わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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71、父の危篤

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 ディートハルトはああ言ったが、エミールとヨルクはイレーネの帰りをたいそう喜んでくれて、べったりとそばについて離れなかった。ディートハルトは特に何も言わなかったが、夜はイレーネを手放さなかった。

 久しぶりに屋敷でゆっくりできると思ったが、ある日父の危篤が知らされた。

 突然のことに驚きつつ、急いで男爵家へ向かった。父は辛うじて生きている状態で、イレーネとエミールの顔を見ると、もう何も心残りはないというように息を引き取っていった。

 父の財産は、すべてイレーネとエミールのものとなった。そしてその知らせを聞いたからかわからないが、ハインツの実家――ブレット家がイレーネたちのもとへ訪れ、エミールを引き取りたいと申し出てきた。

 実は一度、ハインツの弟であるアドリアン夫妻には顔合わせしている。王都に戻ってきたばかりのことだ。

 まだディートハルトと正式に再婚する前のことで、アドリアンはイレーネの全身にさっと目を通すと、母子ともに伯爵家で引き取っていいと申し出た。

 しかしイレーネは彼のエミールに対する冷淡な態度や、アドリアンの妻の敵意に満ちた眼差しに丁重に辞退した。その時は、彼らも無理強いすることはなかった。

 だが今回は違った。

「あなたのお父様は、爵位をお持ちでしたが、それは一代限りのものでしょう? 我が家の正式な跡取りとなってくれるならば、伯爵家の当主となれます。それは、亡くなった兄上の望むことでもあるでしょう」

 アドリアンはさもこれはあなたたちのためを思って提案しているのだという口調で述べると、その代わり、エミールの教育方針には一切口を出さず、イレーネがこちらへ来ることも控えてほしいと条件をつけた。実質、エミールを自分たちの子どもとして世間には見られたいようだった。

 もし彼らがエミールのことを思って、好意的な態度を見せてくれたらイレーネも考えただろう。しかしアドリアンたちは以前と変わらなかった。むしろイレーネの負担を減らしてやるのだから感謝しろという高圧的な態度は以前よりも増していた。

 丁重に断ると、正気かとアドリアンはイレーネに考え直すよう言葉を重ねたが、彼女の意思はより強固になるばかりであった。

「兄上のためにも、僕たちに預けた方がいいとは思わないのですか」

 自分たちから彼を放り出したくせによく言う。

「ええ、思いませんわ。あの人は、エミールの幸せを誰よりも願っておりましたから」

 むしろ彼らの手に委ねた方が、怒るだろう。

 それでも夫妻はまだ納得できない様子であれこれと説得を試みたが、ディートハルトが部屋へ入ってくると、分が悪いと思ったのか、渋々と帰って行った。

 ディートハルトはイレーネの隣に座ると、そっと背中に手を当ててくる。

「大丈夫か」
「ええ。大丈夫です」

 その日、イレーネたちは男爵家に泊まった。エミールとヨルクは別の部屋に。イレーネは自分の部屋で一人物思いに耽っていた。屋敷の整理や訪れた人間の対応でくたくたに疲れているはずなのに、いろいろと考えてしまい、妙に目が覚めてしまう。

 窓際に立ってじっと外を眺めていると、ガチャリと扉が開かれ、ディートハルトが静かに入ってきた。彼にも今夜は一人にさせてほしいと告げたが、イレーネが心配で様子だけ見に来たそうだ。

 近づいてきて、後ろからそっと抱きしめられる。彼はこういう時、寄り添うことを必ず忘れない。母が亡くなった時もそうだった。心が弱って、誰かに縋りつきたいと思う時を、彼は逃さない。そうすれば、イレーネの心が手に入ると思っている。

「イレーネ……」

 わかっていても、イレーネはディートハルトの温もりに縋った。弱いから。だから強い存在に守ってほしいと思った。そんなイレーネの弱さを見抜いているようにディートハルトは優しく抱いた。

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