わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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ディートハルト

29、救われる

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 マルガレーテはその後、大人しく帰っていった。王太子が早く帰ってくるよう催促したこともだが、彼女にも何か心境の変化があったのか、もうこちらにはあまりいたくないようであった。

 ディートハルトは理由を特に知りたいとも思わず、それよりもここ数日イレーネの体調がよくないことの方が気がかりであった。彼女は何でもないと言ったが、きちんとした医者に診てもらったところ――

「妊娠していらっしゃるようです」

 医者からそう伝えられ、ディートハルトは本当かと確認した。間違いないと言われ、体に負担をかけないよう、しばらくは性行為もしないよう注意を受けた。

(子ができた)

 何度も孕ませたい、と思っていただけに、ディートハルトは単純に嬉しく思った。そしてほら見ろ、という気持ちにもなった。

「何にせよ、おめでとうございます」

 医者が一緒に聞いていたイレーネにもそう言って祝福する。彼女は呆然とした様子で、ディートハルトの子を身籠るとは思いもしなかったという顔をしていた。

「イレーネ。しばらく侍女の仕事は休んで、ゆっくりしているんだ」

 彼女はディートハルトの言葉にも、微かに頷いただけであった。

 それから屋敷は、新しく生まれる子どものことで使用人含めみなどこかそわそわして、心落ち着かぬ様子であった。普段イレーネを世話をするメイドたちは子どもができることを待ち望んでいたのか、産婆と、赤ん坊を世話する乳母を誰にするか、出産部屋の準備に、洗礼を受ける際の絹の産着と金の布を用意しなくてはと、やる気に満ち溢れた表情で話していた。

 家令も今まで以上に奥様の体調に気を遣うよう使用人たちに命じ、あまり関係のない庭師までおめでとうございますと声をかけてきたので不思議に思った。

 エミールとヨルクも自分たちに弟か妹ができるのだと知り、嬉しそうに、どっちかなと言っていた。

 ただ一人、イレーネだけがどこかぼんやりとしていた。

「――大丈夫か」

 イレーネはエミールを産んだ時はどうか知らないが、今回はかなり悪阻で苦しんでいた。

「辛いなら吐いてしまえ」

 口元を押さえ、苦しげにしゃがみこんだイレーネの背中をディートハルトはそっと擦った。吐き気も辛いが、吐いてしまうとそれも体力を消耗して嫌なのか、彼女は微かに首を横に振った。

「お母さん、大丈夫?」

 エミールもヨルクも、おろおろした様子でこちらを見ていた。ディートハルトは使用人に水を持ってくるよう頼み、イレーネを寝室へと運んだ。彼女はぐったりとした様子で、さるがまま、横になった。窮屈なドレスを楽にさせてやり、メイドが持ってきた水を飲ませてやる。

 他に何かしてほしいことはあるかと尋ねれば、黙って首を横に振られる。

「しばらく、一人にさせて……」
「わかった」

 言われた通り、寝室を後にすると、部屋の外でエミールたちが心配していたので、しばらくそっとしておいてあげるよう伝えた。

 数時間後、静かに部屋へ入り寝台の縁に腰かけて彼女の様子を伺う。あれから眠ってしまったようで、それでも苦しいのか、硬く目を瞑り、目尻には涙を浮かべていた。それをそっとディートハルトは指先で拭ってやった。

 彼女が苦しんでいるのは、決して悪阻だけのせいじゃない。憎んで、愛してもいない男の子どもを孕んでしまったショックや、ハインツを裏切ってしまったような気持ちを抱いて苦悩し、自分を責めているのだろう。

「イレーネ……」

 彼女なら自分の子でも愛せると思っていたが、やはり今度ばかりはだめかもしれない。それでも構わない。傷つけず、成人まで面倒を見てやれば、役目は果たしたことになる。

 ディートハルトは残酷にも、そう思っていた。

 彼はなるべくならイレーネのそばについていてやりたかったが、騎士団を放っておくこともできず、またグリゼルダから面倒な仕事を押し付けられてなかなか家へ帰ることができずにいた。今回はさすがにグリゼルダもディートハルトに……ではなく、イレーネに悪いと思ってか、「悪いわね」と一言謝ってきた。

「でもおまえがいない方がかえって気持ち的には楽かもしれないわよ」

 とも付け加えられたが。

 とにかく急いで面倒事を片付け、ようやく屋敷へ帰ることができた。出迎えたエミールから、「お母さんのお腹、もうずいぶんと大きくなったんだよ」と教えられ、急いで寝室へと向かう。

 留守の間、彼女の容態を逐一報告させていた。それでも、ずっと気がかりであった。自分よりもはるかにか弱くて、一人で生きていくことのできないイレーネは、追いつめられて、いつの間にか消えてしまっているのではないかと思って……。

 ほんの少し開いた扉から小さな、囁くような声が聴こえてきた。イレーネの声だ。彼女は窓際の椅子に座って、以前よりも膨らんだお腹を優しく撫でていた。弄んで捨てて、また無理矢理連れ戻して抱いた、憎くてたまらない、ディートハルトの子どもを。

 困ったように、でも愛おしそうに。

 その表情を見た瞬間、気づけばディートハルトは後ろからイレーネを抱きしめていた。そして――

「――すまなかった」

 自然と、そう口にしていた。

 自分でも、なぜそう言ったかわからない。でも、気づいたら言葉にしていた。説明のできない感情が胸の奥を締めつけ、苦しくも、手放したくない痛みに思えた。

 イレーネはディートハルトの言動に硬く身体を強張らせていたが、やがてゆっくりと身体の力を抜いて、彼の方を見ないまま、許すとも、許さないとも言わず、ただそっと、抱きしめていた彼の手をそっと自身のお腹へと導いた。ここに宿っている命を感じるように。

 そうして長いこと、二人は何も話さず、互いの温もりを感じるように寄り添っていた。

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