わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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ディートハルト

13、落ちぶれた男爵

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「今さら公爵閣下が何の御用ですか」

 久しぶりに男爵家を訪れたディートハルトは以前とは何もかも変わり果てた屋敷内に驚いた。それは荒れ果てた庭や掃除の行き届いていない、暗くじめじめとした室内の空気だけでなく、男爵の生きているようで死んだような姿にも言えた。

「イレーネに会いにきた」

 テーブルに肘をついて、こちらを見ようともしない男爵の身体がぴくりと反応した。

「はっ、散々傷物にして、手酷く振った男が今更儂の娘に会いにきたと? それはそれは……妖精のように可憐で美しい王女様に飽きて、家の娘で気分転換でもしようっていうんですか」

 自分の言葉に男爵は途中から興奮してきたのか、酔っ払ったような口調でディートハルトに突っかかってくる。ディートハルトはそれを無視して、男爵をじっと見つめた。

「とにかく、会わせてほしい」
「ああ、会いたいなら、会えばいい。自分で探し出せるものならな!」

 どういうことだと尋ねれば、男爵は嗤った。

「家を出て行って、行方知れずになっているんですよ」

 ディートハルトはそこで初めて、イレーネが家出したということを知った。

「あの薄汚い野良犬が儂の娘を攫っていたんだ」

 ハインツとの婚約を解消されたイレーネは、駆け落ちするようにこの家から姿を消した。周囲からの反応を誰より気にする男爵は使用人たちに緘口令を敷いて、醜聞を漏らさぬよう今まで努力してきたという。おかげで、ディートハルトも今の今まで知ることがなかった。もし、知っていたら――

「相手はハインツと決まっているんですか」
「あいつしかおるまい! 儂に土下座までしてイレーネに会わせてくれと頼んだ男だからな! 往生際が悪く、薄汚い欲望で娘を奪い去ったのだ!」

 父親の言い分では、あくまでもハインツがイレーネを唆して、無理矢理彼女を連れ去ったと言いたげであったが、ディートハルトは違うだろうと思った。

 いくら連れ去るにしても、本人が激しく抵抗すれば途中で誰かが気づくはずだ。それともハインツが屋敷の者に手引きさせて、イレーネに眠り薬でも仕込んで連れ去ったのか? いや、それもしっくりこない。ここの使用人はみな主である男爵を恐れている。金を積まれても、引き受ける可能性は低い。そもそも、ハインツの実家、ブレット家には金がない。いろいろ考えても、彼の一方的な計画では成し遂げられない。とすると――

(彼女は自分から、ハインツの手を取ったんだ)

 あんな男のために。

 ユリウスのような男なら、まだわかる。だがよりによってハインツみたいな男にイレーネは自分の一生を捧げようとした。血迷ったとしか思えない。自分に捨てられて、弱っていた。だから簡単に絆された。そうでなければ、おかしい。納得できない。

「――連れ戻しましょう」

 ディートハルトの言葉に男爵は胡乱な目を向ける。そして自分の顔を見て、「断る」とすげなく却下したのだった。

「娘さんを取り戻したくないんですか」
「貴様の力を借りるくらいならば、一生見つからない方がマシだ」
「なぜ」
「なぜだと……?」

 ダンっとテーブルを叩き、椅子を後ろに倒しながら男爵は立ち上がった。老いた顔を真っ赤にさせてつかつかとディートハルトの方へ近づいてくる。

「なぜ? それはこちらの台詞だ。貴様は一体全体何の魂胆があって今さら儂らに関わるんだ。これ以上我が家を不幸に陥れて、何が欲しいっ、何が愉しいっ……!」
「彼女とやり直したい」

 ディートハルトは男爵の剣幕に微塵も動じず、簡潔に答えた。そのあまりに堂々とした口調と態度に、男爵はしばし唖然とした様子でディートハルトを見ていた。だが何かがぷつりと切れたように「ふざけるなっ!」と胸倉を掴まれた。

「貴様の方から捨てておいてっ、やり直したいだとっ!? ふざけるのもいい加減にしろっ! この悪魔め! 貴様と関わったせいで娘の人生は狂ったんだ! だからあんなハインツのようなろくでもない男に誑かされて駆け落ちなどという馬鹿な道を選んだっ! これまで育ててやった父親を、儂を捨てて母親と同じことをっ……!」

 貴様のせいだっ、と男爵は唾を飛ばす勢いでディートハルトを激しく詰った。自分のことは棚に上げて他人に責任をなすりつける態度や、妻に裏切られた過去のトラウマを今度は娘にされて絶叫する様は見るに堪えない姿であったが、人間らしい一面でもあると思った。

 だがすえたような臭いで迫られるのは不快であったので、手首を掴み、動きを封じた。苦痛に歪んだ顔を晒しながら、なおも男爵は悪態をついてきたので、ここまでくると内心感心する。

「貴様は正真正銘の悪魔だっ」
「その悪魔をこの家へ招き入れたのは他でもない貴殿だろう」

 図星を指されて一瞬黙り込むも、手を離せと男爵はディートハルトを突き飛ばし、ふんとそっぽを向いた。

「貴様の性根がそんなにも最悪なものであったならば、絶対に近づかんかったわい」

 他の者をイレーネの婿にしていたと言われ、そうした方がよかっただろうとディートハルト自身も思ったが、もはやどうにもならない。

 自分はもう、イレーネに出会ってしまったのだから。

「イレーネに会いたいと思っているのは、私だけではないはずです」

 あなた以外にも、と言ったところでぎろりと睨まれる。これまでで一番殺気立った雰囲気を感じるのは、相手が自分の妻だからだろうか。

「どこであいつのことを聞いた」
「有名ですよ。それに昔、イレーネが話してくれましたから」
「ふん。野良犬のようにこそこそ嗅ぎまわりよって」

 男爵がこんなにも荒れたのは、イレーネの母親が病で倒れてしまったことが一番の要因といえた。いろんな医者に診せているが、少しでも安静にさせて寿命を長くするしかないと言われている。

「夫人は娘に会いたいのではないでしょうか」
「あいつの気持ちを知ったように代弁するな」
「イレーネも、母親に対してそう思っているはずです」

 死にかけの母親の頼みは、優しい彼女ならば断れるまい。

「……貴様は本当に最低な男だな」
「ええ、否定はしません」

 自分は今までずっとこうやって生きてきた。今さら過去の生き方を改めて全うに生きることができるものか。

「彼女を探すお手伝いをします。これまでに探した場所を教えてください」

 ディートハルトの伝手で王宮の名医を紹介することも告げれば、ずっと黙っていた男爵はやがてため息をついた。どうあってもディートハルトに協力するしかないと諦めた表情を浮かべて。

「イレーネがここへ戻ってきたとして、貴様は一体どうするつもりなんだ」

 探索に当たった地域を述べて、最後にこれだけは聞かずにいられないと男爵は尋ねてきた。

 ディートハルトは王国内の地図から顔を上げる。

「彼女とやり直します」
「娘を愛人にでもするつもりか?」

 いいや。そんなことしたら、国王の二の舞になるだろう。マルガレーテは人を憎むことなどしない心優しい娘だが、それは今まで彼女がそうした感情を抱かず、恵まれた環境で育ってきたからだ。

 自分が蔑ろにされ、不当な扱いを受けていると知れば、彼女も嫉妬や憎悪を知ることになる。ディートハルトの異母弟がそうだったように。憎しみを晴らすために、人は残酷さをむき出しにする。

 そうしないと、生きていけないのかもしれない。

 いずれにせよ、そんな面倒で厄介なことを引き起こすつもりはなかった。

 ただ穏便に、自分から離れるよう仕向けるだけだ。

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