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75、初恋の人
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イレーネは取っ手を回して、前へと押していた。扉が開き、一歩前へと進み出る。自然と放された腕から逃げ出して、扉の外でユリウスと向き直った。
「いいえ。それはできません」
「……死んだ夫には許せても、俺には許せないのか」
「夫だから、許したのです」
ハインツを愛しているから。彼と一緒に生きようと決めたから。前へ進むために、逃げる道を選んだのだ。
「ユリウス様はきっと逃げても、逃げられない。今よりも、ずっと苦しくなるだけですわ」
そんなことはないと言いたげであったが、何も言わないということは、彼だって本当はわかっているはずだ。イレーネは途方に暮れたように佇むユリウスの手を取り、両手で包み込んだ。
「あなたは、真面目で優しい人だから……だから戦場に残された爪痕を放って帰ってくることができなかった。孤児であるマリウスを育てた。姫様とマリウスの恋を反対することはできなかった」
初めてイレーネに声をかけてくれた時も、そうだ。
「これからも、あなたはそうあり続ける。優しい人は、ずっとそのままです。そうして生きていくのが定めなんです」
「励まされているようで、呪われているような言葉だな」
ユリウスはそう言いつつ、どこか諦めたような、それでも吹っ切れた表情で笑みを浮かべた。そうして、イレーネに導かれるようにして部屋の外へと出た。
「正直、断られるだろうとは思っていた」
「まぁ」
「だから、せめて一夜だけでも、きみと愛し合いたかった」
あの時は神に仕える戦士だったから……だから今度こそ、想いを遂げたかった。
「わたしは人妻ですわ」
「そうだな……だがきみは、あの男のことを愛しているのか?」
イレーネは微笑んで答えなかった。だがそれで何かを悟った様子で、ため息をついた。
「……きみも、俺と同じ逃げられない定めにいるんだろうな」
「そうかもしれません」
「本当に、大丈夫なのか」
心配させぬよう、イレーネはしっかりと頷いた。ユリウスはまだ何か言いたげな表情をしたが、これ以上踏み込んではいけないと思ったのだろう。グッと堪えた顔をして、わかったと言った。
「何かあったら、言ってくれ。力になろう」
「はい。ありがとうございます」
ユリウスは名残惜しそうにイレーネを見つめていたが、顔を近づけて掠めるような口づけをした。あの日恋い焦がれるように見つめ合った緑の瞳が、寂しさと優しさを込めて今のイレーネに告げる。
「さようなら、イレーネ。きみの幸せを、ずっと願っているよ」
そう言ってユリウスは歩き出した。いつかと違い、今度はイレーネが立ち止まって彼を見送る側だった。ユリウスはイレーネと同じように途中で振り返った。月明かりに照らされた彼の姿にイレーネは手を挙げた。ユリウスは困ったように微笑みながら、振り返した。
今度こそ、本当のお別れだった。
(さようなら、ユリウス様)
初恋だった人の後ろ姿を、闇夜に消えていくまで、イレーネは見守っていた。
「いいえ。それはできません」
「……死んだ夫には許せても、俺には許せないのか」
「夫だから、許したのです」
ハインツを愛しているから。彼と一緒に生きようと決めたから。前へ進むために、逃げる道を選んだのだ。
「ユリウス様はきっと逃げても、逃げられない。今よりも、ずっと苦しくなるだけですわ」
そんなことはないと言いたげであったが、何も言わないということは、彼だって本当はわかっているはずだ。イレーネは途方に暮れたように佇むユリウスの手を取り、両手で包み込んだ。
「あなたは、真面目で優しい人だから……だから戦場に残された爪痕を放って帰ってくることができなかった。孤児であるマリウスを育てた。姫様とマリウスの恋を反対することはできなかった」
初めてイレーネに声をかけてくれた時も、そうだ。
「これからも、あなたはそうあり続ける。優しい人は、ずっとそのままです。そうして生きていくのが定めなんです」
「励まされているようで、呪われているような言葉だな」
ユリウスはそう言いつつ、どこか諦めたような、それでも吹っ切れた表情で笑みを浮かべた。そうして、イレーネに導かれるようにして部屋の外へと出た。
「正直、断られるだろうとは思っていた」
「まぁ」
「だから、せめて一夜だけでも、きみと愛し合いたかった」
あの時は神に仕える戦士だったから……だから今度こそ、想いを遂げたかった。
「わたしは人妻ですわ」
「そうだな……だがきみは、あの男のことを愛しているのか?」
イレーネは微笑んで答えなかった。だがそれで何かを悟った様子で、ため息をついた。
「……きみも、俺と同じ逃げられない定めにいるんだろうな」
「そうかもしれません」
「本当に、大丈夫なのか」
心配させぬよう、イレーネはしっかりと頷いた。ユリウスはまだ何か言いたげな表情をしたが、これ以上踏み込んではいけないと思ったのだろう。グッと堪えた顔をして、わかったと言った。
「何かあったら、言ってくれ。力になろう」
「はい。ありがとうございます」
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「さようなら、イレーネ。きみの幸せを、ずっと願っているよ」
そう言ってユリウスは歩き出した。いつかと違い、今度はイレーネが立ち止まって彼を見送る側だった。ユリウスはイレーネと同じように途中で振り返った。月明かりに照らされた彼の姿にイレーネは手を挙げた。ユリウスは困ったように微笑みながら、振り返した。
今度こそ、本当のお別れだった。
(さようなら、ユリウス様)
初恋だった人の後ろ姿を、闇夜に消えていくまで、イレーネは見守っていた。
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