わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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ヨルク

2、母が見たもの

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 母、マルガレーテが隣国へ嫁ぎ直して、また久しぶりに家族で会いたいと申し出た時。ヨルクは母親に会える喜びとイレーネに対して申し訳ないという気持ちが半々だった。そしてひどく緊張していて、出かける寸前までエミールに心配されていたことを覚えている。

 母は、自分のことを覚えているだろうか。喜んで、くれるだろうか。

「本当に……ますますディートハルトそっくりになっていくわね」

 だが実際に再会して、マルガレーテは自分よりも父に会いたかったのだと気づいた。それは自分の顔をしげしげと見つめながら言われた台詞からも察せられた。

「ディートハルトは以前と全く変わらないのね。いいえ、むしろ前よりずっと素敵になったわ」

 そういうことを繰り返し述べて、その瞳はまるで恋する乙女のようだった。母のそんな顔を見るのはなんだかひどく居たたまれない気持ちになり、嫌だなと思った。久しぶりに息子である自分の顔を見ても、幼い頃のお父様に似ていることしか言ってくれない母にどうして、と言いたかった。

(やっぱり来なければよかったかな……)

 父はどこか上の空で母の話に耳を傾けている。母はそんな父に気づかず、自分の言いたいことを口にしている。懐かしい、だなんて言うけれど、ヨルクには今の自分たちの姿がどこか歪で、滑稽に思えた。

 それはエミールやイレーネと食事を共にするようになったからこそ、わかる違いでもあった。

「――ねぇ、ヨルク。また、三人で暮らせるようになったら、あなたも嬉しいでしょう?」

 母は父が所用で席を外すと、名残惜しそうに後ろ姿を見送って、ため息をつくように自分に問いかけた。

「母上は、俺たちとまた一緒に暮らしたいんですか」
「ええ、もちろん」

 別れる時、母は泣いて自分を抱きしめてくれた。だからヨルクも、母は自分と離れることが寂しいのだと思えた。でも考えてみると、母が隣国へ行った後、文などは一切送られてこなかった。父を通しても、母が自分を心配しているということはないようだった。

 母にも、事情はあった。王太子の妃になるのだから、以前の家庭はもうないものとして、自分を産んだことも、なかったことにしなければならなかった。それが普通のことだと。

 だからイレーネがエミールを連れて父と再婚すると知った時、軽く衝撃を覚えたものだ。彼女が決して息子を手放さなかった事実に。もちろんイレーネと母では立場や背負うものが違う。

 それでも、ヨルクはエミールが羨ましかった。

「ねぇ、ヨルク。あなたも、そう思うでしょう?」

 返事のない息子に、マルガレーテがもう一度問いかける。ヨルクは母を傷つけず、どう答えるのが正しいのだろうと考えた。

「はい。俺も、そうなったら嬉しいです」

 息子の答えに、ぱぁっとマルガレーテは顔を輝かせた。

「そうよね。あなたもそう思うわよね。だったら、」
「でも母上。あなたはもうあちらで家庭を築いていらっしゃいますし、父上も再婚していらっしゃいます」

 そこで初めて母は、父が再婚していることに思い当たったようだった。

「そう……でも、事情があって仕方なく、でしょう?」

 父はイレーネのことを母にどう説明しているのだろう。少なくとも母の様子を見る限り、想い合って結ばれたとは考えていないようだ。もっとも、ヨルクも今はもっと別の事情が絡んでいるだろうと思っているが。

 昔イレーネが自分を傷つけないよう説明してくれたのとはまるきり違う事実がきっとある。

「お相手の女性は、夫を亡くした方だと聞いているわ。子どももいて……ディートハルトは優しい方ですもの。きっと可哀想に思って、放っておけなかったのよ」

(わざわざ隣国まで、迎えに行くほど?)

 一体母は、どこまで知っているのだろう。その女性が父の元婚約者であったことも、知っているのだろうか。

「それに……子どもはまだいないのでしょう?」

 子どもがいなければ、二人の間に愛は存在しないと言いたげな口調であった。父が愛しているのは、今も変わらず自分だけなのだと、母は疑いもせず信じている。

「子どもは、愛の証だと思うわ。わたくしは殿下のことを愛しているけれど、子どもはできなくて……やっぱり運命の相手はあなたのお父様だったのだと、この頃しみじみと思うの」

 だからこうして会いに来たのよ、と言う母にヨルクは何も言えず、ただ自分一人では決めることはできないので、父に直接言ってくれるよう頼んだ。

 母は少し不満そうな顔をしたが、すぐににっこりと微笑んで、わかったわと承諾した。そしてしばらく父との出会いや結婚するまでの思い出話を聞かされ、だいぶ時間が経ち、父はもう戻ってこないだろうと思い、夕食を終いにして宛がわれた部屋へ帰ることを告げた。

 母にもそうするよう促したが、首を振られ、父を待っていると答えた。

「でも、きっと父上は――」
「マルガレーテ。ディートハルトはきっと今夜はもう戻らないわよ」

 扉を開けて入ってきたのは、この国の女王陛下であり、ヨルクはぎょっとした。グリゼルダはヨルクを見ると、面白いものを見るように微笑を浮かべ、異母妹のマルガレーテへと再度視線を戻した。

「とても急いだ様子で向かっていたから、よほど大切な用事があるのでしょう」
「お姉様。ディートハルトはどこへ行ったのでしょう」
「そうね。たぶんあの方角だと――」

 そこは母が王女であった頃、暮らしていた宮殿だそうで、母が懐かしそうに、そして何か期待するように瞳を輝かせた。

「お姉様。わたくし、会いに行ってみますわ」
「きっと仕事の話をしているのでしょうから、やめておいた方がいいんじゃないかしら」

 ヨルクも、なぜかそう思った。だが母は、いいえと自信に満ちた声で否定した。

「きっと、ディートハルトもわたくしのことを待っていますわ」
「――そう。なら、仕方がないわね」

 女王はマルガレーテの意思ならば、彼女が選んだことだから、と行かせてやった。ヨルクは部屋を出て行く母を見送ると、そっとグリゼルダの横顔を伺った。

 彼女の目は長い間見守ってきた種がようやく花開くような、達成感と喜びに爛々と輝いており、見てはいけないものを垣間見てしまった気がした。ヨルクの視線に気づいたグリゼルダに微笑みを向けられ、ぎくりとする。

「――ふふ。おまえはあの二人の、どちらにも似ていないようね」

 それが悪い意味か良い意味か、ヨルクにはわからなかったが、女王はもう遅いから部屋へ帰るよう促した。そして従者に付き添われて部屋へ戻る途中、ちょうど母が白亜の宮殿へ入っていく姿を見かけた。

「俺も、様子を見に行ってはいけないだろうか」
「それはやめておいた方がよろしいでしょう」

 返答されるとは思わず、振り返って従者の顔を見上げた。見れば、彼はこの国の者ではないようだった。女王陛下から送るよう頼まれ頷いた彼の瞳には、主人へ向けるもの以上の感情が宿っているように見えたから、もっと特別な関係なのかもしれない。

「どうして、やめておいた方がいいんだ」
「あなたの母君は父上にお会いになることはできないでしょう。すぐに、引き返してくるはずです」

 まるで実際にこの後の出来事を見てきたかのような、断言する口調だった。なぜそう言えるのか疑問にも思ったが、それ以上尋ねてはいけないような気がして、ヨルクは大人しく部屋へ戻った。

 翌日。母は朝食の席に出席せず、父もおらず、代わりにグリゼルダがやってきて、母は体調が悪いのでまだ休んでいると知らされた。どうしてグリゼルダが知っているのかと聞けば、あれから彼女も気になって結局白亜の宮殿へ向かったらしい。

「ちょうど私が宮殿へ入ろうとしたら、あの子が戻ってきてね。ひどくショックを受けたような、青ざめた表情をしていたから、心配になって部屋まで一緒に連れ帰ったの」
「母に、一体何があったのでしょう」
「それが教えてくれないのよ」

 ヨルクはグリゼルダの振る舞いに、表情に、じっと視線を注いだ。何か、彼女が嘘をついているのではないかと思って。だが女王陛下はそんな少年の心を欺くことなど造作もないというように、艶やかに微笑んでみせた。

「あの宮殿はあなたのお母様がお嫁にいかれてから、ずっと放置していたから、幽霊でも住み着いてしまったのかもしれないわね」
「じゃあ、母上が見たのは幽霊?」

 グリゼルダはくすくす笑いながら、そうかもしれないわと答えた。

「あの建物はいろいろ曰く付きなの。どんなに新しく建て直しても、その時の人間の恨みや怨念は、消えてくれなかったのかもしれないわ」

 白亜の宮殿は、とても美しい外観をしていた。だが、それが建てられた経緯というのは、決して人に言えるようなものではないのかもしれない。自分の母がそんなところに暮らしていたことに、ヨルクはふと不気味に感じた。

「でもこのまま幽霊に居座られても困るから、近々壊そうと思っているの」

 そうした方がいいだろう。
 母も、もう二度と近づこうとはするまい。

 マルガレーテはその後もしばらく部屋から出られず、心配になってヨルクは何度か見舞いに訪れたが、追い返されてしまった。そのまま顔を合わせることもなく舞踏会は終わってしまい、ちょうど夫である王太子から早く帰るよう使者も送られてきて、母は意外にもあっさりと帰ることを決めた。

 もっとごねると思っていただけにヨルクは拍子抜けする思いだった。やはり嫁いだ国が、今の夫が恋しく思ったのかもしれない。

「母上。どうかお元気で」
「え、ええ……」

 別れの挨拶をするヨルクの顔を、マルガレーテは怯えるように、そして僅かな嫌悪も含ませて――それは自分ではない別の誰かに向けるような感情に思えたが、見やると、すぐに逸らした。そして逃げるように、もうこんな場所には少しもいたくないというように、足早に王都を去っていった。

 父のことには、一言も触れなかった。仕事で会いにこられないことを残念に思うよりも、むしろ顔を見合わせずに済んでほっとしたような、そんな態度であった。

(あんなにこちらへ戻りたそうにしていたのに……)

 あの宮殿で、一体母に何が起こったのだろう。グリゼルダの言う通り、幽霊でも見たのだろうか。

 ――いいや、おそらく違う。

 きっと母は、父を見たのだろう。父と、イレーネの姿を。

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