上 下
9 / 45

認められない

しおりを挟む
 アンドリューの目が大きく見開かれ、信じられないと言った顔をする。

「グレイスがそんな残酷なことを思うはずがない……。だってきみは、僕のような人間も見捨てず、ずっと優しい態度で接してくれたじゃないか」
「……わたしも、自分はどちらかと言えば寛大な人間だと自負しておりました」

 でも、違った。

「あなたの血を引いた子どもがいると知って、許せないと思いました。はっきり告げましょう。わたしには、あの子を愛することはできません。最初は我慢できても、きっといつか、あの子を傷つけたいと思う残忍な心が生まれるでしょう」
「グレイス……」

 戸惑うアンドリューの表情に、グレイスはふっと微笑んだ。

「殿下。わたしがそう思ったのは、あなたを愛しているからなんです」

 もしグレイスが第三者の立場であったら、子どもに罪はない、それなのに傷つけようとするなんて恐ろしい人間だと非難するだろう。

 しかし、いざ自分が当事者となると、そんな人間がひどく残酷に思えた。
 だってそうじゃないか。愛する人が自分ではない相手と子どもを作った。それだけでも耐え難いのに、自分の子として認め、育てなければならないなんて……グレイスには到底無理だ。

「わたしが殿下の隣に立つ未来を選べば、わたしはあの子の幸せを心から願うことはできないでしょう。あの子も、実の母親ではない女性を母と思わなければならない。お互いに、辛い道を歩むだけです」
「最初は、確かにそうかもしれない。でもずっと一緒に暮らしていけば、きっといつか情が生まれるはずだ。僕が、きみに対してそうだったように。だからどうか考え直してくれないか。僕や母上たちも、精いっぱいきみの心に負担にかけないようサポートする。だから……」

 グレイスは寂しげに微笑んで、アンドリューから視線を逸らした。

「殿下……その結果わたしがジェイク様を傷つけることはなかったとしても……わたしの心の傷が癒えることはないでしょう」

 あえて誰も何も言わないが、ジェイクは幼い頃のアンドリューに瓜二つだ。

 恐らくこれからもっと似てくるだろう。彼の姿を見る度に、グレイスはアンドリューがリアナを愛したことを――彼の不貞の証を突きつけられるのだ。
 想像するだけで、ゾッとして、胸が軋む。

(もしわたしがすでに殿下と結婚していたら――その時は、覚悟を決めたかもしれない)

 でも、まだ彼と結婚はしていない。全員が不幸になる道は避けられるのだ。

「リアナ様を妃として迎えなさいませ。大変かもしれませんが、それが一番、良いでしょう」

 アンドリューはしばし呆然としたままグレイスを見つめ、やがて視線を下げてぽつりと呟いた。

「きみは、僕がリアナと結婚しても構わないと言うんだね……」

 まるでグレイスがアンドリューを捨てるかのような口ぶりだ。そして、そんなグレイスを彼は責めている。

「殿下……。今は突然のことばかりで、心が落ち着かれないかもしれません。ですが、あなたは今でもリアナ様を愛しているはずです。だから――」
「今の僕が愛しているのは、きみだよ、グレイス」

 アンドリューの掌がグレイスの手に重ねられる。

「不甲斐ない僕を、きみは慈悲深い心で支えてくれた。そんなきみだから、僕は過去を振り切り、きみとこの国を背負う覚悟ができたんだ。リアナのことは確かに昔、愛していたさ。でもそれはもう過去の話だ。もう今はきみじゃないと、駄目なんだよ……」

 グレイスは首を振り、やんわりと手を外させた。

「あなたと一緒の道を歩むつもりはありません。どうかリアナ様と生まれたご子息のことを大切になさってください」

 国王夫妻にも考えを改めるよう説得してほしいと頼めば、アンドリューはふっと笑いを零した。

「殿下?」
「父上たちは認めてくれていないのだろう? なら、このままきみは僕と結婚するしかない」
「殿下……!」

 悲鳴を上げるようにグレイスがアンドリューを咎めるが、彼の笑みは深まるだけだった。

「きみに憎まれても構わない。その怒りはすべて、僕に向けてくれ。僕はきみを手放したくない。――きみを愛しているんだ」

     ◇

 人気のない王宮の廊下を、グレイスは沈んだ気持ちと共にとぼとぼと歩いていた。

(殿下があんなことを言うなんて……)

 アンドリューが国王夫妻と共にいなかったのは、彼も同じ意見だったからだ。
 ただ違うのは、彼はかつての恋人と息子をそばへ置くつもりはなかった。

『きみがどうしても嫌なら、リアナには監視をつけて、遠くへやってもいい。たとえそばに置くことになっても、彼女にはもう指一本触れるつもりはない。あの子も……血の繋がりはあるかもしれないけれど、きみとの子どもより、可愛いとは思えない』

 アンドリューの言葉は、グレイスを気遣うものだったかもしれないが、ひどく残酷に聞こえた。

(このまま、殿下と結婚するなんて……)

「おかあさん! おかあさんどこ?」

 その時、弱々しく、今にも泣いてしまいそうな声が聞こえた。顔を上げれば、きょろきょろと辺りを見渡す、小さな子どもの姿が目に入る。

(あの子は……)

「お母さんを探しているの?」

 努めて優しい声を出したつもりだが、ジェイクはびくりと肩を震わせ、グレイスの方を見た。彼女は微笑んで、腰を屈める。同じ目線になって映る彼の表情は、やはりアンドリューの幼い頃にそっくりであった。

「迷子になってしまったのね」
「……おかあさん、どこ?」

 目尻に涙をいっぱい溜めて助けを求める表情が、ふと、遠い記憶の少年と重なる。

『誰も、僕のことを認めてくれない。僕は、いない方がよかったんだ』
「……大丈夫。すぐに会えるわ。わたしが連れて行ってあげる」

 ジェイクが瞬きして、涙がほろりと頬を伝って落ちた。

「ほんとう?」
「ええ。だからもう泣かないで」

 とは言っても、グレイスが直接リアナのもとへ連れて行けば、双方気まずい思いをするだろう。だからひとまず彼の世話係を任されていた女官を見つけ、彼女に託すことにした。

「きっとあなたのお母さんも、今あなたのことを必死に探しているはずよ。だからもう少しだけ、頑張れる?」

 ジェイクは黙り込んだものの、グレイスの言葉にこくんと頷いた。彼女は「ありがとう」と微笑んだ。

「じゃ、行きましょうか」
「ジェイク!」

 しかし、探す必要はなかったようだ。
 向かい側からリアナと、数人の女官が走って来る。焦っていたリアナの表情は、グレイスを見ると、驚いたものとへ変わり、困惑と、怯えを滲ませた。

「お母さん!」
「ジェイク!」

 リアナは胸に飛び込んでくる我が子を力いっぱい抱きしめた。女官の方はジェイクが無事だったことに安堵する気持ちと、グレイスと鉢合わせしてしまったことに焦ったような顔色をする。

「あの、グレイス様……」

 リアナはジェイクを抱きしめたまま、相変わらず怯えた眼差しでグレイスを見上げたが、一方でジェイクに何か危害を加えようとしていたのではないかと疑う表情も見せた。
 母親が子を守る姿を見て、グレイスはふっと微笑んだ。

王宮ここは広い所ですから、目を離してはいけませんよ」

 それだけ言うと、背を向けて、先に立ち去ることにした。

     ◇

「――遅かったな」
「お待たせしてしまって、ごめんなさい」

 王宮から外へ出ると、父がすでに馬車に乗って待っていた。
 グレイスもすぐに乗ろうとして、不意に動きを止める。

「どうした?」
「あの、お父様。やっぱり先に帰っていてくれませんか?」
「なぜだ」
「殿下に、もう一度お会いしようと思って。実は先ほど、殿下には結婚できないとお伝えしてしまったんです。でも、帰る途中リアナ様とご子息にお会いして……」
「何だと!?」

 カッと怒りで目を見開く父を宥めるように、グレイスは朗らかな笑みを浮かべた。

「その時に決めたのです。殿下と結婚しようと」
「おお、グレイス!」
「ですからお父様は先に帰っていてください。きっと少々時間がかかるでしょうから」
「ああ、わかった。何なら泊まっていけばいい。殿下もきっと、おまえの気持ちを受け入れてくれるはずだ。あんな小娘たちなど、しょせんおまえの敵ではない」

 グレイスは何も言わず、上機嫌で父が帰って行くのを確かに見届けた。そして、近くにいた侍従に、馬車を用意してくれるよう頼んだ。

 行き先は、もう一人の王子様のもとだった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

『別れても好きな人』 

設樂理沙
ライト文芸
 大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。  夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。  ほんとうは別れたくなどなかった。  この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には  どうしようもないことがあるのだ。  自分で選択できないことがある。  悲しいけれど……。   ―――――――――――――――――――――――――――――――――  登場人物紹介 戸田貴理子   40才 戸田正義    44才 青木誠二    28才 嘉島優子    33才  小田聖也    35才 2024.4.11 ―― プロット作成日 💛イラストはAI生成自作画像

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

【完結】嫌われ令嬢、部屋着姿を見せてから、王子に溺愛されてます。

airria
恋愛
グロース王国王太子妃、リリアナ。勝ち気そうなライラックの瞳、濡羽色の豪奢な巻き髪、スレンダーな姿形、知性溢れる社交術。見た目も中身も次期王妃として完璧な令嬢であるが、夫である王太子のセイラムからは忌み嫌われていた。 どうやら、セイラムの美しい乳兄妹、フリージアへのリリアナの態度が気に食わないらしい。 2ヶ月前に婚姻を結びはしたが、初夜もなく冷え切った夫婦関係。結婚も仕事の一環としか思えないリリアナは、セイラムと心が通じ合わなくても仕方ないし、必要ないと思い、王妃の仕事に邁進していた。 ある日、リリアナからのいじめを訴えるフリージアに泣きつかれたセイラムは、リリアナの自室を電撃訪問。 あまりの剣幕に仕方なく、部屋着のままで対応すると、なんだかセイラムの様子がおかしくて… あの、私、自分の時間は大好きな部屋着姿でだらけて過ごしたいのですが、なぜそんな時に限って頻繁に私の部屋にいらっしゃるの?

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

冷徹義兄の密やかな熱愛

橋本彩里(Ayari)
恋愛
十六歳の時に母が再婚しフローラは侯爵家の一員となったが、ある日、義兄のクリフォードと彼の親友の話を偶然聞いてしまう。 普段から冷徹な義兄に「いい加減我慢の限界だ」と視界に入れるのも疲れるほど嫌われていると知り、これ以上嫌われたくないと家を出ることを決意するのだが、それを知ったクリフォードの態度が急変し……。 ※王道ヒーローではありません

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

処理中です...