わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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ヨルク

3、第三者から見て

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『――イレーネ』

 もうずいぶん前のことだが、外で遊ぼうと誘ってきたエミールと一緒に庭へ出て、ちょうど雨上がりで綺麗な虹が出ていたから、エミールがお母さんにも見せてあげたいと言って、じゃあ自分が呼んでくると、足の速いヨルクが屋敷に戻って、イレーネの部屋へ行こうとした時のこと。

 わずかに開いていた扉から話し声が聴こえてきて、引き返そうかとも思ったが、自分もまたイレーネに虹を見せて、驚いて、嬉しそうに喜ぶ顔が見たくて、足音を忍ばせて扉の取っ手を掴んだ。

 瞬間、ガタンという物音が響き、びくりと肩を震わせた。もしかして何かあったのではないかと思って、けれど得体の知れない相手が怖くも思えて、ヨルクは開いた隙間からそっと中へと視線をやった。

(あ――)

 窓際を見ていただろうと思われるイレーネの後ろから男が――自分の父が、彼女の華奢な腰に長い腕を回し、もう片方の大きな掌で彼女の顎から首筋に添えて振り向かせると、かぶりつくように口を塞いでいた。

 イレーネが苦しそうに眉根を寄せ、くぐもった声を上げて抵抗しても、父の拘束はますます強まり、どうあっても無駄だと悟ったのか、やがて彼女は諦めたように目を閉じてされるがままになった。

 細くすらりとしたイレーネの肢体を搦めとり、決して逃がさないよう全身で支配する父の姿。

 それはまるで、狼が雌鹿を捕食するような、喉笛に噛みついて息の根を止める光景を思わせ、妖しくも残酷で、美しかった。ヨルクは見てはいけないものを見ているとわかっても目が離せなかった。足がその場に縫い付けられていた。

 だが、不意に紫色の瞳がこちらに向けられ、自分を捕えた瞬間、身体中の拘束が一気に解け、我に返った頭でその場から逃げ出した。無我夢中で逃げていた。逃げなければ、自分がやられると思って……。

「――あっ、こんなところいた!」

 いつまでたっても戻ってこないヨルクにしびれを切らし、エミールが探しにやってきた。何をしていたのだと怒っていた彼は、子ども部屋の隅に腰を下ろして蹲るヨルクを発見すると、様子が変だと近づいてくる。

「どうしたの? お腹でも痛くなったの?」

 違う、とヨルクは黙って首を振った。

「泣いているの?」

 誰か呼んでこようか、と心配した声で尋ねられても、ヨルクは何でもない、だから誰も呼ばないで、イレーネたちには絶対にこのことは言わないで、と顔を上げぬままエミールに懇願した。心配するエミールの顔も、見られなかった。

 イレーネと父のあんな姿を見てしまって、言いようのない気持ちに駆られた。今まで感じたことのない……仮にも母親である女性に対して抱いてはいけない、罪深い気持ちに……だから、イレーネに似ているエミールの顔を見たくなかった。

 それからしばらく間、いや、今でも、あの時の光景が忘れられない。イレーネの諦めたような、すべてを委ねるような表情や態度、そして、父の彼女を見つめるぎらぎらとした目、とても息子に向けるものとは思えない、誰にも渡さないという――イレーネは自分のものだと告げる目を。

(きっと、母上も同じものを見たんだ)

 まだ子どもである自分には知ることのできない、あの光景の続きを、きっと母はすでに知っている。だから、自分と同じように大きな衝撃を受けた。いや、自分以上に、深く傷ついた。

 そんな母をヨルクは可哀想にも思ったが、これでよかったのだとも思った。実際その後イレーネの妊娠がわかり、父はますます彼女を大切にするようになったから……母がやり直したいと頼んでも、面倒なことになっただけだろう。

「ねぇ、ヨルク。おまえはディートハルトとイレーネの姿が何に見える?」

 隣国へ帰っていく、マルガレーテの乗った馬車を一緒に見送りながら、グリゼルダは謎かけのように問うてきた。

「私はね、二人を見ていると子羊が狼に懐かれる光景が目に浮かぶの」
「……父上が、狼?」
「もちろん」

 なるほど。彼女にはあの二人がそう見えているらしい。

「あなたはどう?」
「俺は――」

 自分も、グリゼルダのように見えた。見えていた。でも、今は―― 

 あれはギーゼラが生まれて、少し経った頃だったろうか。やっぱり穏やかな昼下がりで、外でエミールと一緒に遊んで屋敷へ戻ると、客間の長椅子に父が寝ていた。イレーネの膝の上に頭を乗せた、実に無防備な姿で。

 父の眠っているところなんてヨルクは初めて見た。仕事であちこち奔走して疲れが溜まっていたとはいえ、こんな人目につく所で寝顔を晒すことが常に用心深い父にしては意外に思え、少し休むだけがつい眠ってしまったようにも見えた。

 エミールたちに気づいたイレーネは唇にそっと人差し指を当てて起こさないよう告げた。静かに部屋を出る前に、ヨルクはもう一度だけ、振り返って二人の姿を見た。その時イレーネの、仕方がないというように父を見つめる眼差しはまるで――


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