わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

文字の大きさ
上 下
98 / 116
ディートハルト

21、マルガレーテ 可哀想な運命

しおりを挟む
 それからマルガレーテは今まで屋敷で慎ましやかに夫の帰りを待っていたのと違い、積極的に夜会に参加するようになった。ディートハルトが出席できなくても、夫の顔を立てるためだと一人で登城した。

 そんな彼女の変化を、ディートハルトは妻の献身として微塵も疑わず、理解ある夫の振りをして見送った。

「マルガレーテ様が社交界に顔を出してくださるようになって、ずいぶんと華やぎましたわ」
「ええ。ドレスも毎回素敵で……」

 夫人たちの会話に耳を傾けながら、ふと、気分が悪くなったので少し席を外してくると輪から外れる。その時を待っていたかのように異性から話しかけられるが、侍女や従者がすかさず盾となり、マルガレーテは廊下で待機していた身なりのいい男に付き添われて、部屋まで案内される。扉を開けて部屋へ入ると――

「ああ、姫! お会いしたかった……!」
「殿下……!」

 隣国の王太子はかき抱くようにマルガレーテを己の胸の中に閉じ込めてきた。爽やかでほんのりと甘い香水の香り。ディートハルトよりも細い身体つきではあったが、自分を強く抱きしめる力は夫に負けないくらい強く――愛おしくてたまらない感情が伝わってくる。

「あなたに会えない間、とても苦しくてたまらなかった」

 自分の頬をなぞる指先も、切なく狂おしい眼差しも、すべて、マルガレーテの心を欲している証だ。

「ええ、殿下。わたくしも……」
「殿下ではなく、名前で呼んでくれ……せめて今、この時だけでも……」
「殿下、でもそれは……許されませんわ。だってわたくしはすでにあの人の妻で、あっ……」

 マルガレーテの唇が塞がれ、戯れの抵抗でさらに相手の欲望を煽ると、寝台へと連れて行かれた。あとはもう、いつもと同じだった。

 王太子とマルガレーテは道ならぬ恋にあっという間に溺れていった。マルガレーテは彼と会う度、深く心が満たされていくのを感じた。飢えた大地に雨が降り注ぐような、枯れ果てた泉に命の水がまた湧き出る気持ち。

 王太子が滞在している間、それまでの恋だと二人は言い聞かせながら、隣国から帰国を促されると、王太子は何かと理由をつけて帰るのを延ばした。もうこれ以上は留まることを許されないと強制的に帰らされる日になって、彼はマルガレーテに告白した。

 ――このままあなたと別れたくない。私のものにしてしまいたい。

 マルガレーテはその告白に胸を打たれ、しかしだめだと悲しみに暮れた顔で断った。なぜなら自分はすでにディートハルトの妻で、子どもまでいる身なのだから。

 王太子は激しい嫉妬に駆られながら彼女を抱きしめる。そして絶対にあなたを自分のものにしてみせると誓うのだった。

 そしてそんな彼らに救世主が現れた。異母姉であり、今やこの国の女王であるグリゼルダだ。彼女は自分の即位を認め、同盟を結ぶならば、マルガレーテを離縁させてあなたに嫁がせてもいいと王太子に持ちかけた。

 王太子は一も二もなく頷いた。本国へ一度相談するべきだと彼の従者たちは止めたが、そうすればマルガレーテの罪を夫に打ち明けるというのだから、彼女の名誉のためにも断る選択肢は王太子にはなかった。

 マルガレーテはそんな彼にまた胸を打たれ、どうしようもなくときめいた。

 条件を呑んだ王太子に、グリゼルダは微笑んだ。姉はそれまでの厳しい眼差しを和らげ、慈愛の目でマルガレーテに言った。これで幸せになれるわね、と。

 だからマルガレーテは、これは自分の願いを叶えるために姉が考えてくれたことなのだと、深く感動した。

「ありがとう、お姉様」

 声を震わせてお礼を述べるマルガレーテに、グリゼルダはなぜかこちらこそ、と返すのだった。どういう意味が込められているか深く考えず、きっと自分の幸せが姉の幸せなのだろうとマルガレーテは思った。

「――王太子と、結婚……?」

 事情を聞いたディートハルトは妻が奪われることに憤りを覚え、しかし王命とあれば逆らうこともできず、どうすればいいか途方に暮れた顔をした。

「一体陛下は何を考えているんだ……」
「ディートハルト。わたくし、隣国へ嫁ぎます」
「しかし……」
「お父様たちがこれまで築き上げたこの国を、お姉様の治世を、わたくしも王女として、守りたいの。だから……」

 最後まで言葉にせず、マルガレーテは涙を流しながら夫に抱き着いた。別に彼女は演技などしているつもりはなく、本当に自分が国のために王太子に嫁ぐのだと今では思っていた。

「ああ、マルガレーテ……どうか不甲斐ない夫を許してほしい」
「ええ、許すわ……」

 実際マルガレーテにディートハルトを責める気持ちはこれっぽっちもなかった。だって自分は夫にしか許してはいけない行為を王太子と何度もしてしまった。だめだと思っても、彼の情熱に悶え、マルガレーテは罪悪感を抱いていたのだ。

 だがそれもディートハルトと離婚して、王太子の妻になってしまえば、何の問題もない。過去の罪は許される。いいや、そもそも自分は何も犯していないことになる。

 ゆえにマルガレーテはディートハルトのことを恨むどころか、深く感謝していた。そして自分を行かせたくないと抱きしめる彼に、ふと昔の情熱を思い出し、胸が甘く締めつけられた。自分はもう王太子のものになってしまう。ディートハルトに抱かれることはない。そう思うと何だかとても口惜しく思えて――

「ねぇ、ディートハルト。最後にあなたの妻として抱いてほしいの……」

 潤んだ目で見上げれば、ディートハルトは拒まず、自分の願いを願えてくれた。

 夫とはもう会えない。国の平和のために引き離され、別の男に抱かれる運命。それが自分の人生だと思ったマルガレーテはひどく自分が可哀想で――興奮した。今までよりもずっと激しく乱れた。

 だから――これでやっと問題が片付いた。やっと、が手に入る。そう、ディートハルトが心の中で思っていることにも、その目がもはや自分を全く映していないことにも、当然気づかなかった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

【完結】365日後の花言葉

Ringo
恋愛
許せなかった。 幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。 あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。 “ごめんなさい” 言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの? ※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

姉の婚約者であるはずの第一王子に「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」と言われました。

ふまさ
恋愛
「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」  ある日の休日。家族に疎まれ、蔑まれながら育ったマイラに、第一王子であり、姉の婚約者であるはずのヘイデンがそう告げた。その隣で、姉のパメラが偉そうにふんぞりかえる。 「ぞんぶんに感謝してよ、マイラ。あたしがヘイデン殿下に口添えしたんだから!」  一方的に条件を押し付けられ、望まぬまま、第一王子の婚約者となったマイラは、それでもつかの間の安らぎを手に入れ、歓喜する。  だって。  ──これ以上の幸せがあるなんて、知らなかったから。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

婚約者を想うのをやめました

かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。 「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」 最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。 *書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。

不遇な王妃は国王の愛を望まない

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。 ※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷 ※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲

幼馴染がそんなに良いなら、婚約解消いたしましょうか?

ルイス
恋愛
「アーチェ、君は明るいのは良いんだけれど、お淑やかさが足りないと思うんだ。貴族令嬢であれば、もっと気品を持ってだね。例えば、ニーナのような……」 「はあ……なるほどね」 伯爵令嬢のアーチェと伯爵令息のウォーレスは幼馴染であり婚約関係でもあった。 彼らにはもう一人、ニーナという幼馴染が居た。 アーチェはウォーレスが性格面でニーナと比べ過ぎることに辟易し、婚約解消を申し出る。 ウォーレスも納得し、婚約解消は無事に成立したはずだったが……。 ウォーレスはニーナのことを大切にしながらも、アーチェのことも忘れられないと言って来る始末だった……。

処理中です...