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別れ

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「こんにちは。レイ」

 それからレイモンドはグレイスが王宮へ訪れた日、人目を忍んで会うようになった。

 最初は廊下で立ち話する程度だったが、レイモンドが勇気を出して離宮の中庭――大きな木が生い茂って人目のつかない場所へ案内し、ここで話すことを提案した。

「綺麗な場所ね……。でも、わたしが入ってもいい場所なの?」
「うん。大丈夫。ここ僕の……いや、誰も、来ないから……」

 本当は自分は王女の息子で、ここで暮らしているから、誰かに咎められても心配ないと伝えたかったが、身分を明かすのが憚られ、適当に誤魔化してしまう。

「そうなの。わかったわ。もし誰かに見つかったら、一緒に叱られるわ」

 悪いことをして少しわくわくしているような、茶目っ気のある調子でグレイスはレイモンドを見つめる。彼は彼女に見つめられるだけでどぎまぎして、こくりと頷くのが精いっぱいだった。

「花がたくさん植えられているのね。レイは好きな花ある?」
「えっと…………薔薇?」

 正直花のことなんて今まで考えたこともなかったが、せっかくグレイスが投げかけてくれた会話を途切れさせたくなくて、とりあえず思いついた花の名前を挙げてみる。

 当てずっぽうとも言えるレイモンドの返答に、グレイスはぱぁっと顔を輝かせた。

「わたしも薔薇が好きよ! たくさん種類があって、見ていて飽きないもの」
「薔薇にも、種類があるの?」
「ええ。あるわ。赤色だけど黒色が混じっているように見える薔薇とか、同じピンクの薔薇でも形が微妙に違っていてね、とても奥が深いの」

 グレイスが生き生きとした表情で教えてくれる。

「そんなに、好きなんだね」
「ええ……。薔薇はね、亡くなったお母様がとても好きな花だったの。だから見ると……悲しくもなるのだけれど、笑顔とかも一緒に思い出すことができて、勇気が湧いてくるの」

 母親が亡くなっていると言われ、レイモンドは動揺する。悲しい事実を彼女の口から言わせてしまった気がして、どうしようかと焦っていると、グレイスが話題を変えるように明るく言う。

「でもね、他の花も好きよ。マーガレットの素朴な感じやラベンダーの香り、チューリップのあの形も可愛いわ」
「そっか」

 レイモンドの短い相槌にも、グレイスはにっこりと笑い、昔お花屋さんを開くのが夢だったと教えてくれた。昔といっても、彼女は今でも十分子どもで、まだ夢を見ていてもおかしくない年齢なのに。

(それとも、もう決まっているのかな……)

 一瞬、王妃殿下に呼ばれてここへ来たことを思い出し、嫌な予感がした。とっさに違うと振り払うように頭を振れば、「どうしたの?」とグレイスが驚いた声を上げる。

「何でもない」
「そう? レイは、何かなりたいものとか、ある?」
「僕は……」

 グレイスの顔をぼんやり見て、特にないと思った。

 ただ、彼女のそばにいたい。自分なんかに笑いかけてくれる彼女の存在を、いつまでも感じていたかった。

     ◇

「レイモンド様。お母様の具合がよくありません」

 ただの風邪かと思っていた母の体調はまだよくならなかった。それどころか日に日に悪化するばかりで、もしかしたら命の危機も覚悟しなければならないという。

「おまえを生んだら、すべて上手くいくと思ったのに……」

 母の様子を見に行く度、苦しげな顔でそう愚痴を零された。

 父は――レディング公爵はいまだ母との復縁を諦めておらず、病気だと聞きつけてからは、頻繁に離宮へ訪れ、さらに自宅で引き取って看病したいと申し出たので、母は嫌がり、どうしたら公爵を穏便に帰せるか、侍女たちは頭を悩ませていた。

「おまえからあの人に、上手く言ってちょうだい」
「レイモンド。マデリーンに私の家へ帰ってくるよう、説得してくれ」

 母と父の両方から命じられ、板挟みになっても、侍女や伯父夫婦も誰も、自分を助けてくれなかった。

「――レイ? どうしたの? 顔色が悪いわ。何か困っていることでもあるの?」

 何の事情も知らないグレイスだけが、レイモンドの味方だった。

「ううん。何でもないよ」
「でも……」
「少し、上手くできなかったんだ。それで、怒られただけ……」

 だがグレイスには話せなかった。彼女だけは知らないままでいてほしかった。この温かくて、穏やかな時間を失いたくなかったから。

「そう? ……わたしもね、勉強ができなくて、先生に叱られたことがあるわ」

 グレイスと話して気づいたことがある。彼女もまた、レイモンドとは違う苦労や大変さがあるのだと。

 一度待ち合わせに遅れて、後からレイモンドが来た時、グレイスが悲しそうな顔で涙を拭っていたことがあった。

 彼女が泣いている姿を初めて見た彼は雷に打たれたような衝撃が走り、思わずその場で立ち止まったのだが、気づいたグレイスは笑顔で「遅かったのね」と言った。その後も何でもない素振りでレイモンドに接し、泣いていた理由を最後まで言わなかった。

 自分が堪えきれず泣いてしまった時、グレイスは慰めてくれた。

 でも、彼女は自分にそれを求めていない。

「すごく悔しかったから、絶対に見返してやるって一生懸命勉強したら、満点を取れたの。あの時の先生の顔、レイにも見せてあげたかった」

 辛いことがあっても、グレイスは決して曝け出さない。

 自分が頼りないから打ち明けられないというのもあるだろう。そう思うと情けなかったが、せめて自分も弱々しいところは見せまいという気にもなった。彼女も頑張っているから自分も頑張れる。そしていつか――

(グレイスに頼られるような人になりたい)

 両親と上手くやり過ごし、王子だからと一応つけられた家庭教師の課題に取り組んでいれば、グレイスの隣に立ってもおかしくない男になれるだろうか。

 そんなことを考える自分が何だか恥ずかしかったが、生まれて初めて強く願ったことであり、レイモンドの生きる希望となった。

 グレイスと会えるから、自分は生きている。どんなことにだって耐えられる。きっとこれからどんなに辛いことがあっても――

「お母様は亡くなられました」

 侍女や医者の献身的な看病も虚しく、母は呆気なくこの世を去ってしまった。

 レディング公爵が亡骸に縋って、母の名前を呼びながら泣いている。

 母の葬儀はひっそりと、世間の目から隠すように執り行われた。身内だけの最低限の人数が、母の死を悼んだと思う。あの王子様は……本当の父は出席していなかった。

 どこかふわふわした、忙しない日々が流れて、グレイスに会えない日々が続いていた。無性に会いたくて、いよいよ我慢の限界が訪れようとした時。

「レイモンド。おまえの本当の父親の国へ留学してみないか?」

 伯父――国王からそう言われた。

 あまりにも突拍子のないことでレイモンドは困惑する。

「留学?」
「そうだ。おまえもマデリーンや侍女たちの噂ですでに耳にしているかもしれないが、おまえの本当の父親はレディング公爵ではない。エルズワース王国の王子がおまえの実の父親だ。彼はおまえを引き取りたいと、父親の国王にも話をしていたそうだ」

 嘘だ。以前会った時の態度からレイモンドは強く否定した。あの人はただ、母を手に入れたかっただけ。母が亡くなった今、自分には何の関心もない。

「僕の父親は……レディング公爵です。だから……」

 向こうへ行きたくない。そうした彼の意思に、国王は同情も抱いただろうが、厄介事を手放したいという気持ちの方が強かった。

「公爵はおまえを引き取ることを拒否した。マデリーンとの離婚はとうとう認めなかったから、おまえは彼の息子のままだが……血の繋がりもないのに一緒に暮らすのは双方にとって酷だろう。おまえ自身のためにもあちらへ行った方がいい」

 要は邪魔だから隣国へ行けということだった。国王も、甥を引き取るつもりはないようだった。

 レイモンドは邪魔者扱いされたことよりも、イングリス王国から出ていくことに焦りを覚えた。

(嫌だ。ここから出て行ったら、グレイスにもう会えない!)

「レイモンド。おまえの居場所はここにはなかったのだ」
「っ……。じゃ、じゃあ、大きくなったら、僕の望む女性と結婚させてください!」
「何? 結婚だと?」

 いきなり何を言い出すのだと、国王は目を白黒させた。レイモンドも突拍子もない話だと十分理解していたが、必死だった。

「グレイス・オルコットという令嬢と結婚したいのです。お願いします。僕が留学して、何年かしたら、彼女との結婚を認めてください」

 国王は押し黙った。到底受け入れ難い話だと顔に書かれていた。

 しかしここで否と言えば、レイモンドが駄々をこねると思ったのだろう。

「……おまえの頑張り次第では、認めてやってもいい」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。だから大人しく向こうへ留学しなさい」

 レイモンドは国王の約束を信じた。当時の彼はまだ子どもで、大人であり国王でもある彼がきちんと約束を守ってくれると思ったのだ。

 だからグレイスとの別れがとても辛くても、彼は向こうで頑張ろうと決めた。

 いつかまた彼女と会う約束を希望に……。

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