしれない。

 なら、と質問を変えてみる。

「教会に……王家に復讐したい?」
「復讐、ですか?」

 思いもしなかったと驚くユーグに、だってそうでしょう、とアニエスは視線を落とした。

「何の罪もないあなたを生贄にしようとしたんだから……報復することも、償いを求めることも、当然よ」

 現に今まで何人もの人間の命があの神樹にとり込まれていったのだ。彼らはユーグの血縁者でもある。

「以前も申しましたが、私はあなたや、国王陛下に対して憎悪の感情は一切抱いておりません。教会にも、抱いていておりません。これは我が一族に課せられた使命のような、呪いのようなものですから」

「呪い、ね……。でも、いつまでもやり続けてきたのは教会が黙認して、わたくしたち王家も神殿の管理を教会に一任してきたからでしょう。呪いが助長したのも、周囲のあり方に問題があったからだと思うわ」

 そもそも、とアニエスは思った。

「あの神樹に生贄を捧げて、あなたたちに一体何の利益があるというの? ただの、儀式のようなもの?」

 口にして、以前も同じようなことを聞いた気がした。

「確か……神樹には力が必要なのよね。竜の力を目覚めさせないために……そのために教会はこの儀式を続けているって……この国の平和を、守るため?」

 しかし、アニエスは直感的に違うのではないかと思った。というのも、ユーグが生贄にされることを部屋の前で立ち聞きした時の、教会の人間が話す時の様子は決して善意を感じるものではなかったからだ。

 平和を願う者が、父と息子どちらが長く生き延びられるか、母親が気が狂わずにいわれるか、そんな話を笑ってできるはずがない。彼らにはもっと、邪な、それこそ私利私欲の願望のためにユーグたちを生贄として捧げている気がした。

「ユーグ。あなた、この地下に宝物庫があること、知っていた?」
「宝物庫?」
「ええ」

 ついてきて、とアニエスは泉の向こうに繋がる通路へユーグを案内して、さらに隠し扉を押して地下へと続く階段を下りていき、金銀財宝の溢れる空間へと彼を連れてきた。

「これはまた……すごいですね」
「でしょう。相当昔から貯め込んでいないと、こんなに部屋いっぱいにならないわよ」

 なるほど、とユーグは天井近くまで積まれている黄金の財貨を見上げながら、どこか腑に落ちたように言った。

「きっとあの神樹は、これらの財宝を守る役目も担っているのでしょう」
「宝物庫の番人ってこと?」
「ええ。侵入者が忍び込めば、植物にあの場所まで連れていかれ、神樹にとり込まれる。黄金は誰にも盗まれることなく、守られ続ける」

 盗まれたくない。守ってほしいと思う人間は誰か。

「教会の連中は、この金貨に手をつけているのかしら」

 荘厳な大聖堂はこの金で建造されたのだろうか。しかしそれも、元を正せば民の寄付から集めたものだ。自分たちの権威を見せつけるのは別にいい。だがそれはやるべきことをきちんとやった上でだ。

 もし彼らが弱者から搾取し続けているだけだとあれば――

「あなたたち一族が生贄の役目を果たせなかった場合は王国内の身寄りのない子どもを集めてそこから選ぶのよね」
「……はい」

 そんな非道なことができるならば民の善意からかき集めた金をここへ収めるのにも何の罪悪感も湧かないだろう。

「ますます許せないわ」

 やはり裁かれるべきだとアニエスは思った。ここを出よう。そして父に報告しよう。それで……

「姫様はここへどうやって入ったのですか」

 ふとユーグが気になったように別のことを口にした。

「どうやって、って……夜中に森を走ってここまで来たの。それで入り口がわからなくて……あっ、そうだわ。あの場所は樹を見上げる位置にあったの。どうしましょう」

 ユーグは一度神樹のある場所まで戻ろうと促した。どうして? と疑問に思うも、ここで悩み続けても解決策は浮かびそうになかったので、彼の言う通り、戻ることにした。

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