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生贄の意味
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マルセルの言葉に疑問を残しつつ、ユーグとの別れは迫ってきて、とうとう当日となった。
彼が森の奥深くにある神殿へと参るのは夕方から、日が沈むのと同時であった。午前中はそのために大掛かりな、代々受け継がれてきた儀式が大聖堂で王族や貴族を交えて執り行われる。
厳かな音楽が奏でられる中、大理石の床を、ユーグがゆっくりと歩きながらアニエスたちのいる方へ向かってくる。彼女は二階から見下ろす位置、ユーグとは向かい合うかたちで、見納めとなる彼の姿を目に焼き付けていた。
ユーグはくるぶしまである真っ白なローブに身を包み、精緻な金の刺繍が入った長く重たげな帯を首からかけ、頭には煌びやかな金の冠を被っている。好色で欲深な聖職者が白さを身につけると、かえってその邪念が浮き彫りになったようで歪んだ印象を抱かせるのだが、ユーグは違った。
彼の心には、人間が神から試練として与えられた欲の一切を持ち合わせていない。先日、アニエスに何らかの感情を抱いているように見えたが、それも会わない間にすべて断ち切ったようで、金色の瞳も、整った顔立ちも、何の感情も読み取れなかった。
だからこそ、善を象徴する白を全身に纏っても、本当に神の遣いのように見えた。いや、神そのものかもしれない。あるいは、この国を建国したダルトワ王そのもの……。
「なんて綺麗な方なんでしょう」
「まるで人ではないようだ……」
みな、ユーグの神々しさに言葉も出ず、ほぉっとため息をついて、魂を奪われたかのように魅入っている。
ただ一人、上から見下ろすアニエスの心は激しく渦巻いていた。冷静であれ、と自分を戒めようとするたびに騒めき、炎が揺らめくような……強い焦燥感に駆られていた。
(もし今、ここで彼の名を呼んでしまえば、どうなるかしら)
初めて会った時と同じ、人形のような顔をしているユーグから動揺を引き出すことは可能だろうか。
だがアニエスが声をかける前に、ユーグは国王の前までたどり着き、冠が落ちないよう腰だけ上手く落として礼を取った。それに応えるように父が片手を上げ、普段の柔らかな雰囲気とは違った、朗々とした、威厳のある声で彼に告げる。
「ユーグよ。我が王国のため、その身を捧げてくれるか」
「はい」
静かに、それでいて響く声でユーグが答える。父が頷き、犠牲となる彼に永遠の祝福が授けられるだろうと型通りの文言を述べた。
これから閉じた世界で過ごしていくというのに、どんな幸福が訪れるというのか。アニエスはユーグの瞳を覗き込んで問いかけたかったが、伏せられた視線に一切の拒絶を感じ取り、口を噤むしかなかった。
(ユーグ……)
この後また国王に膝を折り、元来た道を戻って行く。しかしユーグはそこで、こちらを見上げた。アニエスはどきりとした。もしかして、という期待が胸に湧くが、それはほんの一瞬の出来事であった。
彼はただ、本当に気紛れでこちらを見ただけのようだった。誰かを――自分を探しているわけでは決してなかった。
(これで、終わり)
ゆっくりと方向を変えて、光りあふれる扉の向こう、アニエスには決して行くことのできない世界へ彼は旅立っていく。
その事実はもう、誰にも変えられなかった。
その後、長い長い儀式を終え、アニエスはいつも通りの時間を過ごしたはずだ。しかしどこか身が入らず、上の空で夕食を食べ終え、気づいたらふかふかのクッションが敷き詰められた長椅子に腰かけていた。
「姫様。今日はお疲れになったでしょう」
いつも世話してくれる侍女が空になったカップに温かい茶を淹れてくれる。もう何度か、自分は飲み干していたらしい。
「……ええ」
ずっと、別のことに気を取られている。それが何なのか理解しているが、どうしようもないので、カップに注がれた液体にじっと視線を注ぐ。
その時、カタカタと部屋全体が揺れた気がした。
「地震……?」
ダルトワ王国では頻繁にではないが、地震が起こる。災害を引き起こすほどの大きな揺れはめったにないが、それでも突然揺れると、驚いてしまう。
「そうみたいですわね……でも、収まりましたわ。もしかすると、ユーグ様が神殿にお着きになられて、竜も驚いたのかもしれません」
ダルトワ王国の地下には竜が眠っているそうだ。
土地を荒らし、人々を襲っていた悪竜を倒そうと初代ダルトワ王が立ち上がり、見事竜の腹に深々と剣を突き刺した。そのあまりの痛みに竜はのたうち回り、大地に大きな割れ目ができ、人間たちは力を合わせて竜を谷底へと突き落とした。
黒々とした闇の中へ吸い込まれていく竜はこれから永遠の苦しみを味わうことになると悟り、腹を切り裂かれた痛みと待ち受ける恐怖のあまり二つの目から涙をぼろぼろと流して落ちていった。
人々は竜が二度と地上へ出てこないように土を被せ、祈りを捧げた。すると大地から種が芽吹き、やがて大きな巨木へと育った。ダルトワ王は神が祝福して下さった、いわば神の化身だと、その大樹を崇め、丁重に祀ることにした。
大樹は神樹と言われ、森の奥深く、神殿に生えているそうだ。というか、木があったからこそ、神殿を建てたのだろう。
「神樹を守るのは、今も竜が目覚めないよう、封印しているからよね?」
「ええ。そう伝えられております。神樹を傷つけたり、手入れを怠ったりすると、竜の力が解放されてしまい、王国をまた荒らしてしまうからと」
地震が数年に何度か起こるのも、竜が眠りから目覚めようとしているから……と考えられているそうだ。本当かどうかわからない。
しかし、誰かに神樹の世話をさせることで、生贄として差し出すことで、平和が維持され続けていく、と思うことができるのだろう。
(ユーグは、最初から知っていたと言っていた)
何もかも受け入れた眼差しは痛々しいほど真っ直ぐで、綺麗だった。しかしだからこそ、アニエスは許せなかった。今もまだ――
(いいえ。もう彼は神殿に到着した)
アニエスのこともいつしか忘れ、神樹のそばで、神樹と共に一生を終える。修道院で暮らすよりももっと孤独で、けれどだからこそ得られる境地がある。その道を望む者ならば、理想的な環境とすら言えるかもしれない。
「わたくしも、今日はダルトワ王国の始まりを思って眠るわ」
就寝の準備をするよう告げると、侍女は心得たように頷いた。
長々とした儀式の疲れですぐに眠りに落ちるかと期待したが、やはりだめだった。静寂さが逆に耳に障り、意識を覚醒させる。時間が過ぎていくことを考えるたび、言葉にできない妙な不安と焦りが胸に迫ってくる。
早く、早くしないと――
耐え切れず、アニエスは起き上がった。
(ユーグ……)
彼女は寝台を降り、身体をすっぽりと覆ってくれるローブを羽織ると、そっと部屋を抜け出す。衛兵たちに見つからないよう、王族しか知らない隠し通路を上手く使い、外へと出た。
(わたくし、何をしているのかしら)
いつもユーグと会う場所になっていた庭園へと着いていた。感傷に浸るためか。いいや、違う。心はもっと別のことを訴えている。彼女は顔を上げ、白い壁の向こうへと目をやった。大聖堂のある建物。舞踏会の夜、ユーグに無理矢理連れて行かれた場所。そこへ、アニエスは向かっていた。
夜の教会は不気味だった。以前来た時は明かりが灯っていたが、今夜は真っ暗だった。暗い洞窟を歩いているようで、逸る気持ちがなければ、とても心細かったことだろう。
小さな扉をくぐり、迷路のように入り組んだ廊下を歩いていくと、中から明かりが漏れている部屋が目に入る。以前ユーグに連れ込まれた部屋だろうか。
足音を立てぬよう、けれど急ぐように中の様子を知ろうとしていた。小さな話し声が、やがてはっきりと意味の分かる言葉として耳が拾っていく。
「……今回も無事に終わって何よりですな」
「ええ。しかし彼が子を作らなかったことは残念ですな」
「本当に。歴代の神子たちも、せめて自分の血を引く子どもは残したいと願っていましたからね」
「なぁに。代わりの子は他にもいますから」
「ユーグの母親も泣いて喜ぶことでしょう」
「ええ。自分の夫と同じ神樹の一部になれるのですから気が触れるほど嬉しがっていますよ」
「父親はよく保った方でしたが、息子はどれくらい自我を保っていられるでしょうね?」
「母親が完全に壊れてしまうのとどちらが早いか、賭けましょうか」
「聖職者がそんなことをしてはなりませんよ」
彼らは笑っている。とても愉快だというように……。
アニエスは扉から離れ、くるりと向きを変えた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、心臓が痛いほど早鐘を打っている。何も考えられず、ただ長い廊下を歩き続ける。
「王女殿下」
だから目の前にマルセルがいて、驚愕して、怯えたような眼差しで自分を見ることも、気づかなかった。ただ自ら近寄り、逃げるように後退りする彼の肩を掴んでいた。
「――ユーグは死ぬの?」
先ほど聞いた会話から直観のように導きだした答えを口にすれば、マルセルは驚愕の表情を浮かべ、唇を薄く開き、震わせた。
「どこで、それを……」
少年の態度が答えだった。彼も己の過ちを悟ったのか、みるみる青ざめていった。
「わたくしはずっと、神子というのは神殿に籠り、神樹の世話をしながら一生を過ごすことだと思っていた。死ぬのも、寿命が尽きる時で……でも、本当は違うの? 彼は――殺されることで、神樹を守る役目を果たしたと言えるの?」
「それは、その……」
「お願い。本当のことを教えて」
いつもの高圧的な態度ではなく、懇願するような眼差しに、マルセルは泣きそうな表情になって、耐えきれなくなったように顔を俯かせた。
「僕も……詳しくは知りません。教えてもらえないのです……でも、神子というのは神に――神樹に捧げる生贄だと言われています。生贄が与えられるからこそ、神樹は今でも生き続け、この国を守っているのだと……だから、ユーグ様のお母様がおかしくなってしまったことも、国中の孤児院から身寄りのない子どもがここへ集められてくることも、仕方がないことだと……」
――生贄。
ずっと比喩的な意味だと思っていた。でも、そうではなかった。
実際どういうことかはわからないが、ユーグは本当に生贄にされるのだ。自分の命と引き換えに。
「教会はそのつもりで、ずっと彼を育てていたというの……」
それを、彼も知っていた。
『貴女に会えたこと、私は一生忘れません』
最後に見た笑顔を不意に思い出し、アニエスは奥歯をギリッと噛みしめた。
「あの馬鹿っ……」
アニエスはマルセルの肩から手を離すと、走り出していた。後ろからマルセルの声が聞こえる。でも彼女にはもう、何も聞こえなかった。
彼が森の奥深くにある神殿へと参るのは夕方から、日が沈むのと同時であった。午前中はそのために大掛かりな、代々受け継がれてきた儀式が大聖堂で王族や貴族を交えて執り行われる。
厳かな音楽が奏でられる中、大理石の床を、ユーグがゆっくりと歩きながらアニエスたちのいる方へ向かってくる。彼女は二階から見下ろす位置、ユーグとは向かい合うかたちで、見納めとなる彼の姿を目に焼き付けていた。
ユーグはくるぶしまである真っ白なローブに身を包み、精緻な金の刺繍が入った長く重たげな帯を首からかけ、頭には煌びやかな金の冠を被っている。好色で欲深な聖職者が白さを身につけると、かえってその邪念が浮き彫りになったようで歪んだ印象を抱かせるのだが、ユーグは違った。
彼の心には、人間が神から試練として与えられた欲の一切を持ち合わせていない。先日、アニエスに何らかの感情を抱いているように見えたが、それも会わない間にすべて断ち切ったようで、金色の瞳も、整った顔立ちも、何の感情も読み取れなかった。
だからこそ、善を象徴する白を全身に纏っても、本当に神の遣いのように見えた。いや、神そのものかもしれない。あるいは、この国を建国したダルトワ王そのもの……。
「なんて綺麗な方なんでしょう」
「まるで人ではないようだ……」
みな、ユーグの神々しさに言葉も出ず、ほぉっとため息をついて、魂を奪われたかのように魅入っている。
ただ一人、上から見下ろすアニエスの心は激しく渦巻いていた。冷静であれ、と自分を戒めようとするたびに騒めき、炎が揺らめくような……強い焦燥感に駆られていた。
(もし今、ここで彼の名を呼んでしまえば、どうなるかしら)
初めて会った時と同じ、人形のような顔をしているユーグから動揺を引き出すことは可能だろうか。
だがアニエスが声をかける前に、ユーグは国王の前までたどり着き、冠が落ちないよう腰だけ上手く落として礼を取った。それに応えるように父が片手を上げ、普段の柔らかな雰囲気とは違った、朗々とした、威厳のある声で彼に告げる。
「ユーグよ。我が王国のため、その身を捧げてくれるか」
「はい」
静かに、それでいて響く声でユーグが答える。父が頷き、犠牲となる彼に永遠の祝福が授けられるだろうと型通りの文言を述べた。
これから閉じた世界で過ごしていくというのに、どんな幸福が訪れるというのか。アニエスはユーグの瞳を覗き込んで問いかけたかったが、伏せられた視線に一切の拒絶を感じ取り、口を噤むしかなかった。
(ユーグ……)
この後また国王に膝を折り、元来た道を戻って行く。しかしユーグはそこで、こちらを見上げた。アニエスはどきりとした。もしかして、という期待が胸に湧くが、それはほんの一瞬の出来事であった。
彼はただ、本当に気紛れでこちらを見ただけのようだった。誰かを――自分を探しているわけでは決してなかった。
(これで、終わり)
ゆっくりと方向を変えて、光りあふれる扉の向こう、アニエスには決して行くことのできない世界へ彼は旅立っていく。
その事実はもう、誰にも変えられなかった。
その後、長い長い儀式を終え、アニエスはいつも通りの時間を過ごしたはずだ。しかしどこか身が入らず、上の空で夕食を食べ終え、気づいたらふかふかのクッションが敷き詰められた長椅子に腰かけていた。
「姫様。今日はお疲れになったでしょう」
いつも世話してくれる侍女が空になったカップに温かい茶を淹れてくれる。もう何度か、自分は飲み干していたらしい。
「……ええ」
ずっと、別のことに気を取られている。それが何なのか理解しているが、どうしようもないので、カップに注がれた液体にじっと視線を注ぐ。
その時、カタカタと部屋全体が揺れた気がした。
「地震……?」
ダルトワ王国では頻繁にではないが、地震が起こる。災害を引き起こすほどの大きな揺れはめったにないが、それでも突然揺れると、驚いてしまう。
「そうみたいですわね……でも、収まりましたわ。もしかすると、ユーグ様が神殿にお着きになられて、竜も驚いたのかもしれません」
ダルトワ王国の地下には竜が眠っているそうだ。
土地を荒らし、人々を襲っていた悪竜を倒そうと初代ダルトワ王が立ち上がり、見事竜の腹に深々と剣を突き刺した。そのあまりの痛みに竜はのたうち回り、大地に大きな割れ目ができ、人間たちは力を合わせて竜を谷底へと突き落とした。
黒々とした闇の中へ吸い込まれていく竜はこれから永遠の苦しみを味わうことになると悟り、腹を切り裂かれた痛みと待ち受ける恐怖のあまり二つの目から涙をぼろぼろと流して落ちていった。
人々は竜が二度と地上へ出てこないように土を被せ、祈りを捧げた。すると大地から種が芽吹き、やがて大きな巨木へと育った。ダルトワ王は神が祝福して下さった、いわば神の化身だと、その大樹を崇め、丁重に祀ることにした。
大樹は神樹と言われ、森の奥深く、神殿に生えているそうだ。というか、木があったからこそ、神殿を建てたのだろう。
「神樹を守るのは、今も竜が目覚めないよう、封印しているからよね?」
「ええ。そう伝えられております。神樹を傷つけたり、手入れを怠ったりすると、竜の力が解放されてしまい、王国をまた荒らしてしまうからと」
地震が数年に何度か起こるのも、竜が眠りから目覚めようとしているから……と考えられているそうだ。本当かどうかわからない。
しかし、誰かに神樹の世話をさせることで、生贄として差し出すことで、平和が維持され続けていく、と思うことができるのだろう。
(ユーグは、最初から知っていたと言っていた)
何もかも受け入れた眼差しは痛々しいほど真っ直ぐで、綺麗だった。しかしだからこそ、アニエスは許せなかった。今もまだ――
(いいえ。もう彼は神殿に到着した)
アニエスのこともいつしか忘れ、神樹のそばで、神樹と共に一生を終える。修道院で暮らすよりももっと孤独で、けれどだからこそ得られる境地がある。その道を望む者ならば、理想的な環境とすら言えるかもしれない。
「わたくしも、今日はダルトワ王国の始まりを思って眠るわ」
就寝の準備をするよう告げると、侍女は心得たように頷いた。
長々とした儀式の疲れですぐに眠りに落ちるかと期待したが、やはりだめだった。静寂さが逆に耳に障り、意識を覚醒させる。時間が過ぎていくことを考えるたび、言葉にできない妙な不安と焦りが胸に迫ってくる。
早く、早くしないと――
耐え切れず、アニエスは起き上がった。
(ユーグ……)
彼女は寝台を降り、身体をすっぽりと覆ってくれるローブを羽織ると、そっと部屋を抜け出す。衛兵たちに見つからないよう、王族しか知らない隠し通路を上手く使い、外へと出た。
(わたくし、何をしているのかしら)
いつもユーグと会う場所になっていた庭園へと着いていた。感傷に浸るためか。いいや、違う。心はもっと別のことを訴えている。彼女は顔を上げ、白い壁の向こうへと目をやった。大聖堂のある建物。舞踏会の夜、ユーグに無理矢理連れて行かれた場所。そこへ、アニエスは向かっていた。
夜の教会は不気味だった。以前来た時は明かりが灯っていたが、今夜は真っ暗だった。暗い洞窟を歩いているようで、逸る気持ちがなければ、とても心細かったことだろう。
小さな扉をくぐり、迷路のように入り組んだ廊下を歩いていくと、中から明かりが漏れている部屋が目に入る。以前ユーグに連れ込まれた部屋だろうか。
足音を立てぬよう、けれど急ぐように中の様子を知ろうとしていた。小さな話し声が、やがてはっきりと意味の分かる言葉として耳が拾っていく。
「……今回も無事に終わって何よりですな」
「ええ。しかし彼が子を作らなかったことは残念ですな」
「本当に。歴代の神子たちも、せめて自分の血を引く子どもは残したいと願っていましたからね」
「なぁに。代わりの子は他にもいますから」
「ユーグの母親も泣いて喜ぶことでしょう」
「ええ。自分の夫と同じ神樹の一部になれるのですから気が触れるほど嬉しがっていますよ」
「父親はよく保った方でしたが、息子はどれくらい自我を保っていられるでしょうね?」
「母親が完全に壊れてしまうのとどちらが早いか、賭けましょうか」
「聖職者がそんなことをしてはなりませんよ」
彼らは笑っている。とても愉快だというように……。
アニエスは扉から離れ、くるりと向きを変えた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、心臓が痛いほど早鐘を打っている。何も考えられず、ただ長い廊下を歩き続ける。
「王女殿下」
だから目の前にマルセルがいて、驚愕して、怯えたような眼差しで自分を見ることも、気づかなかった。ただ自ら近寄り、逃げるように後退りする彼の肩を掴んでいた。
「――ユーグは死ぬの?」
先ほど聞いた会話から直観のように導きだした答えを口にすれば、マルセルは驚愕の表情を浮かべ、唇を薄く開き、震わせた。
「どこで、それを……」
少年の態度が答えだった。彼も己の過ちを悟ったのか、みるみる青ざめていった。
「わたくしはずっと、神子というのは神殿に籠り、神樹の世話をしながら一生を過ごすことだと思っていた。死ぬのも、寿命が尽きる時で……でも、本当は違うの? 彼は――殺されることで、神樹を守る役目を果たしたと言えるの?」
「それは、その……」
「お願い。本当のことを教えて」
いつもの高圧的な態度ではなく、懇願するような眼差しに、マルセルは泣きそうな表情になって、耐えきれなくなったように顔を俯かせた。
「僕も……詳しくは知りません。教えてもらえないのです……でも、神子というのは神に――神樹に捧げる生贄だと言われています。生贄が与えられるからこそ、神樹は今でも生き続け、この国を守っているのだと……だから、ユーグ様のお母様がおかしくなってしまったことも、国中の孤児院から身寄りのない子どもがここへ集められてくることも、仕方がないことだと……」
――生贄。
ずっと比喩的な意味だと思っていた。でも、そうではなかった。
実際どういうことかはわからないが、ユーグは本当に生贄にされるのだ。自分の命と引き換えに。
「教会はそのつもりで、ずっと彼を育てていたというの……」
それを、彼も知っていた。
『貴女に会えたこと、私は一生忘れません』
最後に見た笑顔を不意に思い出し、アニエスは奥歯をギリッと噛みしめた。
「あの馬鹿っ……」
アニエスはマルセルの肩から手を離すと、走り出していた。後ろからマルセルの声が聞こえる。でも彼女にはもう、何も聞こえなかった。
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