大嫌いで大好きな人が生贄にされると知って、つい助けてしまいました。

りつ

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翻弄される

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 王宮の中庭はひんやりとしていた。

「お兄様にあんなことをおっしゃって、よかったのですか」

 後ろからユーグがそう問いかけてくる。侍女や衛兵は気を遣って遠い距離にいてくれるだろう。

「いいのよ。いっつも周りの目を気にせず突っかかってくるんですもの」

 そこでちょっとアニエスは黙り込んで、こう付け加えた。

「本当は昔みたいに話しかけられて、少し驚いたの」

 こちらが鬱陶しくなるほど兄はアニエスを構い倒してきたのに、いつからか距離を置き、どこかぎくしゃくとした関係を築くようになっていた。

(言葉や態度は乱暴だったけれど、心配していたのよね……)

「……そうね。あとで、謝っておくわ」
「ルドヴィク殿下は、姫様のことを本当にお好きなのです」
「なによそれ」

 振り返って、アニエスは驚いた。ユーグの瞳に陰りがあり、どこか苦しそうにも見えたから。そして、思ったよりもずっと近い距離にいたから。

「私が自分の立場を弁えず貴女と踊ってしまったから、許せなかったのでしょう」
「……わたくしがあなたと踊ると決めたの。お兄様に許しをもらう必要はないわ」

 何だかおかしかった。いつもの自分ならば、まさに兄が言ったような考えでユーグの誘いを跳ねのけただろうに……今夜に限ってはそんなことないと否定して、彼を庇っている。

「わたくしは誰の意見にも左右されない。自分のしたいことは自分で決めるわ」

 だから気にするなと遠回しに、伝わるかどうかわからなかったが、アニエスはユーグを慰めた。だが彼の表情は晴れなかった。

「そういうわけには、いかないでしょう」
「え?」

 ユーグはアニエスのほっそりとした手首をとった。今まで彼が自分から触れたことなどなかったので驚いてしまう。一体何をするのだと言いたかったが、感情の見えない顔に言葉を飲み込んでしまう。

「貴女は王女で、将来誰かと結婚しなければならない」
「……だから何だと言うの?」

 彼の口から結婚という言葉を聴いて、アニエスはいささか興醒めした。

「わたくしが結婚するとしても、その相手はわたくしのお眼鏡に適う相手よ。隣に立つのに相応しい殿方でなければ、わたくしは絶対に認めない。もしこの世にわたくしと吊り合う男がいなければ、一生結婚しないという道を選ぶことだって辞さないわ」

 口にしながら、なんだか頬が熱くなってきた。自分は何をこんなに熱く語っているのだろう。

 でも、伝えたいと思ったのだ。自分の未来も、隣に立つべき人間も、選ぶのは自分だ。ユーグには、その気持ちを誰よりもわかってほしかった。

「いいえ、貴女は結婚します」

 しかしアニエスの気持ちに水を差すようにユーグはきっぱりと言い放った。それは彼にしては珍しく断言するような口調であった。

「そんなのまだわからな――」
「いいえ、わかります。貴女は誰よりもご自分の身分と、すべきことを理解なさっているから」

 金色の瞳に射貫くように見つめられ、思わずたじろいでしまいそうになった。逃れるようにふいと視線を逸らしてしまう。

「そうかしら。どちらかといえば好きなことばかりさせてもらって、お父様たちにも甘やかされていると思うわ」
「甘えているようで、甘えられていることもあります。王妃を亡くされたお父上が寂しくないよう、わざと鬱陶しがられるほど関わることも、優しさの一つでしょう」
「そんなの、あなたが都合よく解釈しているだけよ」

 別に父の寂しい顔を見るのが嫌だっただけだ。自分や兄という家族がいることを忘れてしまったように落ち込んでいたから思い出させてあげただけだ。

「それに隣国からの婚約も破談にしたわ。王太子に恥もかかせたわ」
「それは大切な侍女を傷つけられそうになったからでしょう。貴女が泥をかぶることで問題を大事にせず、あえて痛み分けということで相手に引かせた」
「……嫌いだっただけよ。あんな男」

 そうだ。まだ一度か二度会っただけだというのに馴れ馴れしく接してきて、部屋へ押しかけてきたと思えば身体の関係を迫って、それで追い出したら幼い頃からアニエスに仕えてくれている侍女に手を出して……そんな男が自分の伴侶になるなど、ゾッとした。

「わたくしから、願い下げたのよ」
「正しい判断ですよ」

 ユーグは薄っすらと笑みを浮かべ言った。

「あんな人間、貴女に相応しくない」

 笑っているのに、どこか目はぎらついていた。
 普段の清廉な彼には似つかわしくない雰囲気や顔をしていたのでアニエスは少し怖いような、不安な気持ちになった。

「じゃあ、あなたはどんな男性がわたくしに相応しいと思うの」

 初めて口にする問いかけだが、アニエスは何度も自分が彼に尋ねてきた気がした。いろんな言葉や態度で、自分は彼に問うていた。

 あなたは、わたくしのことをどう思っているのか。

 いつもユーグはその答えをはぐらかしてきた。常に一歩引いて、自分ではない者と寄り添うアニエスの姿を理想と述べた。それは彼の立場を考えれば、当然のことだ。

 しかしアニエスはそんな彼の態度に許せなくなって、けれども仕方がないことだと無理矢理納得させてきた。

 だから今回もきっと――

「ついてきてください」
「えっ」

 ユーグはアニエスの問いかけに答えず、手首を掴んでいた指先でアニエスの手を握りしめると、そのまま歩き出す。後ろを見れば、目付け役の侍女が焦った様子で近づいてこようとする。

 彼は侍女に大聖堂でお祈りしてくるだけだと告げ、共について来ることを拒んだ。柔らかな口調であったが、命令する響きが含まれていた。

 侍女は怯み、ユーグはアニエスの手を引き、教会の人間が暮らす区画へと連れて行った。いつになく強引な様子の彼に、アニエスは戸惑う。

「ねぇ、どこへ行くの」
「お祈りをすると、申し上げたでしょう?」

 嘘だ。アニエスは直感的にそう思った。

 ひんやりとした空気に、喧騒から外れていくことに、心細さを覚える。とうとう、大聖堂の扉の前で足を止めてしまった。

「わたくしは、そちらに行けないわ」

 行ってはいけない。

「来ては、くださらないのですか」
「あなた、おかしいわ」

 自分の方を見ようともしないユーグに、アニエスは非難めいた声で詰る。それで彼はようやくこちらを振り返ってくれた。ほっとしたのも束の間、彼はアニエスを抱き上げた。

「なっ、ちょっと!」

 そのまま扉を開けて、誰もいない身廊を歩いていく。中は薄暗く、ぼうっと頼りない明かりに、奥へ進んでいくにつれて違う世界へ足を踏み入れている気がした。

 アニエスはユーグに下ろすよう命じたが、彼は無視した。暴れても、彼の力は強かった。そして彼に抱えられて見渡す目線がとても高いことに、彼女はとても驚いた。

(一体いつの間にこんなに大きくなったのかしら)

 昔は美少女と見間違うほどの華奢な体つきだったのに。自分の方が強い力を持っていたはずなのに……。

「ユーグ」

 彼女はもう一度、今度は別に彼に何かを命じる意図はなく、吐息のように彼の名が口から零れた。彼は一瞬ぴくりと肩を震わせたが、やはり止まることはなく、目立たない小さな扉をくぐり、入り組んだ廊下を抜けて、とある一室へと入った。

 広くも狭くもない、がらんとした部屋であった。家具がほとんどないせいで、寝台の存在がやけに目立つ。

 吸い寄せられるように見ているアニエスの視線に応えるように、ユーグは寝台の上へと連れて行く。静かに下されたかと思うと、すぐに押し倒され、見上げた先に憎らしいほど綺麗な男が自分を見下ろしていた。

「一体、どういうつもり?」

 彼は答えない。アニエスもこの状況が意味することを理解していないわけではない。寝台の上で男女がすべきこと。眠る以外のことを、彼は行おうとしている。

「私にされるのは、嫌ですか」
「そういうことを聞いているのではないわ」

 彼らしくない行動だった。

「今日のあなた、変よ」

 今、自分を見つめる表情も、目も、何かに追いつめられているような、今まで必死に留めてきた感情が逆流しそうな、危うさと逼迫さを感じ取った。

「私はもう、貴女に会えなくなります」
「神殿へ身を捧げるから」

 はい、と彼の答えが吐息として首にかかる。

「だからその前に、わたくしを抱きたいと?」
「ええ」

 何だろう、とアニエスは思った。怒りもあったが、それよりも悲しみの方が上回った。

「あなたは、自分だけやりたいことをやって、あとは未練なく、神の世界へ行くというの?」

 アニエスの言葉にユーグは目を瞠った。金色の瞳が揺れる。何かを言おうとして、だが結局何も言わずに口を結んだ。弁解しない彼にアニエスは打って変わって微笑んだ。

「いいのよ。あなたはこの国のために身を捧げてくれるんですもの。それなのにわたくしは何もできず、ただ王女というだけで悠々自適に暮らしていくことができる。あなたの人生は、もう誰とも交わらないというのに」
「私はそれで構いません」

 アニエスの言葉を遮るようにユーグが否定した。

「私は、自分の生まれた意味をわかっています。私が今まで教会の方々に手厚く育てられてきたのはそのためです。ですから、」
「憐れむ必要はないと?」
「ええ。そうです」

 ユーグは顔を背けてそう答えた。アニエスが黙り込むと、我慢できなくなったようにまた、こちらを見下ろして、傷ついたような表情で動揺を晒した。

(どうしてあなたがそんな顔をするの)

 何を考えているの。

 アニエスは強い眼差しで語りかける。ユーグも見つめ返し、何かに激しく葛藤する苦悩の色を浮かべながらも、やがて振り切れたように顔を近づけてきた。

 アニエスは目を開けたまま、彼のきめ細かな肌が頬に振れ、形の良い薄い唇が自分の口に触れるのを感じた。口づけは、ほんの少しであった。同じことを繰り返すことも、その先を続けることもせず、ユーグは顔を離して、アニエスの頬に触れた。

「貴女に会えたこと、私は一生忘れません」

 胸に染み入るような笑顔だった。アニエスはしばし言葉を失った。そんな彼女をしばらくユーグも見つめていたが、やがて覆い被さっていた身体を起こし、さっと寝台から下りた。

「引き留めてしまって申し訳ありません。きっと陛下やルドヴィク殿下が心配なさっていることでしょう」

 呆然としていたアニエスだがその言葉にはっと我に返った。そして頬が熱くなった。今度は怒りのためだとはっきりわかった。唇を震わせて、感情の赴くままに相手を罵りたい。しかし王女としての矜持がぎりぎり、最後の見栄を貫こうとする。

「わたくしにこんな恥をかかせて、ただで済むと思っているの」

 感情を必死で押し殺した声で問い詰めるアニエスを、ユーグの目はもう冷静に見ていた。そんな彼にアニエスの心もすうっと冷めていく。

「賢明な貴女ならば、今夜のことは決して口にはなさらないはずです」
「最低ね、あなた」

 アニエスは起き上がり、寝台から下りた。

「送ります」
「けっこうよ」

 触れようとした手を冷たく払いのける。乾いた音が部屋の中に響くも、彼がどんな表情を浮かべたかも気にならなかった。傷つけばいい。自分に期待させて恥をかかせた罰だ、と彼女は残忍な気持ちでそう思った。

「さようなら、猊下。あなたがこの国のために立派な務めを果たしてくれること、王女として期待しております」
「はい。どうか祈っていてください」
「……あなたなんか、大嫌いよ」

 吐き捨てるようにそう言うと、アニエスは部屋を後にした。ユーグは追ってこなかった。

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