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32、罪人
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マティルダは夜会へ出席することをやめた。余所の家で我も忘れて淫蕩な行為に耽ったことを、熱が引いた頭で気持ち悪いと思ったからだ。
ちょうど月のものがきたこともあり、オズワルドとの交わりも避けることができた。彼もまた頭が冷えて距離を置くだろうと思ったが、意外にも違った。
「マティルダ。よかったら、一緒に行きませんか」
妻に身体だけの関係だと思われるのを危惧してか、あるいは憐れんでか、犬の散歩に誘われた。
行くべきだったのかもしれないが、マティルダはやんわりと断った。一人で過ごしたかったことと、ポーリーがあまりオズワルドを好いていないからだ。マティルダを傷つけた犬たちの飼い主であることを、においで敏感に嗅ぎとっているのかもしれない。
いずれにせよ、マティルダはしばらくオズワルドとの接触を避け、以前のように放置されることを望んだ。
(それに日記も、読まなきゃ……)
残りのページはあと少しとなっていた。最初からわかっていたことだが、デイヴィッドはすでにこの世にいない。あの日記には終わりがある。まだその場面が来ないでほしいと思っていたが、とうとうそのページが訪れた。
『医者から、治る見込みのない病名を告げられた』
薬で苦痛を和らげるのがせいぜいの治療。
デイヴィッドは病に侵され、心身ともに蝕まれていく。
『シェイラに看病される日々。彼女の優しさが身に染みると同時に、これまでの手酷い扱いを後悔する。だがやはり、嫉妬心は消えてくれない。私が寝台に括りつけられている間、妻は弟と慰め合っているのかもしれないのだ』
シェイラがどうしようもなく好きで、愛しているからこそ許したい。許したくない。許すことはできない。
『いっそあの子でなかったら、ここまで苦しむことはなかったのだろうか。私の弟ではなく、血の繋がりも何もない赤の他人であったら……私とあの子の何が違う、何がだめだった、年齢か、それとも容姿か、兄弟なのに、どうして私は選ばれなかった側なのか、そういうことを天井の染みを見つめながら永遠と考えてしまい、気が狂いそうになる』
『ようやく意識を失ったと思っても、痛みでまた目が覚める。まるで内側から恐ろしい化け物が喰い破ってくるのではないかという恐怖に陥る。シェイラにそばにいてほしい。けれど彼女はいない。きっとあの男といる。寂しい。苦しい。いっそのこと、ひと思いに殺してほしい。楽になりたい』
マティルダは乱れた文字を上からそっと撫でて、本を閉じた。立ち上がり、今日はもう帰ろうと図書室を後にする。
「マティルダ」
屋敷を出たところで呼びとめられる。
「少し、いいかしら」
「……はい、お義姉様」
シェイラはマティルダについて来てほしいと言って歩き出した。迷ったものの、彼女の背中を追いかける。行き先は温室であった。
「ここ、わたしが入ってもよろしいんですの」
「ええ。どうぞ」
中は広く、珍しい植物が並べられていた。
シェイラは控えめな口調で異国から取り寄せてくれたものだと教えてくれる。
「旦那様が、ですか」
「ええ。お仕事で隣国へ行った際に、いつも持ち帰ってきてくれたの」
「……そうですか」
『シェイラのために隣国から植物を取り寄せた。彼女が気に入ってくれるといい。そう、願いながら……』
マティルダの口にした旦那様と、シェイラの旦那様は一致しなかった。彼女が今誰を想っているのか、残酷なほど伝えてくる。
昔から、ずっと……
「マティルダ。私ね……ここで罪を犯したの」
ドーム状になっている温室の真ん中あたりで、シェイラは腰を下ろした。西日が差し込み、眩しいくらいに彼女を照らしている。同時に、黒い影も色濃く映し出していた。
そんな彼女の小さな背中を、数歩さがった状態でマティルダはじっと眺めた。
「好きになってはいけない人だとわかっているのに、何度も……」
「オズワルドと交わったんですね」
シェイラの肩が震える。恐る恐る振り返った顔は裁かれる罪人のようであった。――いや、罪人なのだろう。夫を裏切り、義弟と何度も淫蕩な行為に溺れたのだから。
だが、マティルダは別に裁判官でも、神でも何でもなかった。
「どうしてそんなことをわたしに伝えるんですか」
「どうしてって……」
「だって、今さらそんなこと言われても困りますわ」
当てつけのようなものだろうか。オズワルドと自分の関係はぽっと出の女に壊されるような儚く、脆いものではないと言いたいのだろうか。
(そういえばパメラが、悪いことをして結ばれた関係は普通よりずっと断ち切り難いものだと言っていたわね……)
オズワルドが今マティルダに執着しているのも、ただ身体に溺れているだけ。シェイラと犯した罪に比べれば、ずっと弱い絆なのだろう。
そしてパメラはこうも言っていた。
『罪の味は蜜の味。過ちを犯せば犯すほど、罪悪感は増す。そしてそれは悦びを得ることと同じなのよ』
こんなことはしてはいけないという良識がなければ悦びは得られない。自分は罪人だという自覚が必要なのだ。
「私はただ……あなたに謝りたくて……いいえ、ただ、自分の犯したことが恐ろしくて、自分だけの胸に留めておくことができなくて、どうしていいかわからなくて……」
シェイラはぶるぶると身体を震わせて、己の身体を細い腕で抱きしめる。とても演技には見えない。心の底から怯えている姿を眺めながら、ああ、この人は敬虔な人なんだなとマティルダは思った。
神様が教えてくれる教えを――姦淫するなかれ、という言葉を守りたかったのだ。
「お義姉様は、神の教えに背いたことが恐ろしいのですね」
マティルダはシェイラのそばへ寄ると、そっと隣に座り込んだ。彼女はマティルダの心中が読めないのか、困惑した目で見つめてくる。
「あなたは……怖くないの?」
「ええ、怖くありませんわ」
「どうして……?」
「さぁ……どうしてでしょう。父が熱心な信徒ではなかったことや、母の生まれが関係しているのかもしれません」
母の住まう国では、姦淫はそれほど罪ではなかった。そもそも信仰する神は唯一ではなく、多くの神を崇拝し、母親や父親が違う兄弟姉妹で神話が展開されていく。
この国からすればゾッとするような話かもしれないが、それが当たり前として育った人間からすれば別にどうということはない。むしろたった一人の神をそこまで信じるこの国の精神こそ異常に見えるかもしれないのだ。
「でもあなたは……この国で生まれ、育ったのでしょう?」
「はい。けれど結局のところ、神の言葉よりも、自分の気持ちが大切だと思っていますから」
微笑と共に答えれば、シェイラは絶句する。奇怪なものを見る目がいつかのオズワルドにそっくりで彼女はおかしく思った。
別に自分は変なことを述べているつもりはない。
(あなたも、同じでしょう?)
神よりも自身の心に従ったからこそ、シェイラもオズワルドも今があるのだから。
(ああ、でも教えを破ってしまったから、今とっても苦しんでいらっしゃるのかしら……)
後悔しているのだろうか。やり直せるなら、デイヴィッド一人だけを愛し続けたのだろうか。よくわからない。
地獄に堕ちてもいいと思ってオズワルドと結ばれたのではないか。それとも、彼女にとっては生きている今この瞬間が地獄なのか。
(けど、見方を変えれば誰だって罪人になるんじゃないかしら)
もしシェイラを物語の主人公と見立てれば、自分は彼女とオズワルドたちを引き裂く悪女の役目となる。
デイヴィッドの日記もそうだ。いくら事情があるとはいえ、妻との行為を詳細に書き綴っており、女性からすれば気持ち悪いと非難されるのが普通だ。
誰にだって、罪はある。意識しているか、していないかの違い。シェイラは自覚があるだけいいのか、悪いのか……考えていると、面倒くさくなってくる。
「ねぇ、お義姉様は結局どうしたいのですか」
「私は、」
「わたしに、どうしてほしいんですか」
マティルダはシェイラの両手を握り、心を込めて告げた。
「わたし、お義姉様の願いなら何でも叶えますわ」
もうオズワルドとあんなことしないでほしい。彼を返してほしい。彼と別れてほしい。
そういう言葉を、シェイラは述べるはずだ。だが――
「私は、あなたにオズワルドを幸せにしてほしい……」
どこまでも彼女は聖女であろうとした。
(うそつき)
マティルダはすぅっと気持ちが冷めていき、ぱっと手を放すと立ち上がった。
「マティルダ……?」
突然雰囲気の変わった彼女に、シェイラが怯えた眼差しで見上げる。まるで神に見放された者の姿だったが、マティルダはもうどうでもいいやと思った。
「お話はそれだけですか。わたし、疲れてしまいましたからそろそろあちらへ戻りますわ」
「あ、待って、マティルダ……!」
さっさと歩きだしたマティルダを追って、転びそうな勢いでシェイラが呼び止めた。
「私、もう、オズワルドのことは諦めます。だから……彼のこと、よろしくお願いします」
まるで彼の妻のような台詞を、シェイラは泣きそうで、真剣な顔で口にしたのだった。
ちょうど月のものがきたこともあり、オズワルドとの交わりも避けることができた。彼もまた頭が冷えて距離を置くだろうと思ったが、意外にも違った。
「マティルダ。よかったら、一緒に行きませんか」
妻に身体だけの関係だと思われるのを危惧してか、あるいは憐れんでか、犬の散歩に誘われた。
行くべきだったのかもしれないが、マティルダはやんわりと断った。一人で過ごしたかったことと、ポーリーがあまりオズワルドを好いていないからだ。マティルダを傷つけた犬たちの飼い主であることを、においで敏感に嗅ぎとっているのかもしれない。
いずれにせよ、マティルダはしばらくオズワルドとの接触を避け、以前のように放置されることを望んだ。
(それに日記も、読まなきゃ……)
残りのページはあと少しとなっていた。最初からわかっていたことだが、デイヴィッドはすでにこの世にいない。あの日記には終わりがある。まだその場面が来ないでほしいと思っていたが、とうとうそのページが訪れた。
『医者から、治る見込みのない病名を告げられた』
薬で苦痛を和らげるのがせいぜいの治療。
デイヴィッドは病に侵され、心身ともに蝕まれていく。
『シェイラに看病される日々。彼女の優しさが身に染みると同時に、これまでの手酷い扱いを後悔する。だがやはり、嫉妬心は消えてくれない。私が寝台に括りつけられている間、妻は弟と慰め合っているのかもしれないのだ』
シェイラがどうしようもなく好きで、愛しているからこそ許したい。許したくない。許すことはできない。
『いっそあの子でなかったら、ここまで苦しむことはなかったのだろうか。私の弟ではなく、血の繋がりも何もない赤の他人であったら……私とあの子の何が違う、何がだめだった、年齢か、それとも容姿か、兄弟なのに、どうして私は選ばれなかった側なのか、そういうことを天井の染みを見つめながら永遠と考えてしまい、気が狂いそうになる』
『ようやく意識を失ったと思っても、痛みでまた目が覚める。まるで内側から恐ろしい化け物が喰い破ってくるのではないかという恐怖に陥る。シェイラにそばにいてほしい。けれど彼女はいない。きっとあの男といる。寂しい。苦しい。いっそのこと、ひと思いに殺してほしい。楽になりたい』
マティルダは乱れた文字を上からそっと撫でて、本を閉じた。立ち上がり、今日はもう帰ろうと図書室を後にする。
「マティルダ」
屋敷を出たところで呼びとめられる。
「少し、いいかしら」
「……はい、お義姉様」
シェイラはマティルダについて来てほしいと言って歩き出した。迷ったものの、彼女の背中を追いかける。行き先は温室であった。
「ここ、わたしが入ってもよろしいんですの」
「ええ。どうぞ」
中は広く、珍しい植物が並べられていた。
シェイラは控えめな口調で異国から取り寄せてくれたものだと教えてくれる。
「旦那様が、ですか」
「ええ。お仕事で隣国へ行った際に、いつも持ち帰ってきてくれたの」
「……そうですか」
『シェイラのために隣国から植物を取り寄せた。彼女が気に入ってくれるといい。そう、願いながら……』
マティルダの口にした旦那様と、シェイラの旦那様は一致しなかった。彼女が今誰を想っているのか、残酷なほど伝えてくる。
昔から、ずっと……
「マティルダ。私ね……ここで罪を犯したの」
ドーム状になっている温室の真ん中あたりで、シェイラは腰を下ろした。西日が差し込み、眩しいくらいに彼女を照らしている。同時に、黒い影も色濃く映し出していた。
そんな彼女の小さな背中を、数歩さがった状態でマティルダはじっと眺めた。
「好きになってはいけない人だとわかっているのに、何度も……」
「オズワルドと交わったんですね」
シェイラの肩が震える。恐る恐る振り返った顔は裁かれる罪人のようであった。――いや、罪人なのだろう。夫を裏切り、義弟と何度も淫蕩な行為に溺れたのだから。
だが、マティルダは別に裁判官でも、神でも何でもなかった。
「どうしてそんなことをわたしに伝えるんですか」
「どうしてって……」
「だって、今さらそんなこと言われても困りますわ」
当てつけのようなものだろうか。オズワルドと自分の関係はぽっと出の女に壊されるような儚く、脆いものではないと言いたいのだろうか。
(そういえばパメラが、悪いことをして結ばれた関係は普通よりずっと断ち切り難いものだと言っていたわね……)
オズワルドが今マティルダに執着しているのも、ただ身体に溺れているだけ。シェイラと犯した罪に比べれば、ずっと弱い絆なのだろう。
そしてパメラはこうも言っていた。
『罪の味は蜜の味。過ちを犯せば犯すほど、罪悪感は増す。そしてそれは悦びを得ることと同じなのよ』
こんなことはしてはいけないという良識がなければ悦びは得られない。自分は罪人だという自覚が必要なのだ。
「私はただ……あなたに謝りたくて……いいえ、ただ、自分の犯したことが恐ろしくて、自分だけの胸に留めておくことができなくて、どうしていいかわからなくて……」
シェイラはぶるぶると身体を震わせて、己の身体を細い腕で抱きしめる。とても演技には見えない。心の底から怯えている姿を眺めながら、ああ、この人は敬虔な人なんだなとマティルダは思った。
神様が教えてくれる教えを――姦淫するなかれ、という言葉を守りたかったのだ。
「お義姉様は、神の教えに背いたことが恐ろしいのですね」
マティルダはシェイラのそばへ寄ると、そっと隣に座り込んだ。彼女はマティルダの心中が読めないのか、困惑した目で見つめてくる。
「あなたは……怖くないの?」
「ええ、怖くありませんわ」
「どうして……?」
「さぁ……どうしてでしょう。父が熱心な信徒ではなかったことや、母の生まれが関係しているのかもしれません」
母の住まう国では、姦淫はそれほど罪ではなかった。そもそも信仰する神は唯一ではなく、多くの神を崇拝し、母親や父親が違う兄弟姉妹で神話が展開されていく。
この国からすればゾッとするような話かもしれないが、それが当たり前として育った人間からすれば別にどうということはない。むしろたった一人の神をそこまで信じるこの国の精神こそ異常に見えるかもしれないのだ。
「でもあなたは……この国で生まれ、育ったのでしょう?」
「はい。けれど結局のところ、神の言葉よりも、自分の気持ちが大切だと思っていますから」
微笑と共に答えれば、シェイラは絶句する。奇怪なものを見る目がいつかのオズワルドにそっくりで彼女はおかしく思った。
別に自分は変なことを述べているつもりはない。
(あなたも、同じでしょう?)
神よりも自身の心に従ったからこそ、シェイラもオズワルドも今があるのだから。
(ああ、でも教えを破ってしまったから、今とっても苦しんでいらっしゃるのかしら……)
後悔しているのだろうか。やり直せるなら、デイヴィッド一人だけを愛し続けたのだろうか。よくわからない。
地獄に堕ちてもいいと思ってオズワルドと結ばれたのではないか。それとも、彼女にとっては生きている今この瞬間が地獄なのか。
(けど、見方を変えれば誰だって罪人になるんじゃないかしら)
もしシェイラを物語の主人公と見立てれば、自分は彼女とオズワルドたちを引き裂く悪女の役目となる。
デイヴィッドの日記もそうだ。いくら事情があるとはいえ、妻との行為を詳細に書き綴っており、女性からすれば気持ち悪いと非難されるのが普通だ。
誰にだって、罪はある。意識しているか、していないかの違い。シェイラは自覚があるだけいいのか、悪いのか……考えていると、面倒くさくなってくる。
「ねぇ、お義姉様は結局どうしたいのですか」
「私は、」
「わたしに、どうしてほしいんですか」
マティルダはシェイラの両手を握り、心を込めて告げた。
「わたし、お義姉様の願いなら何でも叶えますわ」
もうオズワルドとあんなことしないでほしい。彼を返してほしい。彼と別れてほしい。
そういう言葉を、シェイラは述べるはずだ。だが――
「私は、あなたにオズワルドを幸せにしてほしい……」
どこまでも彼女は聖女であろうとした。
(うそつき)
マティルダはすぅっと気持ちが冷めていき、ぱっと手を放すと立ち上がった。
「マティルダ……?」
突然雰囲気の変わった彼女に、シェイラが怯えた眼差しで見上げる。まるで神に見放された者の姿だったが、マティルダはもうどうでもいいやと思った。
「お話はそれだけですか。わたし、疲れてしまいましたからそろそろあちらへ戻りますわ」
「あ、待って、マティルダ……!」
さっさと歩きだしたマティルダを追って、転びそうな勢いでシェイラが呼び止めた。
「私、もう、オズワルドのことは諦めます。だから……彼のこと、よろしくお願いします」
まるで彼の妻のような台詞を、シェイラは泣きそうで、真剣な顔で口にしたのだった。
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