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神樹
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長い長い通路の壁には今にも消えそうな蝋燭の炎が揺らめいていた。きっとここへ来た司教たちが足元を照らすために灯したのだろう。
(こっちでいいのかしら……)
アニエスは心細くて、本当に進み続けていいものか迷った。
(よく考えれば、神樹って樹よね? だったら、この建物の中じゃなくて、外にあるのが普通かもしれない……)
はたと気づいた内容にどうしようと思い始める。
(いいえ、でも、教えられた内容では神樹を囲うように神殿が建てられたと言っていたわ……ああ、でも……)
ぐるぐると考え続けながらも歩くことはやめず、やがて細い通路の先に開けた場所があることがわかってきた。明かりも、もうそこで途絶えていた。
心臓が高鳴るままアニエスは目の前の景色を目に映そうとした。暗闇で何があるのか、どんな姿かもよくわからない。しかし、次第に目が慣れてきたことと、ちょうど天井から差し込む月の光で、自分が何を見ているのか理解した彼女は言葉を失った。
とてつもなく大きな巨木が鎮座している。
アニエスが最初樹だとわからなかったのは、暗かったせいもあるが、上から見渡していたせいだ。
ここは吹き抜けのようになっており、巨木はぽっかりと空いた穴から這い出るようにして生えている。アニエスがいる場所は劇場でいう二階席に位置していた。見下ろす形で、彼女は巨木をまじまじと観察した。
(これが、神樹なの……?)
なんて大きな樹なのだろう。距離があるにせよ、迫力がここまで伝わってくる。
(葉っぱが赤い……花が咲いているの?)
近くまで行かないとよく見えないが、赤色の花を咲かせているみたいだった。樹形は縦だけでなく左右にも大きく、何かを追い求めるようにして枝を四方八方伸ばしている。重みのせいか、地面につきそうな部位もあった。
丸々と太くて大きな枝が、うねるように、絡み合うようにして、一本の幹からいくつも枝分かれしている。またその幹というのが本当に大きくて、何人もの成人男性が両手を広げて囲んでも、周り切れないほどの太さで――
(あれは――)
目を凝らして見ていたアニエスは幹に何か白い布が巻きつけられているのに気がついた。
(うそ)
布は服だった。つい数時間前に見た服。着ている人間は――
「ユーグ……!」
会いたくてたまらなかった人が、太い幹に縛り付けられていた。表情はここからだと見えないが、反応がないということはもう――
「ユーグ! わたくしよ! アニエスよ!」
頭の中に浮かんだ考えを打ち消すようにアニエスは大声で叫んでいた。そしてもっと近くまで行こうとした。ここから彼のもとへまで、どこから行けるだろう。階段か何かないだろうか。いっそ飛び降りて――
「っ……」
その時、足に何かが触れた。足元を見れば、太い緑色の物体が足首に巻きついていた。一瞬蛇かと思ったが、それは植物だった。
つる性の植物なのかくねくねとアニエスの脚を軸にして生き物のようによじ登ってくる。まるで自分を捕食するように見え、ゾッとした。
「なによこれっ……」
急いでむしり取ろうとするが、そうすると今度は手首に絡みついてきたので、いよいよ耐え切れず悲鳴を上げた。
パニックに陥ったアニエスはがむしゃらに暴れ、逃げようとする。しかし植物は彼女の身体全体を這い、ずるずると神樹が生えている穴の中へ引きずりこもうとしていた。
「このっ、気持ち悪いのよ! 離しなさいっ!」
その力の何と強いことか。植物ではなく、野獣か何かに引っ張られているとしか思えなかった。
「くっ、いい加減しつこ、きゃあっ」
とうとう必死で踏ん張っていた足が地面から離れ、下へ落ちそうになったアニエスは宙へと浮かせられた。そのままふよふよと移動していく。どうやらユーグの捕えられている神樹にアニエスを連れて行くみたいだ。
そっちがそのつもりならば好都合だと幾分冷静さを取り戻したアニエスは眼前へと近づいてくる巨木を睨みつけた。だが次第にその威勢の良さも怯んでいく。
(なんて大きいの)
ただ大きいだけではない。神樹は一種の禍々しさを感じさせた。
(まるで本当に生きているみたい)
樹肌のせいだろうか。幹は所々樹皮が剥がれ、中が腐って虚ができている。その一つがまるで大きく口を開いているように見えた。いや、本当に食べるのかもしれない。あの時、言っていたではないか。
『神樹の一部になれるのですから――』
「っ、いやぁっ」
この時ばかりはアニエスもユーグの心配より、自分の命が奪われることに恐怖した。ばたばたと暴れる。だが植物はますますきつく身体を締めつけ、ユーグと同じように太い幹へとアニエスの身体を押し付けようとする。
(いやっ、こんな所に縛り付けられるなんて絶対にいやっ……!)
アニエスはもがきながら、幹を思いきり蹴って離れることに成功した。身体を捻り、ローブの留め具がぶちりと引きちぎられる。
しかしそれで抜け出せるわけはなく、前がはらりと肌蹴け、絹の夜着へ植物が触れるのを許しただけとなった。
「ひっ」
太くて弾力のある、意思を持った植物がアニエスの身体をなぞるように、足首から膝、太股、尻、腹、胸へと這うようにして巻きついてくる。
「や、やだ……」
服越しであるが肌を締めつけ、撫でられる感覚に皮膚が粟立つ。
「やめなさいっ、いやっ、やめてっ、誰かっ……ユーグ!」
彼を呼んだって、意味などないのに。助けにきたはずが、逆に食われてしまう運命になり、アニエスは涙を浮かべ、それでも最期に大好きな人の名前を呼んだ。
「――やめ……ろ……」
掠れた、とても小さな声であったが、アニエスの耳は聞き逃さず、ハッと前を向いた。幹に括りつけられたユーグが目を閉じたまま、苦悶のような表情を浮かべながら、そう、呟いたのだった。
「ユーグ! わたくしよ! アニエスよ!」
アニエスの呼びかけに反応するように彼の身体がぴくぴくと反応している。改めて見てみると、彼はなんて痛々しい姿をしているのだろう。
両腕を左右に大きく開かされ、神樹の枝が指の隙間や、手首を囲うように突き刺さっており、絶対に逃がさないよう拘束されている。腰にも枝や蔓が何重にも絡みつき、見ているだけで絞殺されそうな苦痛を感じる。
昼間儀式を行った時のように全身白い衣装に身を包んでいるから、余計に聖なる者を穢したような、まさに人身御供という光景が繰り広げられていた。
アニエスは自身の置かれている立場も忘れ、神などに捧げられたユーグの立場を憐れみ、強い憤りを覚えた。
(なぜ彼がこんな目に遭わなければならないの……!)
助けたい。絶対に。
しかし今危機的状況に陥っているのはアニエスも同じであり、さらに彼女のそうした反抗的な意思を感じ取ったのか、植物はさらにきつく縛り付けてくる。胸から上へと這いあがってきて、首へと巻きついてきたので、いよいよ殺されるのだと彼女は思った。
「うっ、ユー……グ……」
これで終わりなのか。結局自分はユーグを助けることができずに死んでいくのか。
(でも、最期に一目だけでも会えた……)
彼のそばで死ぬことができるのならば、それで満足するべきかもしれない。アニエスがそう思い、死を受け入れようとした時――
「やめろ……!」
強い拒絶の言葉がユーグの口から放たれ、神樹の鋭い枝が鞭のように躍りかかってきて、アニエスの身体に巻きついていた植物をぶちぶちっと断ち切った。自身の身体を刻まれた植物は神樹に恐れをなしたようにしゅるしゅると元いた場所へ引っ込んでいく。
空中に浮かされていたアニエスは地面へと落下した。幸いそれほど高くなく、また地面には絨毯のように赤い花びらがびっしりと敷き詰められていた。
(これ、なんて花かしら……)
薔薇のような芳香が肺を満たし、アニエスは酩酊しそうな心地を味わった。だがすぐにユーグのことを思い出し、がばりと起き上がる。
「ユーグ……!」
彼のもとへ駆けつける。神樹の根元はこれまた異形の姿を呈しており、土の中に埋まっているはずの根が養分を求めてか地表へと露出しており、細いものから太いものまで雁字搦めに絡み合って凸凹としていた。アニエスはその上をよじ登っていき、縛られたユーグに呼びかけた。
「ユーグ、大丈夫!? 生きている!?」
こんな時何を言えばいいかわからないが、思いつくままにアニエスはユーグに話しかける。彼はかたく目を瞑って、魘されているのかうんうんと唸っている。
悪夢から覚めたいのに目覚められないというようにもがき苦しむ姿にアニエスまで苦しくなり、とっさに彼の両頬を包み込み、額と額をくっつけていた。
「大丈夫。もう大丈夫だから……」
何も大丈夫じゃない。どうすればいいかわからない。それでも、アニエスはユーグが一人でないことを伝えたかった。
「わたくしはここにいるわ。あなたのそばにずっと……」
涙が自然と流れて彼の頬を濡らす。アニエスは唇を押し当てていき、やがてユーグの口へと重ねた。
本当はずっと、彼とこうしたかった。あの夜。ユーグが自分を押し倒した時、すべてを奪ってほしかった。
顔を離し、噛みしめるように呟く。
「あなたが好き。ずっとずっと好きだったの」
彼にも同じ言葉を口にしてほしかった。
でも、たとえ聞けなくても、自分から伝えてしまえばよかったのだ。
アニエスがそう思ってユーグの顔を見ていると、不意に長い睫毛がふるりと揺れた。驚くと同時にゆっくりと瞼が開かれ、金色の、茫洋とした瞳が自分を捉える。
「……あに、えす……」
「! ユーグ!」
「……アニエス……私は……ちがう。いやだ……奪わないでくれ……」
「ユーグ?」
目が覚めたのかと喜んだのも束の間、彼は意識が混濁しているのか、譫言のように呟く。
「アニエス……貴女に会いたい……貴女さえいてくれれば、私は何もいらなくて……うっ、あぁぁっ」
がくがくと身体を揺らし始めて暴れるユーグに枝の拘束が強まる。鋭い枝の先端が彼の綺麗な手の肌を切り裂き血が溢れてくる。
どうするのが正解かわからなかったが、アニエスはとにかくユーグを落ちつけさせたいと頬を撫で、抱きつくようにして彼の耳元で囁いた。
「大丈夫。何も奪わないわ。奪われていないもの。わたくしはあなたのそばにいるもの……」
だから大丈夫だと自分に言い聞かせるようにして彼に伝える。
「アニエス……」
彼の瞳と視線が絡み合う。こんなにも至近距離で見つめ合ったのはあの夜以来だ。あの時は睨むことしかできなかったが、今は彼が安心するよう精いっぱい微笑んでみせた。
「ユーグ。大好きよ」
彼はそんなアニエスを見つめると、もう一度彼女の名前を呟き、ふっと意識を失った。彼の心臓へと耳を押し当てると少し速いが、やがて規則正しくなった心臓の音が聞こえてきたのでほっとする。
そのまま力が抜けてずるずると座り込んでしまった。
(よかった。生きていた……)
これからどうすればいいか全くわからない。でもユーグはまだ生きている。今はそれだけで十分だとアニエスは顔を覆った掌からいくつもの涙を零して肩を震わせたのだった。
(こっちでいいのかしら……)
アニエスは心細くて、本当に進み続けていいものか迷った。
(よく考えれば、神樹って樹よね? だったら、この建物の中じゃなくて、外にあるのが普通かもしれない……)
はたと気づいた内容にどうしようと思い始める。
(いいえ、でも、教えられた内容では神樹を囲うように神殿が建てられたと言っていたわ……ああ、でも……)
ぐるぐると考え続けながらも歩くことはやめず、やがて細い通路の先に開けた場所があることがわかってきた。明かりも、もうそこで途絶えていた。
心臓が高鳴るままアニエスは目の前の景色を目に映そうとした。暗闇で何があるのか、どんな姿かもよくわからない。しかし、次第に目が慣れてきたことと、ちょうど天井から差し込む月の光で、自分が何を見ているのか理解した彼女は言葉を失った。
とてつもなく大きな巨木が鎮座している。
アニエスが最初樹だとわからなかったのは、暗かったせいもあるが、上から見渡していたせいだ。
ここは吹き抜けのようになっており、巨木はぽっかりと空いた穴から這い出るようにして生えている。アニエスがいる場所は劇場でいう二階席に位置していた。見下ろす形で、彼女は巨木をまじまじと観察した。
(これが、神樹なの……?)
なんて大きな樹なのだろう。距離があるにせよ、迫力がここまで伝わってくる。
(葉っぱが赤い……花が咲いているの?)
近くまで行かないとよく見えないが、赤色の花を咲かせているみたいだった。樹形は縦だけでなく左右にも大きく、何かを追い求めるようにして枝を四方八方伸ばしている。重みのせいか、地面につきそうな部位もあった。
丸々と太くて大きな枝が、うねるように、絡み合うようにして、一本の幹からいくつも枝分かれしている。またその幹というのが本当に大きくて、何人もの成人男性が両手を広げて囲んでも、周り切れないほどの太さで――
(あれは――)
目を凝らして見ていたアニエスは幹に何か白い布が巻きつけられているのに気がついた。
(うそ)
布は服だった。つい数時間前に見た服。着ている人間は――
「ユーグ……!」
会いたくてたまらなかった人が、太い幹に縛り付けられていた。表情はここからだと見えないが、反応がないということはもう――
「ユーグ! わたくしよ! アニエスよ!」
頭の中に浮かんだ考えを打ち消すようにアニエスは大声で叫んでいた。そしてもっと近くまで行こうとした。ここから彼のもとへまで、どこから行けるだろう。階段か何かないだろうか。いっそ飛び降りて――
「っ……」
その時、足に何かが触れた。足元を見れば、太い緑色の物体が足首に巻きついていた。一瞬蛇かと思ったが、それは植物だった。
つる性の植物なのかくねくねとアニエスの脚を軸にして生き物のようによじ登ってくる。まるで自分を捕食するように見え、ゾッとした。
「なによこれっ……」
急いでむしり取ろうとするが、そうすると今度は手首に絡みついてきたので、いよいよ耐え切れず悲鳴を上げた。
パニックに陥ったアニエスはがむしゃらに暴れ、逃げようとする。しかし植物は彼女の身体全体を這い、ずるずると神樹が生えている穴の中へ引きずりこもうとしていた。
「このっ、気持ち悪いのよ! 離しなさいっ!」
その力の何と強いことか。植物ではなく、野獣か何かに引っ張られているとしか思えなかった。
「くっ、いい加減しつこ、きゃあっ」
とうとう必死で踏ん張っていた足が地面から離れ、下へ落ちそうになったアニエスは宙へと浮かせられた。そのままふよふよと移動していく。どうやらユーグの捕えられている神樹にアニエスを連れて行くみたいだ。
そっちがそのつもりならば好都合だと幾分冷静さを取り戻したアニエスは眼前へと近づいてくる巨木を睨みつけた。だが次第にその威勢の良さも怯んでいく。
(なんて大きいの)
ただ大きいだけではない。神樹は一種の禍々しさを感じさせた。
(まるで本当に生きているみたい)
樹肌のせいだろうか。幹は所々樹皮が剥がれ、中が腐って虚ができている。その一つがまるで大きく口を開いているように見えた。いや、本当に食べるのかもしれない。あの時、言っていたではないか。
『神樹の一部になれるのですから――』
「っ、いやぁっ」
この時ばかりはアニエスもユーグの心配より、自分の命が奪われることに恐怖した。ばたばたと暴れる。だが植物はますますきつく身体を締めつけ、ユーグと同じように太い幹へとアニエスの身体を押し付けようとする。
(いやっ、こんな所に縛り付けられるなんて絶対にいやっ……!)
アニエスはもがきながら、幹を思いきり蹴って離れることに成功した。身体を捻り、ローブの留め具がぶちりと引きちぎられる。
しかしそれで抜け出せるわけはなく、前がはらりと肌蹴け、絹の夜着へ植物が触れるのを許しただけとなった。
「ひっ」
太くて弾力のある、意思を持った植物がアニエスの身体をなぞるように、足首から膝、太股、尻、腹、胸へと這うようにして巻きついてくる。
「や、やだ……」
服越しであるが肌を締めつけ、撫でられる感覚に皮膚が粟立つ。
「やめなさいっ、いやっ、やめてっ、誰かっ……ユーグ!」
彼を呼んだって、意味などないのに。助けにきたはずが、逆に食われてしまう運命になり、アニエスは涙を浮かべ、それでも最期に大好きな人の名前を呼んだ。
「――やめ……ろ……」
掠れた、とても小さな声であったが、アニエスの耳は聞き逃さず、ハッと前を向いた。幹に括りつけられたユーグが目を閉じたまま、苦悶のような表情を浮かべながら、そう、呟いたのだった。
「ユーグ! わたくしよ! アニエスよ!」
アニエスの呼びかけに反応するように彼の身体がぴくぴくと反応している。改めて見てみると、彼はなんて痛々しい姿をしているのだろう。
両腕を左右に大きく開かされ、神樹の枝が指の隙間や、手首を囲うように突き刺さっており、絶対に逃がさないよう拘束されている。腰にも枝や蔓が何重にも絡みつき、見ているだけで絞殺されそうな苦痛を感じる。
昼間儀式を行った時のように全身白い衣装に身を包んでいるから、余計に聖なる者を穢したような、まさに人身御供という光景が繰り広げられていた。
アニエスは自身の置かれている立場も忘れ、神などに捧げられたユーグの立場を憐れみ、強い憤りを覚えた。
(なぜ彼がこんな目に遭わなければならないの……!)
助けたい。絶対に。
しかし今危機的状況に陥っているのはアニエスも同じであり、さらに彼女のそうした反抗的な意思を感じ取ったのか、植物はさらにきつく縛り付けてくる。胸から上へと這いあがってきて、首へと巻きついてきたので、いよいよ殺されるのだと彼女は思った。
「うっ、ユー……グ……」
これで終わりなのか。結局自分はユーグを助けることができずに死んでいくのか。
(でも、最期に一目だけでも会えた……)
彼のそばで死ぬことができるのならば、それで満足するべきかもしれない。アニエスがそう思い、死を受け入れようとした時――
「やめろ……!」
強い拒絶の言葉がユーグの口から放たれ、神樹の鋭い枝が鞭のように躍りかかってきて、アニエスの身体に巻きついていた植物をぶちぶちっと断ち切った。自身の身体を刻まれた植物は神樹に恐れをなしたようにしゅるしゅると元いた場所へ引っ込んでいく。
空中に浮かされていたアニエスは地面へと落下した。幸いそれほど高くなく、また地面には絨毯のように赤い花びらがびっしりと敷き詰められていた。
(これ、なんて花かしら……)
薔薇のような芳香が肺を満たし、アニエスは酩酊しそうな心地を味わった。だがすぐにユーグのことを思い出し、がばりと起き上がる。
「ユーグ……!」
彼のもとへ駆けつける。神樹の根元はこれまた異形の姿を呈しており、土の中に埋まっているはずの根が養分を求めてか地表へと露出しており、細いものから太いものまで雁字搦めに絡み合って凸凹としていた。アニエスはその上をよじ登っていき、縛られたユーグに呼びかけた。
「ユーグ、大丈夫!? 生きている!?」
こんな時何を言えばいいかわからないが、思いつくままにアニエスはユーグに話しかける。彼はかたく目を瞑って、魘されているのかうんうんと唸っている。
悪夢から覚めたいのに目覚められないというようにもがき苦しむ姿にアニエスまで苦しくなり、とっさに彼の両頬を包み込み、額と額をくっつけていた。
「大丈夫。もう大丈夫だから……」
何も大丈夫じゃない。どうすればいいかわからない。それでも、アニエスはユーグが一人でないことを伝えたかった。
「わたくしはここにいるわ。あなたのそばにずっと……」
涙が自然と流れて彼の頬を濡らす。アニエスは唇を押し当てていき、やがてユーグの口へと重ねた。
本当はずっと、彼とこうしたかった。あの夜。ユーグが自分を押し倒した時、すべてを奪ってほしかった。
顔を離し、噛みしめるように呟く。
「あなたが好き。ずっとずっと好きだったの」
彼にも同じ言葉を口にしてほしかった。
でも、たとえ聞けなくても、自分から伝えてしまえばよかったのだ。
アニエスがそう思ってユーグの顔を見ていると、不意に長い睫毛がふるりと揺れた。驚くと同時にゆっくりと瞼が開かれ、金色の、茫洋とした瞳が自分を捉える。
「……あに、えす……」
「! ユーグ!」
「……アニエス……私は……ちがう。いやだ……奪わないでくれ……」
「ユーグ?」
目が覚めたのかと喜んだのも束の間、彼は意識が混濁しているのか、譫言のように呟く。
「アニエス……貴女に会いたい……貴女さえいてくれれば、私は何もいらなくて……うっ、あぁぁっ」
がくがくと身体を揺らし始めて暴れるユーグに枝の拘束が強まる。鋭い枝の先端が彼の綺麗な手の肌を切り裂き血が溢れてくる。
どうするのが正解かわからなかったが、アニエスはとにかくユーグを落ちつけさせたいと頬を撫で、抱きつくようにして彼の耳元で囁いた。
「大丈夫。何も奪わないわ。奪われていないもの。わたくしはあなたのそばにいるもの……」
だから大丈夫だと自分に言い聞かせるようにして彼に伝える。
「アニエス……」
彼の瞳と視線が絡み合う。こんなにも至近距離で見つめ合ったのはあの夜以来だ。あの時は睨むことしかできなかったが、今は彼が安心するよう精いっぱい微笑んでみせた。
「ユーグ。大好きよ」
彼はそんなアニエスを見つめると、もう一度彼女の名前を呟き、ふっと意識を失った。彼の心臓へと耳を押し当てると少し速いが、やがて規則正しくなった心臓の音が聞こえてきたのでほっとする。
そのまま力が抜けてずるずると座り込んでしまった。
(よかった。生きていた……)
これからどうすればいいか全くわからない。でもユーグはまだ生きている。今はそれだけで十分だとアニエスは顔を覆った掌からいくつもの涙を零して肩を震わせたのだった。
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