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ディートハルト
34、愛を乞う男
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突然ディートハルトにそんなことを言われ、イレーネは驚いたように目を瞠ったが、やっぱり困ったように微笑むだけだった。
「わたしには、そんなことできませんわ」
彼女の言う通りだ。こんな小さな手で、細い腕で、弱い力で、自分を殺せるはずない。それでもディートハルトは、イレーネに心臓を握られているような気がした。そして彼女になら、別に殺されてもいいと思う自分がいた。
(国王陛下も、父上も、なぜ死ななかったのだろう)
マルガレーテの母親を愛し、異母弟を何より大切な存在だと思っていたならば、それを失った時点で、生きている意味などないだろうに。一緒に死んでしまえばよかったのに。それともイレーネの父親のように、託された願いがあったのだろうか。だから、死んだように生き続けたのだろうか。
――もしかすると本当は、愛していなかったのかもしれない。
だってディートハルトは、イレーネを失ったらもう生きるのが馬鹿らしくなってくる。名誉や金も、ただの虚しい飾りでしかない。
だから、彼女が殺したいほど自分を憎んでいるのなら、彼女を失ってこの世界を生きるくらいなら、彼女の手によって殺されてもいいと思った。いや、どうせ死ぬなら彼女の手で終わらせてほしかった。
(きみが望むなら――)
「あなたはとても酷い人……でも……」
グレイの瞳が潤んで、ディートハルトの目元に涙を零した。正妻から虐待を受けていた時は声が枯れるほど泣き叫んでいたというのに、いつの間にかディートハルトは泣けなくなっていた。泣き方を忘れてしまった。
だから頬へと落ちてきた涙が、なんだか慈愛の雨のように感じた。
「あなたはあの子の……あの子たちの父親だから……だから、殺したいなんて、思いません……」
自分には守る力がない。だから、ディートハルトの力が欲しい。そのために生きるのを許す。そう、言われた気がした。
「あの子たちを、大切にして……あなたの、できる限りでいいから……」
自分を見つめる彼女の瞳は美しかった。弱いのに、強く思えた。
「――わかった」
イレーネの子どもでも、ディートハルトの胸に何か特別な感情が芽生えることはなかった。むしろイレーネを取られたようで、嫉妬すらあった。男だったら、すぐに引き離していただろう。
だが彼女が大切にしてほしいと望むなら、――できるかわからないが、大切にしようと思った。
ディートハルトの言葉に、イレーネはまた困ったように微笑む。再会した時は水仕事で荒れていた手も、今は傷一つない。柔らかで、ディートハルトのように人を傷つけたことも、殺したこともない綺麗な手だ。その指先が首からそっと離れて、また頬を撫でていく。
自分を見下ろす目に、憎しみや怒りはない。嫌悪も、ない。では好意があるかというと、それもたぶん違う。ただ、諦めたような、憐れむような、ありのままの自分を受け入れる感情が、そこには見えた。
「イレーネ……」
ディートハルトはそれで満足するべきなのだろう。散々酷いことをした自分にこうして微笑んでくれるのだから。これ以上望めば、罰が当たる。わかっている。だが――
(俺はまだ、きみが欲しい……)
憐憫ではなく、別の感情も向けてほしい。初恋の相手に捧げたような純真さが欲しい。何の取り柄もないのに、全てを捨てて一緒に生きようとした献身さが欲しい。
死んでもなお想い続けられるハインツが羨ましくて仕方がない。
手に入ると、今でも思っている。でも、彼女を抱く度に、一緒にいる時間を重ねていくにつれて、まるで遅効性の毒のようにじわじわと手足を痺れさせ、身体中を搦めとられていく気がした。もどかしい。手に入れているのに、掴めない。――いいや、掴んでみせる。
「きみを、離さない」
たとえイレーネが死んでも、ハインツのもとへは逝かせない。この世に天国と地獄が実在するかはわからない。あるとしたら、間違いなく自分は地獄行きだ。その地獄に、楽園へ向かう彼女を引きずり下して、一緒に堕ちようと思った。
「俺は、きみが――」
ディートハルトはイレーネの手を掴み、握りしめた。腰を引き寄せ、逃げてしまわないように捕まえた。今はもう逸らさない瞳をじっと見つめる自分は、きっと怪物みたいに映っている。
「好きだ」
愛している、という言葉がひどく歪で、でもなぜか切実な響きを持って彼女の耳に届くことを、ディートハルトは祈りにも似た感情で口にした。
「わたしには、そんなことできませんわ」
彼女の言う通りだ。こんな小さな手で、細い腕で、弱い力で、自分を殺せるはずない。それでもディートハルトは、イレーネに心臓を握られているような気がした。そして彼女になら、別に殺されてもいいと思う自分がいた。
(国王陛下も、父上も、なぜ死ななかったのだろう)
マルガレーテの母親を愛し、異母弟を何より大切な存在だと思っていたならば、それを失った時点で、生きている意味などないだろうに。一緒に死んでしまえばよかったのに。それともイレーネの父親のように、託された願いがあったのだろうか。だから、死んだように生き続けたのだろうか。
――もしかすると本当は、愛していなかったのかもしれない。
だってディートハルトは、イレーネを失ったらもう生きるのが馬鹿らしくなってくる。名誉や金も、ただの虚しい飾りでしかない。
だから、彼女が殺したいほど自分を憎んでいるのなら、彼女を失ってこの世界を生きるくらいなら、彼女の手によって殺されてもいいと思った。いや、どうせ死ぬなら彼女の手で終わらせてほしかった。
(きみが望むなら――)
「あなたはとても酷い人……でも……」
グレイの瞳が潤んで、ディートハルトの目元に涙を零した。正妻から虐待を受けていた時は声が枯れるほど泣き叫んでいたというのに、いつの間にかディートハルトは泣けなくなっていた。泣き方を忘れてしまった。
だから頬へと落ちてきた涙が、なんだか慈愛の雨のように感じた。
「あなたはあの子の……あの子たちの父親だから……だから、殺したいなんて、思いません……」
自分には守る力がない。だから、ディートハルトの力が欲しい。そのために生きるのを許す。そう、言われた気がした。
「あの子たちを、大切にして……あなたの、できる限りでいいから……」
自分を見つめる彼女の瞳は美しかった。弱いのに、強く思えた。
「――わかった」
イレーネの子どもでも、ディートハルトの胸に何か特別な感情が芽生えることはなかった。むしろイレーネを取られたようで、嫉妬すらあった。男だったら、すぐに引き離していただろう。
だが彼女が大切にしてほしいと望むなら、――できるかわからないが、大切にしようと思った。
ディートハルトの言葉に、イレーネはまた困ったように微笑む。再会した時は水仕事で荒れていた手も、今は傷一つない。柔らかで、ディートハルトのように人を傷つけたことも、殺したこともない綺麗な手だ。その指先が首からそっと離れて、また頬を撫でていく。
自分を見下ろす目に、憎しみや怒りはない。嫌悪も、ない。では好意があるかというと、それもたぶん違う。ただ、諦めたような、憐れむような、ありのままの自分を受け入れる感情が、そこには見えた。
「イレーネ……」
ディートハルトはそれで満足するべきなのだろう。散々酷いことをした自分にこうして微笑んでくれるのだから。これ以上望めば、罰が当たる。わかっている。だが――
(俺はまだ、きみが欲しい……)
憐憫ではなく、別の感情も向けてほしい。初恋の相手に捧げたような純真さが欲しい。何の取り柄もないのに、全てを捨てて一緒に生きようとした献身さが欲しい。
死んでもなお想い続けられるハインツが羨ましくて仕方がない。
手に入ると、今でも思っている。でも、彼女を抱く度に、一緒にいる時間を重ねていくにつれて、まるで遅効性の毒のようにじわじわと手足を痺れさせ、身体中を搦めとられていく気がした。もどかしい。手に入れているのに、掴めない。――いいや、掴んでみせる。
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「好きだ」
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