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怒り心頭

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「――ス。――イス。そろそろ――くれ……」

(ん……。だれ……?)

 いや、寝ている自分を起こす人など、一人しかいない。

「レイ……?」

 グレイスがゆっくりと瞼を開けながらそう口にすると、相手が息を呑むのがわかった。

 ぼやけていた視線がだんだん定まっていき、グレイスが自分の間違いに気づいた時、相手は嘲笑するように言った。

「ずいぶん、彼と仲良くなったみたいだね」
「アンドリュー殿下……」

 なぜ彼がここに、と思ったグレイスはハッと自身の姿を見下ろした。寝ていたせいか多少皺ができていたが、服を脱がされた痕跡はなかった。

「僕がきみを襲ったとでも思ったのかい」
「……目が覚めてこんな密室にいれば、疑うのは当然です」

 しかし一方で、何かの間違いであってほしいとも思った。まさか孤児院からの帰りに、誘拐するかたちで彼が自分を攫うはずがない。きっと何か事情があって――

「僕もさすがに寝ているきみに何かするつもりはないよ。無防備に寝顔を晒すきみは、ひどく魅力的だったけれどね」
「殿下……」

 グレイスは立ち上がって逃げようとするが、足元がふらつき、床に座り込んでしまう。まるで睡眠薬でも飲まされたような倦怠感に襲われる。

(どうして……一体どこで……)

『もともと王宮で働いていた女性で、奉仕活動に興味を抱いて、うちを紹介してもらったそうなの』

(まさか……)

 振り返り、こちらへ近づいてくるアンドリューをグレイスは怯えた眼差しで見上げる。

「孤児院に間者を……送り込んだのですか」
「間者なんてそんな大げさなものじゃないよ。ただ、心優しいきみならば、向こうへ帰る前に必ず立ち寄ると思って、送っておいた。帰りに御者を脅して、ここへ連れてくるようにね……。あぁ、飲み物に混ぜたのはただの睡眠薬だったけど、少し効きすぎてしまったようだね。悪いことをしたよ」

 あの場にはメイドも同席しており、院長夫妻やグレイスの勧めで一緒に茶を飲んだ。

「メイドは、無事なのですか……」
「ああ、無事だよ。邪魔になるから、鍵付きの別室で休んでもらっている」

 とりあえず無事なようで安堵する。しかし巻き込んでしまったことには変わりない。事情を知らない院長夫妻も騙したのだ。

 グレイスが怒りでアンドリューを睨みつけようとすれば、彼はついでとばかりに付け加えた。

「ちなみにレイモンドの足止めは、オルコット侯爵に協力してもらった」

 父も仲間だったと知り、グレイスはショックを受け、言葉を失った。だがすぐそこに彼の気配を感じると、拳を握りしめ、怒りで再度立ち上がった。

「アンドリュー殿下。あなたがしたことは犯罪です」
「そうだね。でも、父上と母上も了承してくれたことだから」

 グレイスは眩暈がしそうだった。彼は今何と言った?

「国王陛下は、あなたとリアナ様の仲を認めたではありませんか」
「うん。それはもう僕も諦めた。リアナとは数年、夫婦の関係を続けるよ。その後離婚して、きみと再婚する。その間僕は指一本リアナに触れないし、きみは愛人の立場になってしまうけれど、必ず約束は果たすと誓う」

 アンドリューの言っていることがグレイスには全く理解できなかった。

 彼の約束は自分にも、リアナに対しても大変失礼な話だ。馬鹿にしていると言ってもいい。

「グレイス。僕はきみとやり直したいんだ」

 やり直すも何も、自分たちはすでに終わっている。

「殿下。わたしはレイモンド様の妻です。愛人など、再婚など、冗談ではありません」

 レイモンドの名を出すと、アンドリューの目が暗く陰り、据わったものに変わる。

「レイ、か……。きみもずっと僕を裏切っていたというわけか」

 グレイスはアンドリューの言葉を否定しなかった。そう思われた方が諦めてくれると思ったし、レイモンドの自分に対する想いを打ち明けたくなかった。

「殿下。わたしはあなたに相応しくありません。今日のことは忘れますので、わたしをこのまま帰してください」

 グレイスはアンドリューをこれ以上刺激しないよう、あくまでも自分に咎があるのだという体で穏便に済ませようとした。アンドリューは俯いて目元が見えなくなったが、唇には笑みを浮かべている。

「……本当にきみは、どんな時でも冷静だね。それでも、あの男はきみのさっきみたいな無防備な姿や閨で乱れる様を見たんだろうね。本当は僕が見るはずだったのに」
「殿下……」

 顔を上げたアンドリューは酷薄な表情で告げた。

「グレイス。残念だ。きみがそういった態度をとるなら、僕もここから出すわけにはいかない」
「……わたしを監禁でもなさるのですか」

 じりじりと気づかれぬよう後退しても、アンドリューはすべてお見通しだとばかりに距離を詰められ、あっ、と思った時には手首を掴まれた。

 反射的に暴れれば、導火線に火がついたようにアンドリューはグレイスを抱き上げ、そばの長椅子へ押し倒し、覆い被さって来る。途中で彼女が痛みに顔を顰めても、彼はやめなかった。

 慣れた手つきで抵抗を塞ぎ、頭の上で手首をひとまとめにすると、胸を大きく上下するグレイスの肢体を布越しにじっくりと視姦してくる。

「ど、どいてください」

 グレイスの知っているアンドリューはもうおらず、犯される恐怖に声が震えた。

「レイモンドにはどれくらい抱かれた?」

 答えないでいると、顎を掴まれ、ぐっと彼の顔が近づく。一瞬口づけされると思い顔を逸らせば、耳元に息が吹きかけられる。身体が震えれば、アンドリューは愉しそうに笑った。

「本当はまだ抱くつもりはなかったんだ。あの男の子どもを身籠っているかもしれないし、きみが僕にそうしてくれたように、僕も時間をかけてきみの心を取り戻そうと思ったから。それがきみに教えてもらった愛だから」

 グレイスの怯える表情を目に焼きつけながら、アンドリューの手がスカートの裾を捲り、ふくらはぎを撫でてくる。

「でも、最後までやらなくても、塗り替えることはできる。あの男にどんなふうに抱かれたか、僕に教えてくれ。同じようにして、僕はそれ以上の悦びをきみに与えよう」

 彼は互いを繋げるまでの遊び方を知っている。獲物を十分に甚振って、自分に堕ちてくる狩りの仕方も。

「どうして……」

 グレイスは恐怖を抱きながらも元婚約者に尋ねずにはいられなかった。

「どうしてそこまで、わたしに執着するのですか?」

 アンドリューが好きだったのは、もともとリアナだった。グレイスは横恋慕に過ぎなかった。アンドリューが結婚を受け入れてくれても、ずっと二番手の女であることを覚悟していた。

「きみは……きみだけは僕を見捨てなかった。きみが他の男のもとへ逃げた時、リアナ以上に許せなくて、絶対に取り返してやると決めた。どんな手を使ってでも、すでに他の男に穢されていようと、グレイスは僕だけのものだ」

 アンドリューの心は変わったのだ。

 それでもグレイスは、いざこうして目の前で愛を告げられても、監禁する形で独占欲を露わにされても、自分が一番に愛されているとは思わなかった。

(信じたく、ないのかもしれない)

 心に響かないのだ。――レイモンドの自分に対する想いを知った今では。

 人の心は変わる。どんなに好きだった人でも、別の人を好きになり、その人が人生においてかけがえのない人になることだって当然ある。

 それでもグレイスは、レイモンドがいいと思った。いや、違う。

(レイモンド様でないと絶対に嫌……っ)

 熱く、沸騰しそうな感情が胸に湧き起こった時、まるでグレイスの心情が形になったかのようにドカンと爆発した音が聞こえた。

「なんだ? うっ」

 アンドリューが動きを止めた隙を好機と捉え、グレイスは思い切り彼の身体を腕で――なんなら脚も使って突き飛ばした。

「待てっ!」
「いやっ、離して! レイモンド様! レイ……っ」
「グレイス!」

 ドカンドカンと大砲のような音が立て続けに鳴り響く中、グレイスを呼ぶ声がはっきりと耳に届いた。後ろからアンドリューに羽交い締めにされながら、グレイスは叫ぶ。

「レイモンド様! わたしはここですっ!」
「待ってろ!」

 一体何が起きているのかわからなかったが、地響きに、部屋全体が揺れ、扉の外で待機する衛兵たちの叫び声が聞こえたと思ったら、グレイスの目に扉が吹き飛ぶ瞬間が映し出された。

「グレイス! 助けに来たぞ!」
「レ、レイモンド様……」

 声が上擦ってしまったのは、駆けつけてくれた安堵もあったのだが、彼の後ろの――まるで大砲を直接ぶち込んだように、壁や床が穴だらけの光景が目に飛び込んできたからだ。

「な、何をしたんだ」

 アンドリューの疑問はもっともであったのだが、レイモンドは怒り心頭に発した様子で、グレイスを捕えているアンドリューを見るなり目尻を吊り上げた。

「アンドリュー! おまえはグレイスを一体どこまで愚弄するつもりだ! その汚らわしい手を今すぐ放せ!」

 レイモンドの気迫にアンドリューは臆するのではないかと期待したが、意外にも彼はグレイスをさらにきつく自分の方へ抱き寄せた。

「嫌だ! グレイスは僕の妻だ!」
「誰がおまえのだ! グレイスは俺の妻だ!」

 すかさずレイモンドが訂正するが、アンドリューも負けじと言い返す。

「違う! 僕の婚約者だった! リアナに捨てられた僕を、彼女は決して見捨てなかった! 彼女は聖女で、女神そのもので、誰にも渡したくない! 僕と結婚するんだ!」
「聖女であり、女神である部分は激しく同意する! だが彼女はおまえとは絶対に結婚しない! なぜならすでに俺と結婚しているからだ!」

 ……なぜだろう。次第に子どもの言い合いのように聞こえてくる。

「そんなの知るか! おまえとグレイスは離婚するんだ! これは僕だけじゃなくて、父上や、グレイスの父親だって認めている!」

 ふと、レイモンドの顔から表情が消えた。

「もう一度言うぞ。グレイスを離せ」
「何度だって言う。絶対に嫌だ」
「そうか。なら――」

 レイモンドが懐から取り出し、こちらに向けたのは拳銃であった。

「おまえを殺すしかない」

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