わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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ディートハルト

1、約束

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 ディートハルトは正妻の息子ではなかった。産みの母親は我が子を抱く前に余所へやられたか、あるいは処分されたかもしれないが、とにかく父が正妻ではない女と作った子どもだった。だから生まれた瞬間から正妻――母の怒りを買い、物心ついた時には憎悪に滾った目で手を上げられ、虐待を受けていた。

 よくある話だが、ディートハルトの心は傷つき、恐怖で怯えた。

 父は知らない振りをした。たまに同情して助けようとしてくれた使用人たちは全員母に解雇され、結果母に従順な者だけが残って、ますますディートハルトは逃げ場を失くしていった。

 誰も助けてくれない、日々痛めつけられる生活に心が消耗していく一方、どす黒い憎悪が幼い少年の心に芽生えていく。

 自分に何の躊躇もなく暴力を振るい、暴言を投げつける目の前の女を殺したい。ただ見ているだけの使用人たちの目を抉ってやりたい。女を狂わせる原因を作った父親も、のうのうと産み落とした実の母親も、ずたずたに切り裂いてやりたいという殺意が植え付けられていった。

 でも、今の彼にはできなかった。悔しいことに少年は母よりも非力で、小さかったから。与えられる食事も、もっと食べたいのにわざと減らされて、成長を妨げようとしていた。

 そんな状況であったが、母に子どもができたことで少し風向きが変わってきた。憎い女の息子が後を継ぐのではなく、自分の息子がローゼンベルク家の正当な後継者になるという事実が優越感を与え、これまでの荒んだ正妻の心を慰めたのだ。

 もう母にディートハルトを構っている暇はなかった。生まれた赤ん坊に夢中になり、ありとあらゆる害悪から何としてでも守ってやらなくてはと躍起になった。

 その中には、ディートハルト自身も含まれていた。

 そしてちょうど良い時に彼が流行病に罹ると、移るといけないからと屋敷を追い出され、そのまま遠い土地で療養するよう命じられた。父は何も言わず、それまでの道中で何度もディートハルトは死にかけた。いっそ死んでくれればいいのにと両親は願ったことだろう。

 しかし少年は図々しくも生き延びてしまった。だがもう家へ帰ることもできなかった。ディートハルトは彼らからすれば邪魔な存在でしかなく、いらないものだったから。だから捨てられた。

「おまえは今日から家で暮らしなさい」

 ディートハルトを預かってくれたのは叔父夫婦であり、厳格な性格であったが、甥を邪険にすることはなかった。愛情を与えることもなかったが。

 彼は初めて安穏とした生活を送ることが叶ったが、なぜ自分が生きているのかわからなくなっていた。実質両親に捨てられたのだという事実も幼かった少年の心を苦しめた。世の中のすべてを恨み、しかし母の虐待を受け続けたせいか、心は未だ恐怖に囚われ、人を信じられず、心を開くことができないでいた。

 そんな時に、マルガレーテと出会ったのだ。

「あなた、とってもきれいな目をしているのね」

 ディートハルトが療養していた地域はマルガレーテの両親――辺境伯が治めていた土地で、叔父夫婦とも交流があった。ちょうど同い年くらいだからと紹介されたのが彼女だった。

 彼女はまだ十歳にも満たない年齢だったが、妖精のような可憐な容姿をしていた。澄んだ空色の瞳がディートハルトを映すなり、彼女はにっこりと微笑んだ。

「ディートハルト。一緒に遊びましょ」

 彼女は優しくて、無垢だった。ディートハルトの手を引いて、いろんな所に連れて行き、くるくると変わる表情で彼を飽きさせなかった。笑った顔は特に可愛かった。ディートハルトが怯えていると、どうしたのと心配して、手を握ったり、抱きしめてくれた。

「ディートハルトは優しい人だわ」

 何より彼女は彼の欲しい言葉をたくさんくれた。自分のことを優しいと言ってくれた。捻くれてなんかいない。怖くなんかない。ディートハルト自身も知らない一面を見つけて、決して誰かに虐められていいような、悪い人ではないと言ってくれた。

『おまえは汚らわしい子よ。あの女と同じ。育っても、人の物を横取りして、誘惑して、誑かして、破滅へと追い込む悪人に育つ定めなのよ』

 悪鬼のような顔をして自分の運命を予言した女の言葉を否定してくれた。マルガレーテがあなたは善良な人間だと言ってくれたおかげで、ディートハルトもそうだと思うことができた。

 ディートハルトはマルガレーテが好きだと告白した。彼女は顔を赤くして、はにかみながらも嬉しいと言った。自分もディートハルトのことが好きだと。彼女も同じ気持ちだとわかり、彼は舞い上がった。

「将来、俺と結婚してほしい」
「うん!」

 でも、その約束は叶わなかった。

 マルガレーテは実はこの国のお姫様で王妃が亡くなったと同時に城へ戻ることになったからだ。引き離される運命にマルガレーテは泣いた。ディートハルトも彼女を手放したくないと思った。

 ようやく得られた心の平穏が、彼女がいなくなることでまた崩れていく気がしたから。

「きみを必ず、迎えに行くから」

 実はディートハルトの方も、王都で息子の世話に明け暮れていた正妻が病気に罹って亡くなったため、再び公爵家に引き取られることが決まった。上手くいけば、またマルガレーテに会えるかもしれない。

「ええ、必ず会いにきて。ずっと、待ってるわ……」

 目に涙をいっぱい溜めて、マルガレーテはディートハルトに抱き着いてきたので彼は精いっぱい抱きしめ返した。

 幼い二人は努力すれば、想い続けていれば、必ずまた一緒になれると信じた。

 そしてそれは、実際実現した。ディートハルトのマルガレーテさえ手に入るなら、他はどうなってもいいと構わない考えによって。

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