113 / 116
ヨルク
2、母が見たもの
しおりを挟む
母、マルガレーテが隣国へ嫁ぎ直して、また久しぶりに家族で会いたいと申し出た時。ヨルクは母親に会える喜びとイレーネに対して申し訳ないという気持ちが半々だった。そしてひどく緊張していて、出かける寸前までエミールに心配されていたことを覚えている。
母は、自分のことを覚えているだろうか。喜んで、くれるだろうか。
「本当に……ますますディートハルトそっくりになっていくわね」
だが実際に再会して、マルガレーテは自分よりも父に会いたかったのだと気づいた。それは自分の顔をしげしげと見つめながら言われた台詞からも察せられた。
「ディートハルトは以前と全く変わらないのね。いいえ、むしろ前よりずっと素敵になったわ」
そういうことを繰り返し述べて、その瞳はまるで恋する乙女のようだった。母のそんな顔を見るのはなんだかひどく居たたまれない気持ちになり、嫌だなと思った。久しぶりに息子である自分の顔を見ても、幼い頃のお父様に似ていることしか言ってくれない母にどうして、と言いたかった。
(やっぱり来なければよかったかな……)
父はどこか上の空で母の話に耳を傾けている。母はそんな父に気づかず、自分の言いたいことを口にしている。懐かしい、だなんて言うけれど、ヨルクには今の自分たちの姿がどこか歪で、滑稽に思えた。
それはエミールやイレーネと食事を共にするようになったからこそ、わかる違いでもあった。
「――ねぇ、ヨルク。また、三人で暮らせるようになったら、あなたも嬉しいでしょう?」
母は父が所用で席を外すと、名残惜しそうに後ろ姿を見送って、ため息をつくように自分に問いかけた。
「母上は、俺たちとまた一緒に暮らしたいんですか」
「ええ、もちろん」
別れる時、母は泣いて自分を抱きしめてくれた。だからヨルクも、母は自分と離れることが寂しいのだと思えた。でも考えてみると、母が隣国へ行った後、文などは一切送られてこなかった。父を通しても、母が自分を心配しているということはないようだった。
母にも、事情はあった。王太子の妃になるのだから、以前の家庭はもうないものとして、自分を産んだことも、なかったことにしなければならなかった。それが普通のことだと。
だからイレーネがエミールを連れて父と再婚すると知った時、軽く衝撃を覚えたものだ。彼女が決して息子を手放さなかった事実に。もちろんイレーネと母では立場や背負うものが違う。
それでも、ヨルクはエミールが羨ましかった。
「ねぇ、ヨルク。あなたも、そう思うでしょう?」
返事のない息子に、マルガレーテがもう一度問いかける。ヨルクは母を傷つけず、どう答えるのが正しいのだろうと考えた。
「はい。俺も、そうなったら嬉しいです」
息子の答えに、ぱぁっとマルガレーテは顔を輝かせた。
「そうよね。あなたもそう思うわよね。だったら、」
「でも母上。あなたはもうあちらで家庭を築いていらっしゃいますし、父上も再婚していらっしゃいます」
そこで初めて母は、父が再婚していることに思い当たったようだった。
「そう……でも、事情があって仕方なく、でしょう?」
父はイレーネのことを母にどう説明しているのだろう。少なくとも母の様子を見る限り、想い合って結ばれたとは考えていないようだ。もっとも、ヨルクも今はもっと別の事情が絡んでいるだろうと思っているが。
昔イレーネが自分を傷つけないよう説明してくれたのとはまるきり違う事実がきっとある。
「お相手の女性は、夫を亡くした方だと聞いているわ。子どももいて……ディートハルトは優しい方ですもの。きっと可哀想に思って、放っておけなかったのよ」
(わざわざ隣国まで、迎えに行くほど?)
一体母は、どこまで知っているのだろう。その女性が父の元婚約者であったことも、知っているのだろうか。
「それに……子どもはまだいないのでしょう?」
子どもがいなければ、二人の間に愛は存在しないと言いたげな口調であった。父が愛しているのは、今も変わらず自分だけなのだと、母は疑いもせず信じている。
「子どもは、愛の証だと思うわ。わたくしは殿下のことを愛しているけれど、子どもはできなくて……やっぱり運命の相手はあなたのお父様だったのだと、この頃しみじみと思うの」
だからこうして会いに来たのよ、と言う母にヨルクは何も言えず、ただ自分一人では決めることはできないので、父に直接言ってくれるよう頼んだ。
母は少し不満そうな顔をしたが、すぐににっこりと微笑んで、わかったわと承諾した。そしてしばらく父との出会いや結婚するまでの思い出話を聞かされ、だいぶ時間が経ち、父はもう戻ってこないだろうと思い、夕食を終いにして宛がわれた部屋へ帰ることを告げた。
母にもそうするよう促したが、首を振られ、父を待っていると答えた。
「でも、きっと父上は――」
「マルガレーテ。ディートハルトはきっと今夜はもう戻らないわよ」
扉を開けて入ってきたのは、この国の女王陛下であり、ヨルクはぎょっとした。グリゼルダはヨルクを見ると、面白いものを見るように微笑を浮かべ、異母妹のマルガレーテへと再度視線を戻した。
「とても急いだ様子で向かっていたから、よほど大切な用事があるのでしょう」
「お姉様。ディートハルトはどこへ行ったのでしょう」
「そうね。たぶんあの方角だと――」
そこは母が王女であった頃、暮らしていた宮殿だそうで、母が懐かしそうに、そして何か期待するように瞳を輝かせた。
「お姉様。わたくし、会いに行ってみますわ」
「きっと仕事の話をしているのでしょうから、やめておいた方がいいんじゃないかしら」
ヨルクも、なぜかそう思った。だが母は、いいえと自信に満ちた声で否定した。
「きっと、ディートハルトもわたくしのことを待っていますわ」
「――そう。なら、仕方がないわね」
女王はマルガレーテの意思ならば、彼女が選んだことだから、と行かせてやった。ヨルクは部屋を出て行く母を見送ると、そっとグリゼルダの横顔を伺った。
彼女の目は長い間見守ってきた種がようやく花開くような、達成感と喜びに爛々と輝いており、見てはいけないものを垣間見てしまった気がした。ヨルクの視線に気づいたグリゼルダに微笑みを向けられ、ぎくりとする。
「――ふふ。おまえはあの二人の、どちらにも似ていないようね」
それが悪い意味か良い意味か、ヨルクにはわからなかったが、女王はもう遅いから部屋へ帰るよう促した。そして従者に付き添われて部屋へ戻る途中、ちょうど母が白亜の宮殿へ入っていく姿を見かけた。
「俺も、様子を見に行ってはいけないだろうか」
「それはやめておいた方がよろしいでしょう」
返答されるとは思わず、振り返って従者の顔を見上げた。見れば、彼はこの国の者ではないようだった。女王陛下から送るよう頼まれ頷いた彼の瞳には、主人へ向けるもの以上の感情が宿っているように見えたから、もっと特別な関係なのかもしれない。
「どうして、やめておいた方がいいんだ」
「あなたの母君は父上にお会いになることはできないでしょう。すぐに、引き返してくるはずです」
まるで実際にこの後の出来事を見てきたかのような、断言する口調だった。なぜそう言えるのか疑問にも思ったが、それ以上尋ねてはいけないような気がして、ヨルクは大人しく部屋へ戻った。
翌日。母は朝食の席に出席せず、父もおらず、代わりにグリゼルダがやってきて、母は体調が悪いのでまだ休んでいると知らされた。どうしてグリゼルダが知っているのかと聞けば、あれから彼女も気になって結局白亜の宮殿へ向かったらしい。
「ちょうど私が宮殿へ入ろうとしたら、あの子が戻ってきてね。ひどくショックを受けたような、青ざめた表情をしていたから、心配になって部屋まで一緒に連れ帰ったの」
「母に、一体何があったのでしょう」
「それが教えてくれないのよ」
ヨルクはグリゼルダの振る舞いに、表情に、じっと視線を注いだ。何か、彼女が嘘をついているのではないかと思って。だが女王陛下はそんな少年の心を欺くことなど造作もないというように、艶やかに微笑んでみせた。
「あの宮殿はあなたのお母様がお嫁にいかれてから、ずっと放置していたから、幽霊でも住み着いてしまったのかもしれないわね」
「じゃあ、母上が見たのは幽霊?」
グリゼルダはくすくす笑いながら、そうかもしれないわと答えた。
「あの建物はいろいろ曰く付きなの。どんなに新しく建て直しても、その時の人間の恨みや怨念は、消えてくれなかったのかもしれないわ」
白亜の宮殿は、とても美しい外観をしていた。だが、それが建てられた経緯というのは、決して人に言えるようなものではないのかもしれない。自分の母がそんなところに暮らしていたことに、ヨルクはふと不気味に感じた。
「でもこのまま幽霊に居座られても困るから、近々壊そうと思っているの」
そうした方がいいだろう。
母も、もう二度と近づこうとはするまい。
マルガレーテはその後もしばらく部屋から出られず、心配になってヨルクは何度か見舞いに訪れたが、追い返されてしまった。そのまま顔を合わせることもなく舞踏会は終わってしまい、ちょうど夫である王太子から早く帰るよう使者も送られてきて、母は意外にもあっさりと帰ることを決めた。
もっとごねると思っていただけにヨルクは拍子抜けする思いだった。やはり嫁いだ国が、今の夫が恋しく思ったのかもしれない。
「母上。どうかお元気で」
「え、ええ……」
別れの挨拶をするヨルクの顔を、マルガレーテは怯えるように、そして僅かな嫌悪も含ませて――それは自分ではない別の誰かに向けるような感情に思えたが、見やると、すぐに逸らした。そして逃げるように、もうこんな場所には少しもいたくないというように、足早に王都を去っていった。
父のことには、一言も触れなかった。仕事で会いにこられないことを残念に思うよりも、むしろ顔を見合わせずに済んでほっとしたような、そんな態度であった。
(あんなにこちらへ戻りたそうにしていたのに……)
あの宮殿で、一体母に何が起こったのだろう。グリゼルダの言う通り、幽霊でも見たのだろうか。
――いいや、おそらく違う。
きっと母は、父を見たのだろう。父と、イレーネの姿を。
母は、自分のことを覚えているだろうか。喜んで、くれるだろうか。
「本当に……ますますディートハルトそっくりになっていくわね」
だが実際に再会して、マルガレーテは自分よりも父に会いたかったのだと気づいた。それは自分の顔をしげしげと見つめながら言われた台詞からも察せられた。
「ディートハルトは以前と全く変わらないのね。いいえ、むしろ前よりずっと素敵になったわ」
そういうことを繰り返し述べて、その瞳はまるで恋する乙女のようだった。母のそんな顔を見るのはなんだかひどく居たたまれない気持ちになり、嫌だなと思った。久しぶりに息子である自分の顔を見ても、幼い頃のお父様に似ていることしか言ってくれない母にどうして、と言いたかった。
(やっぱり来なければよかったかな……)
父はどこか上の空で母の話に耳を傾けている。母はそんな父に気づかず、自分の言いたいことを口にしている。懐かしい、だなんて言うけれど、ヨルクには今の自分たちの姿がどこか歪で、滑稽に思えた。
それはエミールやイレーネと食事を共にするようになったからこそ、わかる違いでもあった。
「――ねぇ、ヨルク。また、三人で暮らせるようになったら、あなたも嬉しいでしょう?」
母は父が所用で席を外すと、名残惜しそうに後ろ姿を見送って、ため息をつくように自分に問いかけた。
「母上は、俺たちとまた一緒に暮らしたいんですか」
「ええ、もちろん」
別れる時、母は泣いて自分を抱きしめてくれた。だからヨルクも、母は自分と離れることが寂しいのだと思えた。でも考えてみると、母が隣国へ行った後、文などは一切送られてこなかった。父を通しても、母が自分を心配しているということはないようだった。
母にも、事情はあった。王太子の妃になるのだから、以前の家庭はもうないものとして、自分を産んだことも、なかったことにしなければならなかった。それが普通のことだと。
だからイレーネがエミールを連れて父と再婚すると知った時、軽く衝撃を覚えたものだ。彼女が決して息子を手放さなかった事実に。もちろんイレーネと母では立場や背負うものが違う。
それでも、ヨルクはエミールが羨ましかった。
「ねぇ、ヨルク。あなたも、そう思うでしょう?」
返事のない息子に、マルガレーテがもう一度問いかける。ヨルクは母を傷つけず、どう答えるのが正しいのだろうと考えた。
「はい。俺も、そうなったら嬉しいです」
息子の答えに、ぱぁっとマルガレーテは顔を輝かせた。
「そうよね。あなたもそう思うわよね。だったら、」
「でも母上。あなたはもうあちらで家庭を築いていらっしゃいますし、父上も再婚していらっしゃいます」
そこで初めて母は、父が再婚していることに思い当たったようだった。
「そう……でも、事情があって仕方なく、でしょう?」
父はイレーネのことを母にどう説明しているのだろう。少なくとも母の様子を見る限り、想い合って結ばれたとは考えていないようだ。もっとも、ヨルクも今はもっと別の事情が絡んでいるだろうと思っているが。
昔イレーネが自分を傷つけないよう説明してくれたのとはまるきり違う事実がきっとある。
「お相手の女性は、夫を亡くした方だと聞いているわ。子どももいて……ディートハルトは優しい方ですもの。きっと可哀想に思って、放っておけなかったのよ」
(わざわざ隣国まで、迎えに行くほど?)
一体母は、どこまで知っているのだろう。その女性が父の元婚約者であったことも、知っているのだろうか。
「それに……子どもはまだいないのでしょう?」
子どもがいなければ、二人の間に愛は存在しないと言いたげな口調であった。父が愛しているのは、今も変わらず自分だけなのだと、母は疑いもせず信じている。
「子どもは、愛の証だと思うわ。わたくしは殿下のことを愛しているけれど、子どもはできなくて……やっぱり運命の相手はあなたのお父様だったのだと、この頃しみじみと思うの」
だからこうして会いに来たのよ、と言う母にヨルクは何も言えず、ただ自分一人では決めることはできないので、父に直接言ってくれるよう頼んだ。
母は少し不満そうな顔をしたが、すぐににっこりと微笑んで、わかったわと承諾した。そしてしばらく父との出会いや結婚するまでの思い出話を聞かされ、だいぶ時間が経ち、父はもう戻ってこないだろうと思い、夕食を終いにして宛がわれた部屋へ帰ることを告げた。
母にもそうするよう促したが、首を振られ、父を待っていると答えた。
「でも、きっと父上は――」
「マルガレーテ。ディートハルトはきっと今夜はもう戻らないわよ」
扉を開けて入ってきたのは、この国の女王陛下であり、ヨルクはぎょっとした。グリゼルダはヨルクを見ると、面白いものを見るように微笑を浮かべ、異母妹のマルガレーテへと再度視線を戻した。
「とても急いだ様子で向かっていたから、よほど大切な用事があるのでしょう」
「お姉様。ディートハルトはどこへ行ったのでしょう」
「そうね。たぶんあの方角だと――」
そこは母が王女であった頃、暮らしていた宮殿だそうで、母が懐かしそうに、そして何か期待するように瞳を輝かせた。
「お姉様。わたくし、会いに行ってみますわ」
「きっと仕事の話をしているのでしょうから、やめておいた方がいいんじゃないかしら」
ヨルクも、なぜかそう思った。だが母は、いいえと自信に満ちた声で否定した。
「きっと、ディートハルトもわたくしのことを待っていますわ」
「――そう。なら、仕方がないわね」
女王はマルガレーテの意思ならば、彼女が選んだことだから、と行かせてやった。ヨルクは部屋を出て行く母を見送ると、そっとグリゼルダの横顔を伺った。
彼女の目は長い間見守ってきた種がようやく花開くような、達成感と喜びに爛々と輝いており、見てはいけないものを垣間見てしまった気がした。ヨルクの視線に気づいたグリゼルダに微笑みを向けられ、ぎくりとする。
「――ふふ。おまえはあの二人の、どちらにも似ていないようね」
それが悪い意味か良い意味か、ヨルクにはわからなかったが、女王はもう遅いから部屋へ帰るよう促した。そして従者に付き添われて部屋へ戻る途中、ちょうど母が白亜の宮殿へ入っていく姿を見かけた。
「俺も、様子を見に行ってはいけないだろうか」
「それはやめておいた方がよろしいでしょう」
返答されるとは思わず、振り返って従者の顔を見上げた。見れば、彼はこの国の者ではないようだった。女王陛下から送るよう頼まれ頷いた彼の瞳には、主人へ向けるもの以上の感情が宿っているように見えたから、もっと特別な関係なのかもしれない。
「どうして、やめておいた方がいいんだ」
「あなたの母君は父上にお会いになることはできないでしょう。すぐに、引き返してくるはずです」
まるで実際にこの後の出来事を見てきたかのような、断言する口調だった。なぜそう言えるのか疑問にも思ったが、それ以上尋ねてはいけないような気がして、ヨルクは大人しく部屋へ戻った。
翌日。母は朝食の席に出席せず、父もおらず、代わりにグリゼルダがやってきて、母は体調が悪いのでまだ休んでいると知らされた。どうしてグリゼルダが知っているのかと聞けば、あれから彼女も気になって結局白亜の宮殿へ向かったらしい。
「ちょうど私が宮殿へ入ろうとしたら、あの子が戻ってきてね。ひどくショックを受けたような、青ざめた表情をしていたから、心配になって部屋まで一緒に連れ帰ったの」
「母に、一体何があったのでしょう」
「それが教えてくれないのよ」
ヨルクはグリゼルダの振る舞いに、表情に、じっと視線を注いだ。何か、彼女が嘘をついているのではないかと思って。だが女王陛下はそんな少年の心を欺くことなど造作もないというように、艶やかに微笑んでみせた。
「あの宮殿はあなたのお母様がお嫁にいかれてから、ずっと放置していたから、幽霊でも住み着いてしまったのかもしれないわね」
「じゃあ、母上が見たのは幽霊?」
グリゼルダはくすくす笑いながら、そうかもしれないわと答えた。
「あの建物はいろいろ曰く付きなの。どんなに新しく建て直しても、その時の人間の恨みや怨念は、消えてくれなかったのかもしれないわ」
白亜の宮殿は、とても美しい外観をしていた。だが、それが建てられた経緯というのは、決して人に言えるようなものではないのかもしれない。自分の母がそんなところに暮らしていたことに、ヨルクはふと不気味に感じた。
「でもこのまま幽霊に居座られても困るから、近々壊そうと思っているの」
そうした方がいいだろう。
母も、もう二度と近づこうとはするまい。
マルガレーテはその後もしばらく部屋から出られず、心配になってヨルクは何度か見舞いに訪れたが、追い返されてしまった。そのまま顔を合わせることもなく舞踏会は終わってしまい、ちょうど夫である王太子から早く帰るよう使者も送られてきて、母は意外にもあっさりと帰ることを決めた。
もっとごねると思っていただけにヨルクは拍子抜けする思いだった。やはり嫁いだ国が、今の夫が恋しく思ったのかもしれない。
「母上。どうかお元気で」
「え、ええ……」
別れの挨拶をするヨルクの顔を、マルガレーテは怯えるように、そして僅かな嫌悪も含ませて――それは自分ではない別の誰かに向けるような感情に思えたが、見やると、すぐに逸らした。そして逃げるように、もうこんな場所には少しもいたくないというように、足早に王都を去っていった。
父のことには、一言も触れなかった。仕事で会いにこられないことを残念に思うよりも、むしろ顔を見合わせずに済んでほっとしたような、そんな態度であった。
(あんなにこちらへ戻りたそうにしていたのに……)
あの宮殿で、一体母に何が起こったのだろう。グリゼルダの言う通り、幽霊でも見たのだろうか。
――いいや、おそらく違う。
きっと母は、父を見たのだろう。父と、イレーネの姿を。
380
お気に入りに追加
4,937
あなたにおすすめの小説
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

筆頭婚約者候補は「一抜け」を叫んでさっさと逃げ出した
基本二度寝
恋愛
王太子には婚約者候補が二十名ほどいた。
その中でも筆頭にいたのは、顔よし頭良し、すべての条件を持っていた公爵家の令嬢。
王太子を立てることも忘れない彼女に、ひとつだけ不満があった。

姉の婚約者であるはずの第一王子に「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」と言われました。
ふまさ
恋愛
「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」
ある日の休日。家族に疎まれ、蔑まれながら育ったマイラに、第一王子であり、姉の婚約者であるはずのヘイデンがそう告げた。その隣で、姉のパメラが偉そうにふんぞりかえる。
「ぞんぶんに感謝してよ、マイラ。あたしがヘイデン殿下に口添えしたんだから!」
一方的に条件を押し付けられ、望まぬまま、第一王子の婚約者となったマイラは、それでもつかの間の安らぎを手に入れ、歓喜する。
だって。
──これ以上の幸せがあるなんて、知らなかったから。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
婚約者を想うのをやめました
かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。
「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」
最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。
*書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。
不遇な王妃は国王の愛を望まない
ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。
※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷
※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる