わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

文字の大きさ
上 下
87 / 116
ディートハルト

10、違和感

しおりを挟む
 グリゼルダの言葉に思うところがなかったわけではないが、だからといってマルガレーテとの婚約を解消する選択肢はディートハルトにはなかった。そんなこと今さら認められないし、あんなに苦労して手に入れたのにやっぱりやめるなど、馬鹿な人間がやることだと思った。

 ディートハルトはマルガレーテとの幸せを噛みしめたかった。そしてそれは彼女も同じであった。

「ディートハルト。わたくし、街に行ってみたいわ」

 王都へ連れ戻されて以来、マルガレーテはほぼ監禁状態で城から出たことがなかった。過保護な父親が何かあったらいけないと許さなかったのだ。だから彼女が外の景色を見てみたいと思うのは当然の願いであり、ディートハルトは何としてでも叶えてやりたいと思った。

 彼は自分がついていること、そして他にも数名の護衛をつけることで国王を説得し、マルガレーテを外へ連れ出すことができた。

「わぁ、すてき!」

 彼女は子どものように無邪気に喜んでくれた。そんな彼女が微笑ましいと、ディートハルトも頬を緩ます。

「あ、ディートハルト。あれは何かしら?」
「ああ。あれは――」

 マルガレーテに近づくために夫人にあちこち連れ回されたことはある。だがそんなものはただの仕事で、愛しい人との逢瀬は初めてだった。――イレーネとも、しなかった。

 風の噂で、というより噂好きの宮廷人たちから聞いた話によると、彼女はブレット伯爵の息子と婚約を結んだらしい。その名前はディートハルトも聴いたことがあった。遊び人の放蕩息子。ろくな人間ではない男が、イレーネの次の婚約相手。まさに自分とは何もかも劣る存在に、中には同情する者もいた。

 ディートハルトも可哀想だと他人事のように思ったが、屑のような人間が相手であることに心が落ち着いていた。真面目で、善良な人間でなければいい。そう、ユリウスでなければ――

 ふと、視線を遠くから感じた。顔を上げる。目を向けた先に、あっ、と言いたげな表情をした女が見えたかと思うと、すぐに視界から消えた。

(今のは……)

「姫。少し、ここでお待ちください」
「えっ、ディートハルト?」

 待って、という声は聴こえていなかった。

 ただ彼女を追いかけていた。捕まえなくてはと思った。

(どこだ。どこにいる)

 自分は焦っていた。なぜこんなにも激しい焦燥感に突き動かされているのかもわからなかった。でも、早く、早くしないと彼女を――奪われてしまう。

「ディートハルト!」

 しかし、彼女を見つけることはできなかった。その前にマルガレーテがディートハルトに追いついて、手を取ったから。

「どうしたの、急に?」

 心配そうな顔で、自分を見上げるから。愛する人にそんな顔をさせてはいけなかった。愛しているのならば、彼女を優先しなければならない。自分が愛しているのはマルガレーテだから。

「……心配させて、申し訳ありません」

 もう戻ろうと、マルガレーテを促した。彼女は理由を述べなかったディートハルトに納得がいかなそうであったが、彼が自分のもとへ帰ってきてくれたので、もう二度とどこへも行かないよう、身体を寄せて手を繋いだ。

 恋人の真似事――実際婚約者だから何らおかしくないのに、どこか違和感を覚えつつ、ディートハルトは指を絡ませ、微笑んだ。ひどく名残惜しげな、引き返せという心の叫びを無視して、彼はマルガレーテとの逢瀬を楽しんだ。

「――ハインツ・ブレットのことを、調べてほしい」

 気づけば、ディートハルトは信頼できる部下にそう頼んでいた。もちろん周りにもばれないようにだ。なぜここまで気になるかはわからなかった。深い意味はない。ただ、何となく気に入らないだけだ。

 しかしハインツがブレット伯爵から勘当されたという話を聞くと、すぐに調査を打ち切った。メルツ男爵は役立たずの婿を大事にしてやるほど善良な性格はしていない。イレーネとの婚約も破談にするだろう。

 父親に従順なイレーネも、言われた通りにするはずだ。自分の時だってそうだったから。二度も婚約が上手くいかなくて、しばらくは男爵も娘をそっとしておくかもしれない。いや、あの男のことだから、すぐ別の人間を用意するだろうか。

 だが今度はそう簡単に相手は見つかるまい。処女ではない娘と知って、若い男は嫌厭するだろうし、そうなると年老いた男の後妻になるか……いずれにせよ、ろくな男に嫁ぐしかなくなるだろう。

 さすがに男爵も娘をそんなところに嫁がせるのは渋るのではないか。いちおう彼女は愛しい女の一人娘であり、大事な駒の一つなのだから。

 ディートハルトはイレーネがこの先辿るであろう未来をいろいろと考えていた。彼は自分でも気づいていなかった。もはや自分には関係のないことなのに、あれこれと思考を巡らせていることに。無駄な時間なのに考えてしまうのは、イレーネが自分のものになる未来を、無意識に求めて探していたから。

 ――後から振り返れば、自分はイレーネを手放したくなかったのだ。他の男などに渡したくないと思っていた。

 でもこの時はまだ、その事実に気づこうとしなかった。

 そしてある日、ふと城の自室で目が覚めた。まだ外は暗く、日も出ていない。もう一度寝ようと思っても、嫌な感じ――虫の知らせとでも言うべきか、何か急き立てられるような胸騒ぎを覚え、ディートハルトは着替え、外へ出た。

 敵に寝床を襲われかけた時や、命の危機に瀕した時に感じる類の違和感とも言うべき直観を、ディートハルトは信じている。これのおかげで今まで自分は生きてこられたから。

 馬に乗り、街へとおりて、外へと繋がる門へ走らせる。商人たちが他の街まで商品を運ぶための荷馬車がずらりと並んでおり、それを護衛するための騎士たちがそばについている。珍しい光景ではない。見慣れた光景だ。

 だがディートハルトは護衛の中に、グリゼルダの騎士たちがいることが気になった。呼びとめ、質問する。相手は特段慌てた様子も見せず、淡々と受け答えした。

「これは内密にしてほしいのだが――近々、殿下の縁談を正式に決めるので、そのための贈り物でもあるそうだ」

 なるほど、とディートハルトは国王の顔が思い浮かんだ。彼はマルガレーテに危害を加えるかもしれない娘を、何としてでも余所に引き取ってもらいたいと念には念を押しておく魂胆らしい。

 グリゼルダの騎士に届けさせるのも、彼女が本気で縁談を望んでいることを相手に伝えるため……彼女の意思とは無関係に、国王が画策したこと。

 そう考えれば、納得せざるを得なかった。だが最後まで、違和感は拭えなかった。いっそのこと強引にでも荷物を調べればよかったかもしれない。そう後悔しても、幌馬車はすでに遠くにあった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

【完結】365日後の花言葉

Ringo
恋愛
許せなかった。 幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。 あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。 “ごめんなさい” 言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの? ※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

姉の婚約者であるはずの第一王子に「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」と言われました。

ふまさ
恋愛
「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」  ある日の休日。家族に疎まれ、蔑まれながら育ったマイラに、第一王子であり、姉の婚約者であるはずのヘイデンがそう告げた。その隣で、姉のパメラが偉そうにふんぞりかえる。 「ぞんぶんに感謝してよ、マイラ。あたしがヘイデン殿下に口添えしたんだから!」  一方的に条件を押し付けられ、望まぬまま、第一王子の婚約者となったマイラは、それでもつかの間の安らぎを手に入れ、歓喜する。  だって。  ──これ以上の幸せがあるなんて、知らなかったから。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

婚約者を想うのをやめました

かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。 「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」 最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。 *書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。

不遇な王妃は国王の愛を望まない

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。 ※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷 ※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲

幼馴染がそんなに良いなら、婚約解消いたしましょうか?

ルイス
恋愛
「アーチェ、君は明るいのは良いんだけれど、お淑やかさが足りないと思うんだ。貴族令嬢であれば、もっと気品を持ってだね。例えば、ニーナのような……」 「はあ……なるほどね」 伯爵令嬢のアーチェと伯爵令息のウォーレスは幼馴染であり婚約関係でもあった。 彼らにはもう一人、ニーナという幼馴染が居た。 アーチェはウォーレスが性格面でニーナと比べ過ぎることに辟易し、婚約解消を申し出る。 ウォーレスも納得し、婚約解消は無事に成立したはずだったが……。 ウォーレスはニーナのことを大切にしながらも、アーチェのことも忘れられないと言って来る始末だった……。

処理中です...