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決別

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 王宮の廊下はほぼ半壊に近かった。どうやらレイモンドはグレイスを探すためにかなり暴れたようだ。
 とんでもないことをしてしまったわけだが、それは自分にも言える。

 レイモンドをあれ以上暴走させないためとはいえ、王太子アンドリューを殴ってしまったのだから。

 しかし一番良くないのは、自分の言動に微塵も後悔が湧かないことだ。

(むしろ、スッキリしたかも……)

 もっと早く怒ればよかったかもしれない。

(そうよ。わたしが怒らないから、パトリシアやレイモンド様が代わりにあんなに憤慨してくれた)

 グレイスを横抱きにして黙々と歩き続けるレイモンドに、通り過ぎる人々は遠巻きに眺めている。

 その途中でグレイスはある人物に目が留まった。

「レイモンド様。少し、お待ちいただけますか」
「どうした」

 グレイスの視線を辿り、レイモンドの眉間に皺が寄った。

 グレイスと関わってほしくない、といった言葉を述べる前に、女性の方からこちらへ近寄って来る。グレイスは大丈夫だからとレイモンドに頼んで下ろしてもらうと、相手に丁重な挨拶をする。

「こんにちは、リアナ様」

 リアナはキャンベル公爵の養子となり、それに相応しい出で立ちをしているが、顔には不安や疲労の色が見て取れた。

「アンドリュー殿下は、今わたしたちが歩いてきた廊下の奥の部屋にいますわ。今いろいろと放心している状態でしょうから、もう少ししたら迎えに行ってあげてください」

 それまでどこか怯え、諦めた表情だったリアナは、グレイスの言葉にサッと怒りを露わにした。何か別のことを連想したのかもしれない。グレイスは誤解させてしまったことを詫びなくてはと、彼女の小さな手を取り、微笑んだ。

「安心なさって、リアナ様。間一髪のところで、わたしの夫が助けてくださいましたから。殿下は今も、あなただけを愛する殿下のままですわ」
「よ、よくそんなこと、言えますね。私が、アンドリューにどんな態度を取られているか知っておきながら……っ」
「大丈夫です。リアナ様」

 これもまたグレイスはとびっきりの笑顔で励ます。

「殿下は、今はまだわたしのことを忘れられないかもしれませんが、そのうちリアナ様を愛するようになりますわ。だってわたしがそうでしたもの。その間、他の女性と……わたしと比べられたり、ちょっと酷いことを…『きみを愛するつもりはない!』とか『僕の愛する人はグレイスだけだ!』とか高らかに宣言されるかもしれませんが、何食わぬ顔でやり過ごしていれば、そのうち心を開いてくれます。大丈夫。少なくとも三年ほど我慢なされば、必ず愛されるようになりますわ。わたしがそうでしたから!」

 もともと好きだったのはリアナなのだ。きっと必ず愛は蘇るだろう。

 グレイスはそう信じてリアナを激励したつもりだが、彼女は頬を引き攣らせ、怒りで赤くなっていた顔を青くした。

「リアナ様。どうぞ殿下をよろしくお願いしますね。大丈夫。王妃殿下も、女官長も、みんなあなたが王妃になる協力を惜しまないはずです。わたしも隣国から夫と共に祈っておりますわ。それではごきげんよう」

 グレイスが激励の言葉をすべて伝え終わると、そろそろ行こうとレイモンドが再び抱き上げ、冷たくリアナを一瞥した後、また歩き始めた。

 リアナは見捨てないでくれ、という眼差しを二人の背中に注いだが、彼らが振り向くことは決してなかった。

     ◇

「このまま駅へ向かうが、いいか?」
「はい。構いません」

 着の身着のまま帰国することになるが、まぁこういうのもいいだろう。

(パトリシアたちには挨拶したかったけれど……)

 正気に返った国王たちがレイモンドを罰する可能性はまだあるので、速やかにイングリス国を発った方がいいと判断した。

 馬車の中でも、レイモンドはグレイスを抱きしめたままだった。重たく窮屈であるのはわかっていたが、グレイスも彼と離れるのが嫌で、身を寄せたまま、一言も発しないまま駅へと到着した。

 金は持っていたらしく、ホームで乗車券を買い、列車に乗り込もうとする。

「グレイス!」

 人はたくさんいたが、グレイスの耳にはしっかりとその声が聞こえた。

「お父様……」
「グレイス! 待ちなさい! 行くな! 行ってはならん!」

 立ち止まって振り返れば、人混みを掻き分け、父が顔を出した。ここへ来るまでよほど急いで駆けつけてきたのか、息を切らし、額に汗を浮かべていた。

「グレイス。私と帰ろう。結婚も考え直していい。公爵閣下も、考えてみれば王族の血を引いている。おまえに相応しい相手だ。だからこっちで一緒に暮らせばいい。マーティンやパトリシアもきっと喜ぶはずだ」

 グレイスを守るためにレイモンドが前へ出ようとするが、彼女はそっと手で制し、どこか悲しげな顔をしながらもきっぱりと告げた。

「お父様。わたしはもうこちらへ戻るつもりはありません」

 娘の告白に、父は大きく息を呑んだ。

「なぜだ。私はおまえたちの結婚を認めると言っているのに」
「……お父様。わたしはもっと早く、その言葉を聞きたかった。いえ……急に家を飛び出して、内緒で式を挙げたのですから、お父様がお怒りになるのは当然です」

 別に怒ったってよかったのだ。

「わたしが許せないのは……悲しかったのは、お父様が自分の地位のために、わたしと殿下の結婚を進めようとしたこと……わたしの意思を無視して、わたしが嫌がっても……傷つくことになっても、気にしないお父様の態度です」
「それは違う、グレイス!」

 父はグレイスに詰め寄り、今まで見たことのない必死な顔で否定する。

「私はヘレンに……おまえの母親に、子どもたちのことを頼むと言われて、必ず幸せにすると約束したから……だから、おまえをアンドリュー殿下の妻にさせ、この国の王妃にしようと決めた。それが一番おまえの幸せになると思ったのだ……他の娘がアンドリュー殿下の心を惑わしても、最後には、おまえが勝ち取ると信じて疑わなかった……だから私は……」

 父の言葉は、本当なのだろう。母をとても愛しており、亡くなっても再婚せず、時々母の部屋で思い出に浸っていたから。

(でも……)

「最初は、そうだったのでしょう。ですがいつしかあなたは変わってしまった。それは貴族同士のやり取りや、国王夫妻からの信頼、キャンベル公爵へのライバル心など、宮廷に身を置いていれば、自然と芽生えてくる感情です。――あなたはそうした感情に支配されて、本来の目的を忘れていった。娘さんの幸せではなく、ただ自分の欲を優先させてしまったのではないですか?」

 レイモンドが諭すような静かな口調で指摘すれば、父の瞳が揺れた。

 最初の目的は、グレイスを幸せにすること。そのために王妃にする。

 でも、いつしか王妃にすることが目的となり、グレイスを幸せにすることは忘れられていった。……父からすれば、そのつもりはなかったのかもしれないが、グレイスには父が娘を妃にして、さらなる地位を目指しているようにしか見えなかった。

「違う……私は……」
「お父様。わたしたち、しばらくの間距離を置いた方がいいと思います」
「グレイス!」
「ごめんなさい。お父様。たとえお父様に悪気はなかったとしても、わたしは……今回したことは許せません。だから、ここでお別れです」

 父が傷ついた顔を晒すも、グレイスはそれ以上言葉を与えなかった。ただ今まで世話になったことを感謝するように頭を下げ、レイモンドに背中を押される形で別れを告げた。

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