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諦めきれない
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「――レイモンド。少し休んだらどうだ?」
「いや。いい」
レイモンドはゆくゆくは国王になるバートラムのもとで、実に真面目に働いていた。
「おまえは別にそんなことしなくてもいいんだがな」
割り振られる仕事はほぼ雑用と言ってもいいものばかりだ。だがだからこそレイモンドは気楽にできていいと引き受けた。もちろんやるからにはきちんとやるつもりだ。
「毎日怠惰な生活を送っていると、精神共に腐る。こうして机に向かっていた方が健康的だ」
母や実父の経験からレイモンドはしみじみそう思っていた。
「おまえは真面目だな。ついでに社交性ももっと磨いてほしいんだが」
「……俺が出ると、いろいろよくない噂が出て、おまえにも迷惑をかける」
「高貴な人間には、噂が付き物だ。それにおまえが実はすごく真面目なことを、俺は周りにもっと知ってほしいんだよ」
「おまえや国王夫妻が知ってくれれば、十分だ」
折れる様子のないレイモンドに、バートラムは呆れた様子でため息をついた。
「噂は本人が否定するのが一番だっていうのに……」
バートラムの気遣いは有り難かったが、レイモンドは群がってくる女性陣が苦手だった。昔はどこか汚らわしいという目つきで見ていたのに、成長すると共にねっとりとした視線を向けてくる彼女たちに呆れ、どこか怖くも思えたのだ。
いずれにせよ、自分は心に決めたのは一人だけだった。遊びでも、深い仲になるつもりはなかった。
(そろそろもう一度、帰国しよう)
グレイスが十八歳になる。
アンドリューは相変わらずリアナしか目に入らなかった。
彼ではなく自分を選んでほしい。想いを伝え、正々堂々とグレイス本人に結婚を申し込むのだ。
今レイモンドが腐らず真面目に机に向かっているのも、そのためだった。
しかし、今度は国を出る前にバートラムの両親に呼び止められた。遠回しな表現で、イングリス国へ帰国するのはやめた方がいいという命令だった。風邪が流行っているのでレイモンドに罹るといけないから……というのが理由であったが、イングリスの国王夫妻がレイモンドの入国を拒んだのだ。
もしどうしてもこちらへ来るというならば、監視をつけるという。決してグレイスに近づかせないために。
アンドリューの恋人が失踪し、アンドリューはグレイスを選ぶしかなくなった。ようやく二人が結ばれる時が来たのだ。そのために今レイモンドに邪魔されては困るのだ。
(そこまでして……)
ぎゅっと拳を握りしめるレイモンドに、どこか同情した様子でティルダ王妃が言った。
「レイモンド。あなたがどうしても向こうへ帰りたいのなら……何か大事な理由があるのなら、私たちの方からもう一度イングリス王室に掛け合ってみるわ」
一瞬レイモンドはそうしてもらおうかと思った。あるいは、命令など無視してこっそり帰国しようかとも。
けれどそんなことをすれば、ティルダたちに迷惑をかける。もう成人しているとはいえ、それまでずっと保護してくれていたのは彼女たちだ。自分の両親のことも含めて、すでにたくさん迷惑をかけているのに、これ以上面倒事を起こすのは……。
「――いえ、大丈夫です。きっと伯父上は、病で亡くなった母のことを思い出して、私のことも心配なさったのでしょう。今回は少し、時間をおきます」
ティルダは何か言いたげな表情をしたが、結局何も言わなかった。言えなかったのだろう。彼女もまた、王妃という立場なのだから。
(グレイス……)
まだどこか希望があったのは、グレイスとアンドリューの関係が最悪なことであった。
突然自分の前から行方をくらましたリアナのことを忘れられず、アンドリューはグレイスに辛く当たっているという。そんな彼を、グレイスが愛するはずがない。
(俺は、最低だ……)
グレイスの幸せを願わなければならないのに、彼女がアンドリューに相手にされていない状況に安堵している。彼女はきっと傷つき、苦しんでいるだろうに……。
罪悪感からレイモンドは頻繁に花束をグレイスの通う孤児院に届けさせた。
せめて美しい花を見て、彼女の心が慰められることを祈って。
それから時間が過ぎ、またレイモンドは帰国することを願ったが、伯父の返答は同じだった。
(きっと何度申し立てても、国王は受け入れてくださらない)
ならばもう仕方がないと、レイモンドはとうとう許可を得ずに帰国を決めた。そうだ。最初からそうすればよかった。できるだけ周りに祝福される形で彼女を迎えたい――それが彼女の幸せにもなると思っての我慢だったが、こうなってはもう無理だ。
(とにかく、彼女に会いたい。いきなり求婚したら、驚くだろうか……)
列車と馬車に揺られ、レイモンドはイングリスの王宮に着く。自分の姿を見て驚く彼らを放って、ただ目的の人を探す。事前に何も調べていないのに、彼女は確かにここにいると思った。
(いた――)
ずいぶんと背が高くなって、後ろ姿だが、あの柔らかそうな茶髪は間違いなくグレイスだ。そして偶然にも、グレイスと初めて会った場所に彼女はいた。もう一度、彼女と会える。
「グレ――」
「グレイス!」
グレイスが振り返り、微笑んだのはレイモンドにではなかった。
「殿下」
「ここにいたのか。探したぞ」
(嘘だ……)
毛嫌いしていると聞いていたアンドリューが優しい表情でグレイスに微笑んでいる。彼女を見つめる瞳は甘く、レイモンドと同じ感情を宿している。
そしてグレイスも――
「殿下。花びらがついていますわ」
ほっそりとした指先をアンドリューの頭に伸ばし、ピンクの花びらを取って、ね? と微笑を浮かべた。かつて自分に向けられて、離れてからもずっと頭に焼きついていて、それだけを支えに生きてきて、ずっとずっと見たかった彼女の笑顔が、自分以外に捧げられていた。
「はは……」
乾いた笑いが口から漏れる。
(俺は、何を勘違いしていたんだろう)
グレイスはずっと泣いていると思った。傷ついて、誰かの助けを待ち望んでいると。
でもそんなの都合のいい妄想だった。
グレイスはレイモンドが想像するよりずっと強くて、魅力的な人だったのだから。
アンドリューの頑なだった心を溶かし、愛を芽生えさせた。
二人は誰がどう見ても、似合いの婚約者だった。
自分が付け入る隙など、ありはしなかったのだ。
「レイモンド様! 突然困ります! こんな急にお越しになって……」
噂を聞きつけた侍従が焦ってそう言っていたが、レイモンドは取り合わず、帰ることを告げた。来て早々帰るレイモンドに侍従は目を白黒させたが、どうでもよかった。
もうここにはいたくなかった。グレイスの幸せそうな、自分ではない誰かを愛する姿を見たくなかった。
◇
「おい。レイモンド。それで何杯目だ?」
帰国したレイモンドはそれから荒れた。と言っても、酒を飲むくらいしか荒れ方がわからなかったが。貴族の出入りする場所は面倒なので、庶民が利用する居酒屋で一人寂しく飲み続けた。
「バートラム。俺と一緒にいると、おまえまでよくない噂をつけられるぞ。帰れ」
バートラムだけは追い払わないので、男が好きなのではないかと噂されている。王太子もそうだと思われては、とんでもないことだろう。
レイモンドがそう言って帰そうとするが、バートラムはいつも引かなかった。
「人に注意する前に、自分をもっと大事にしろよ」
ぞんざいな言い方だが、自分を心配してくれているのが伝わってくる。
しかしレイモンドは飲まなくてはやってられなかった。
「せめて自分の屋敷で飲めよ」
「屋敷が酒臭くなるし、使用人たちも心配する」
「おまえなぁ……」
ぐいっとグラスを呷る。店で一番高く味がいいと評判の酒だが、ちっとも美味しくない。甘い飴が食べたくなって、じくじくと胸が痛む。
「こんな所で飲んでいれば、絡まれるぞ」
「もう絡まられたが、無視していたらどっか行った」
女はたいそう怒っていたが、勝手に話しかけてきたのは向こうだ。
「……俺も、変わらないか」
「何がだ」
「俺も、親父たちのことを笑えない」
母が嫌だと言っているのにどちらもしつこく言い寄り、母の後を追うように亡くなった。そんな実父と公爵を嘲笑していたが、今はその気持ちがよくわかる。
「それは違うぞ、レイモンド」
バートラムがぐいっと身を寄せ、レイモンドの顔を覗き込むようにして告げた。
「おまえは彼女のことを誰よりも想っている。彼女の幸せのために身を引くべきだと思っている。だからこそ、今こんなに荒れているんじゃないのか」
腐るなよ、とバートラムはレイモンドの背中を叩く。
友人の激励に応えて立ち直るべきだったが、レイモンドはどこか捨て鉢な気分で怠惰な生活を送り続けた。女や他の有象無象なものが途中自分に何か言ってきたが、全く耳に入らず、ひたすら憂鬱な気分になり、気持ち悪さが増した。
「あたしが慰めてあげようか?」
そんなこと言われても、なぜ? と問い返した。レイモンドが愛しているのはグレイスだけだ。グレイスでないと意味がないのだ。
(そうだ。俺はどうあっても、グレイスを愛している)
この気持ちは死ぬまで変わらない。
そのことに気づき、真っ暗な雲間から光が差し込んだような、目の前がすうっと開けた感覚になる。アルコールを連日摂取し続けて頭はガンガンと痛んでいるというのに、実に爽やかな気分だった。
……いや、やはりグレイスが他の男と幸せになると思うと、気持ちはズンと沈んだが。
それでも、認めてしまえば覚悟が決まった。
(聖職者にでもなるか……)
荒唐無稽な思いつきは、天命に思えた。
グレイスと結ばれる運命が閉ざされた今、神に一生を捧げ、グレイスの幸せを思って祈り続けよう。
「……よし」
今後の方針を決めて立ち上がったレイモンドの耳に慌ただしい音が届く。
「レイモンド! 大変だ!」
夜が明け、眩しい朝日を店内に持ち込んで入ってきたのは、バートラムであった。
「ちょうどよかった、バートラム。おまえに今後のことについて話そうと思っていたんだ」
「そんなこと後にしろ! それより大変なことがわかったんだ」
どんな時でも冷静沈着な彼がこんなにも慌てるとは……ひょっとして国王夫妻に何かあったのかと尋ねれば、彼は違うと真剣な顔で答えた。
「いいか。落ち着いて聞けよ」
バートラムは声を潜め、レイモンドを瞠目させた。数秒固まった後、ぽつりと呟く。
「ほんとうか?」
「まだ確実ではないが、恐らく本当だろう」
レイモンドはしばし事実を受け止めるのに放心していたが、彼女の顔が思い浮かんで「行かなくては」と思った。
「イングリスへ行ってくる」
「は? 今からか?」
「ああ、今からだ。すまん。金を払っておいてくれるか。後で必ず返すから」
そう言いながら出ていこうとするレイモンドに「待て待て」とバートラムが引き留める。
「バートラム。頼む。行かせてくれ」
「ばか。誰が行くなって言ったよ。そうじゃなくて、そのままの格好で行くつもりか? せめてシャワー浴びて……いや、それはもう向こうで浴びろ。とにかく彼女に会う時は身だしなみに気を付けろ!」
バートラムはそう言うと、懐から金を取り出し、押しつけてきた。
「いいか。今度こそ、おまえの想いを、後悔しないよう、きちんとぶつけてこいよ」
「わかった」
ありがとう、と金を握りしめ、レイモンドは店を飛び出す。眩しい朝日に目を細め、駅がある方角へ向かって走り出した。
グレイスに会いに行くために。今度こそ、自分の気持ちを伝えるために。
「いや。いい」
レイモンドはゆくゆくは国王になるバートラムのもとで、実に真面目に働いていた。
「おまえは別にそんなことしなくてもいいんだがな」
割り振られる仕事はほぼ雑用と言ってもいいものばかりだ。だがだからこそレイモンドは気楽にできていいと引き受けた。もちろんやるからにはきちんとやるつもりだ。
「毎日怠惰な生活を送っていると、精神共に腐る。こうして机に向かっていた方が健康的だ」
母や実父の経験からレイモンドはしみじみそう思っていた。
「おまえは真面目だな。ついでに社交性ももっと磨いてほしいんだが」
「……俺が出ると、いろいろよくない噂が出て、おまえにも迷惑をかける」
「高貴な人間には、噂が付き物だ。それにおまえが実はすごく真面目なことを、俺は周りにもっと知ってほしいんだよ」
「おまえや国王夫妻が知ってくれれば、十分だ」
折れる様子のないレイモンドに、バートラムは呆れた様子でため息をついた。
「噂は本人が否定するのが一番だっていうのに……」
バートラムの気遣いは有り難かったが、レイモンドは群がってくる女性陣が苦手だった。昔はどこか汚らわしいという目つきで見ていたのに、成長すると共にねっとりとした視線を向けてくる彼女たちに呆れ、どこか怖くも思えたのだ。
いずれにせよ、自分は心に決めたのは一人だけだった。遊びでも、深い仲になるつもりはなかった。
(そろそろもう一度、帰国しよう)
グレイスが十八歳になる。
アンドリューは相変わらずリアナしか目に入らなかった。
彼ではなく自分を選んでほしい。想いを伝え、正々堂々とグレイス本人に結婚を申し込むのだ。
今レイモンドが腐らず真面目に机に向かっているのも、そのためだった。
しかし、今度は国を出る前にバートラムの両親に呼び止められた。遠回しな表現で、イングリス国へ帰国するのはやめた方がいいという命令だった。風邪が流行っているのでレイモンドに罹るといけないから……というのが理由であったが、イングリスの国王夫妻がレイモンドの入国を拒んだのだ。
もしどうしてもこちらへ来るというならば、監視をつけるという。決してグレイスに近づかせないために。
アンドリューの恋人が失踪し、アンドリューはグレイスを選ぶしかなくなった。ようやく二人が結ばれる時が来たのだ。そのために今レイモンドに邪魔されては困るのだ。
(そこまでして……)
ぎゅっと拳を握りしめるレイモンドに、どこか同情した様子でティルダ王妃が言った。
「レイモンド。あなたがどうしても向こうへ帰りたいのなら……何か大事な理由があるのなら、私たちの方からもう一度イングリス王室に掛け合ってみるわ」
一瞬レイモンドはそうしてもらおうかと思った。あるいは、命令など無視してこっそり帰国しようかとも。
けれどそんなことをすれば、ティルダたちに迷惑をかける。もう成人しているとはいえ、それまでずっと保護してくれていたのは彼女たちだ。自分の両親のことも含めて、すでにたくさん迷惑をかけているのに、これ以上面倒事を起こすのは……。
「――いえ、大丈夫です。きっと伯父上は、病で亡くなった母のことを思い出して、私のことも心配なさったのでしょう。今回は少し、時間をおきます」
ティルダは何か言いたげな表情をしたが、結局何も言わなかった。言えなかったのだろう。彼女もまた、王妃という立場なのだから。
(グレイス……)
まだどこか希望があったのは、グレイスとアンドリューの関係が最悪なことであった。
突然自分の前から行方をくらましたリアナのことを忘れられず、アンドリューはグレイスに辛く当たっているという。そんな彼を、グレイスが愛するはずがない。
(俺は、最低だ……)
グレイスの幸せを願わなければならないのに、彼女がアンドリューに相手にされていない状況に安堵している。彼女はきっと傷つき、苦しんでいるだろうに……。
罪悪感からレイモンドは頻繁に花束をグレイスの通う孤児院に届けさせた。
せめて美しい花を見て、彼女の心が慰められることを祈って。
それから時間が過ぎ、またレイモンドは帰国することを願ったが、伯父の返答は同じだった。
(きっと何度申し立てても、国王は受け入れてくださらない)
ならばもう仕方がないと、レイモンドはとうとう許可を得ずに帰国を決めた。そうだ。最初からそうすればよかった。できるだけ周りに祝福される形で彼女を迎えたい――それが彼女の幸せにもなると思っての我慢だったが、こうなってはもう無理だ。
(とにかく、彼女に会いたい。いきなり求婚したら、驚くだろうか……)
列車と馬車に揺られ、レイモンドはイングリスの王宮に着く。自分の姿を見て驚く彼らを放って、ただ目的の人を探す。事前に何も調べていないのに、彼女は確かにここにいると思った。
(いた――)
ずいぶんと背が高くなって、後ろ姿だが、あの柔らかそうな茶髪は間違いなくグレイスだ。そして偶然にも、グレイスと初めて会った場所に彼女はいた。もう一度、彼女と会える。
「グレ――」
「グレイス!」
グレイスが振り返り、微笑んだのはレイモンドにではなかった。
「殿下」
「ここにいたのか。探したぞ」
(嘘だ……)
毛嫌いしていると聞いていたアンドリューが優しい表情でグレイスに微笑んでいる。彼女を見つめる瞳は甘く、レイモンドと同じ感情を宿している。
そしてグレイスも――
「殿下。花びらがついていますわ」
ほっそりとした指先をアンドリューの頭に伸ばし、ピンクの花びらを取って、ね? と微笑を浮かべた。かつて自分に向けられて、離れてからもずっと頭に焼きついていて、それだけを支えに生きてきて、ずっとずっと見たかった彼女の笑顔が、自分以外に捧げられていた。
「はは……」
乾いた笑いが口から漏れる。
(俺は、何を勘違いしていたんだろう)
グレイスはずっと泣いていると思った。傷ついて、誰かの助けを待ち望んでいると。
でもそんなの都合のいい妄想だった。
グレイスはレイモンドが想像するよりずっと強くて、魅力的な人だったのだから。
アンドリューの頑なだった心を溶かし、愛を芽生えさせた。
二人は誰がどう見ても、似合いの婚約者だった。
自分が付け入る隙など、ありはしなかったのだ。
「レイモンド様! 突然困ります! こんな急にお越しになって……」
噂を聞きつけた侍従が焦ってそう言っていたが、レイモンドは取り合わず、帰ることを告げた。来て早々帰るレイモンドに侍従は目を白黒させたが、どうでもよかった。
もうここにはいたくなかった。グレイスの幸せそうな、自分ではない誰かを愛する姿を見たくなかった。
◇
「おい。レイモンド。それで何杯目だ?」
帰国したレイモンドはそれから荒れた。と言っても、酒を飲むくらいしか荒れ方がわからなかったが。貴族の出入りする場所は面倒なので、庶民が利用する居酒屋で一人寂しく飲み続けた。
「バートラム。俺と一緒にいると、おまえまでよくない噂をつけられるぞ。帰れ」
バートラムだけは追い払わないので、男が好きなのではないかと噂されている。王太子もそうだと思われては、とんでもないことだろう。
レイモンドがそう言って帰そうとするが、バートラムはいつも引かなかった。
「人に注意する前に、自分をもっと大事にしろよ」
ぞんざいな言い方だが、自分を心配してくれているのが伝わってくる。
しかしレイモンドは飲まなくてはやってられなかった。
「せめて自分の屋敷で飲めよ」
「屋敷が酒臭くなるし、使用人たちも心配する」
「おまえなぁ……」
ぐいっとグラスを呷る。店で一番高く味がいいと評判の酒だが、ちっとも美味しくない。甘い飴が食べたくなって、じくじくと胸が痛む。
「こんな所で飲んでいれば、絡まれるぞ」
「もう絡まられたが、無視していたらどっか行った」
女はたいそう怒っていたが、勝手に話しかけてきたのは向こうだ。
「……俺も、変わらないか」
「何がだ」
「俺も、親父たちのことを笑えない」
母が嫌だと言っているのにどちらもしつこく言い寄り、母の後を追うように亡くなった。そんな実父と公爵を嘲笑していたが、今はその気持ちがよくわかる。
「それは違うぞ、レイモンド」
バートラムがぐいっと身を寄せ、レイモンドの顔を覗き込むようにして告げた。
「おまえは彼女のことを誰よりも想っている。彼女の幸せのために身を引くべきだと思っている。だからこそ、今こんなに荒れているんじゃないのか」
腐るなよ、とバートラムはレイモンドの背中を叩く。
友人の激励に応えて立ち直るべきだったが、レイモンドはどこか捨て鉢な気分で怠惰な生活を送り続けた。女や他の有象無象なものが途中自分に何か言ってきたが、全く耳に入らず、ひたすら憂鬱な気分になり、気持ち悪さが増した。
「あたしが慰めてあげようか?」
そんなこと言われても、なぜ? と問い返した。レイモンドが愛しているのはグレイスだけだ。グレイスでないと意味がないのだ。
(そうだ。俺はどうあっても、グレイスを愛している)
この気持ちは死ぬまで変わらない。
そのことに気づき、真っ暗な雲間から光が差し込んだような、目の前がすうっと開けた感覚になる。アルコールを連日摂取し続けて頭はガンガンと痛んでいるというのに、実に爽やかな気分だった。
……いや、やはりグレイスが他の男と幸せになると思うと、気持ちはズンと沈んだが。
それでも、認めてしまえば覚悟が決まった。
(聖職者にでもなるか……)
荒唐無稽な思いつきは、天命に思えた。
グレイスと結ばれる運命が閉ざされた今、神に一生を捧げ、グレイスの幸せを思って祈り続けよう。
「……よし」
今後の方針を決めて立ち上がったレイモンドの耳に慌ただしい音が届く。
「レイモンド! 大変だ!」
夜が明け、眩しい朝日を店内に持ち込んで入ってきたのは、バートラムであった。
「ちょうどよかった、バートラム。おまえに今後のことについて話そうと思っていたんだ」
「そんなこと後にしろ! それより大変なことがわかったんだ」
どんな時でも冷静沈着な彼がこんなにも慌てるとは……ひょっとして国王夫妻に何かあったのかと尋ねれば、彼は違うと真剣な顔で答えた。
「いいか。落ち着いて聞けよ」
バートラムは声を潜め、レイモンドを瞠目させた。数秒固まった後、ぽつりと呟く。
「ほんとうか?」
「まだ確実ではないが、恐らく本当だろう」
レイモンドはしばし事実を受け止めるのに放心していたが、彼女の顔が思い浮かんで「行かなくては」と思った。
「イングリスへ行ってくる」
「は? 今からか?」
「ああ、今からだ。すまん。金を払っておいてくれるか。後で必ず返すから」
そう言いながら出ていこうとするレイモンドに「待て待て」とバートラムが引き留める。
「バートラム。頼む。行かせてくれ」
「ばか。誰が行くなって言ったよ。そうじゃなくて、そのままの格好で行くつもりか? せめてシャワー浴びて……いや、それはもう向こうで浴びろ。とにかく彼女に会う時は身だしなみに気を付けろ!」
バートラムはそう言うと、懐から金を取り出し、押しつけてきた。
「いいか。今度こそ、おまえの想いを、後悔しないよう、きちんとぶつけてこいよ」
「わかった」
ありがとう、と金を握りしめ、レイモンドは店を飛び出す。眩しい朝日に目を細め、駅がある方角へ向かって走り出した。
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