わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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65、ヨルクの疑問

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 七日間、ディートハルトはイレーネを寝室から出さず、八日目の朝までしつこく抱いて、ようやく屋敷を後にした。

「わからないことは家令に聞くといい。外出はしても構わないが、必ず誰か付き添わせるように。実家に戻る際は、なるべくすぐに帰ってきてくれ」

 ディートハルトは他にも自分以外の者に決して身を委ねないことを――貞節を守ることをイレーネに誓わせた。

 イレーネはしばらく何も考える気になれず、死んだように眠った。ようやく帰ってきたエミールとヨルクを迎えることができたのはその次の日となった。

「――二人とも、お帰りなさい」
「お母さん。もう体調は大丈夫なの?」

 どうやら身体の調子が悪いと説明されているみたいだ。実際その通りなのだが、何とも後ろめたい。

「ええ。もう大丈夫。ごめんなさいね、昨日出迎えてあげられなくて」
「いいよ。ヨルクも一緒だったし!」

 イレーネはヨルクにも目をやり、お帰りと微笑んだ。

「ヨルク。エミールはおじいさまの家でいい子にしていたかしら?」
「……たぶん」
「ええっ、すごくいい子だったよ!」

 ひどいと騒ぎ出すエミールの元気よさとそれを上手くあしらうヨルクのやり取りにイレーネは慰められる思いだった。エミールも一週間とはいえ、離れていて寂しかったのか、甘えるように抱き着いてきて、一緒に朝食をとろうと促した。

 それからその日は一日、二人が遊ぶところや勉強に勤しむ姿をそばで見ていた。

「エミールったらこんな格好で寝て……」

 鉛筆を握りしめたまま、机に突っ伏した息子にイレーネは笑った。

「誰か呼んでこようか?」
「いいわ」

 椅子を引いてやり、抱き上げる。いつの間にかこんなに大きくなったのだと身体の重さからしみじみ実感する。

「大丈夫ですか」

 ヨルクがはらはらした様子でイレーネを見上げる。

「大丈夫。前はなかなか起きないから二階から一階まで負ぶって下りていたんですもの」

 ヨルクにはいまいち想像がつかないのか、目を丸くしていた。ふふ、とイレーネは笑いながらいつも寝ている寝台まで運んでエミールを横にさせた。

「お茶の時間になったら起こしてあげましょう」
「はい……」
「ヨルクもお昼寝する?」

 イレーネと二人きりになって気まずい思いをしているかもしれない。そう思って提案したが、ヨルクは首を横に振った。

「今眠ると、夜眠れなくなるからいいです」
「そう?」

 こくりと頷き、代わりにお願いがあると頼んできた。内心驚きながらも、嬉しくも思う。

「なにかしら」
「本を、読んでほしいんです。まだ難しいから、途中で詰まってしまって……」
「いいわよ」

 顔を輝かせ、彼は本を差し出してきた。てっきり子ども向けの本だと思ったが、大人が読むような哲学書の類だったのでびっくりした。

「こ、これを読むの?」
「はい。……やっぱりだめですか?」
「いいえ。それは構わないけれど……わたしに読めるかしら」

 ページをぱらぱら捲ると、いちおう読める文字で書いてあるみたいだ。ほっとしつつ、ヨルクの隣に座って本を見せながら読み始めた。所々意味がよく掴めず詰まってしまったが、ヨルクは黙って文字を追っていたので何とか頑張って読み進める。きりのいいところまで読み上げると、今日はもうここまででいいというようにお礼を言われた。

「こんな難しい本を読んでいるのね……すごいわ」
「そんなに難しくないって……父上が俺と同じくらいの時にはもう読み終わったって言っていました」
「そうなの? ディートハルト様ってすごい方なのね……」

 しみじみと呟くイレーネの顔を、ヨルクがじっと見つめてきたので「なぁに?」と困ったように問いかける。彼のそうした顔は、父親によく似ていた。

「父上に、何かひどいことされたの?」
「えっ」

 言葉を失うイレーネにヨルクが顔を逸らす。彼女は慌てて誤魔化そうかとも思ったが、すぐに冷静になって、どうしてと静かに尋ねた。

「……いつもエミールが帰ってきたら、すぐに玄関まで迎えにくるのに、そうしなかった。今日も、何だか元気がなくて、疲れているように見えたから」

 この子は鋭い子なんだなとイレーネは思った。あるいは――

「あなたも、父親にひどいことをされたことがあるの?」

 もしや罰と称して手厳しく躾けられたことがあったのか、だからイレーネもそうだと思ったのか――だがヨルクは違うよとあっさりと否定した。

「ただあの人、時々すごく怖くなるから……別に怒ってないんだけど、雰囲気とか、目つきとか……」

 さすが息子なだけあって、父親のこともよく観察している。

「大丈夫。何もされていないわ」
「ほんとう? なら、いいんだけど……」

 ヨルクは素直に信じてくれて、そういうところはまだまだ子どもなんだなとイレーネは安心した。

(でも、これからは気をつけよう……)

「イレーネさんは、父上と前から知り合いだったの?」

 母さんではなく、名前で呼ばれたことにヨルクの警戒心と拒絶を感じた。彼が「母さん」と呼んでくれるのはエミールやディートハルトが一緒にいる時で、それ以外は必ず使い分けている。砕けた口調も、敬語になっている時がある。

 本心ではイレーネを母親として認めていないことが伝わってきて、彼女は寂しくもあった。けれど、それが普通にも思えた。彼にとって母親とは、隣国へ嫁ぎ直したマルガレーテだけなのだから。

「……ええ」
「それって、その……どういう関係?」
「一度だけ、結婚のお話が持ち上がったの」

 目を見開くヨルクに、でもねと微笑む。

「すぐにその話はなくなったわ。あなたのお父様が、お母様と結婚することになったから」
「……母上のせいで、なくなったの?」
「それも違う。もともとあなたのお父様はお母様と結婚するつもりだったの」
「でもっ、」
「わたしとの結婚話が持ち上がったのは、政治とか商売が上手くいくかもしれないって考えた父が、もしよかったらどうですか、ってディートハルト様に相談したから。でもあなたのお父様はお母様と結婚したいからって、すぐに断られて、わたしの父も納得してくれた。その間に少し、お話しただけよ」
「そう、なの……?」
「ええ」

 とても真実を教える気にはなれず、また教えたくもなかったから、イレーネはヨルクにそう告げた。彼には両親が何の生涯もなく夫婦になったのだと思っていてほしい。引き離された経緯を思えば、なおさら強くそう思った。

「じゃあ、どうして父上はあなたを隣国まで迎えに行って、家へ連れてきたの」
「迎えにきたんじゃないわ。お仕事で隣国に来ていて、そこで偶然、わたしと再会したの。それで話をしているうちにわたしの母が体調を悪くしていることを聞いて……よかったら帰るまで護衛するとおっしゃってくれて、その流れで、今こうなったのよ」

 事実であるかのような言葉が口からすらすらと出てきた。ヨルクも、イレーネの淀みない口調にそうだったんだと納得してくれたようだった。

「でも……」
「でも?」
「ううん。何でもない。……変なこと聞いて、ごめんなさい」

 父上には言わないで、とも付け加えられて苦笑いする。

「ええ、もちろん」
「あっ、あとエミールにも」
「はいはい。あなたとわたしだけの秘密ね」
「……うん」

 ヨルクは胸のつかえが取れたように安堵した表情を浮かべた。そしてまた本の続きを読みたいと言い出したので、読んでやり、途中からはエミールのことや、イレーネのこと、ヨルク自身のことをあれこれととりとめもなく話し続けた。

 ヨルクは寡黙で難しい少年だと思っていたが、別にそんなことはなかった。エミールと同じ話したいことがたくさんある、でも少しだけこましゃくれた普通の子どもだった。

 エミールが起きると、お兄さんぶったように会話をやめて世話を焼きだしたので、可愛く思いながらイレーネもメイドにお茶を用意させるのだった。

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