わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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58、ローゼンベルク家

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 イレーネの予想よりも早くディートハルトは迎えに来た。ローゼンベルク家の紋章が刻まれた馬車はたいそう立派なもので、御者もどこか誇らしげな顔で馬の手綱を握っていた。

「きちんと帰ってくるんだぞ」

 父はよほど不安なのか、わざわざ外まで見送りにきて、イレーネたちに告げた。彼女はわかっていますと頷きながらも、ディートハルト次第だとも思った。彼はイレーネとエミールをエスコートしながら乗せると、すぐに出発させた。

 婚約時代、イレーネはディートハルトの屋敷へ行ったことが一度もなかった。結婚前だから、というのもあるが、ディートハルトが自分のテリトリーにイレーネを呼びたくなかったからだ。周囲に勘違いさせるだろうし、用事ならば城で済ませればいい。たまにイレーネの家へ足を運ぶこともあったが、それは父から招待されて渋々と付き合っていたものだ。

 いずれにせよ、今になって初めて彼の家へ行くことに奇妙な感慨と緊張感を覚えるのだった。

「うわぁ。すごく大きいねぇ!」

 歴史を感じさせる古風ある邸宅が見えてきた。玄関前にはすでに大勢の使用人が待機しており、主人の帰りを待ち望んでいた。イレーネが降りると、ディートハルトと同じように頭を下げて迎えられる。丁重に中へと案内され、立派な個室をエミールと別に宛がわれた。

「わたしもエミールと一緒の部屋で構いませんが」

 どうせ一泊したらまた実家に戻るのだ。しかしイレーネの意見はすげなく却下された。

「旦那様から奥様にはこのお部屋を用意するように、と命じられておりますので」

 奥様という呼び方に困惑する。

「わたしはまだ……」
「いずれは、この屋敷の女主人になっていただく方だと伺っております」
「……まだ、決まったわけではないわ」

 それまでは名前で呼んでくれと言えば、これまたあっさりと承諾される。ついでにディートハルトの部屋もすぐ近くだと教えられたが、イレーネはさらに気分が重くなるだけだった。

 部屋を紹介されると、エミールと合流してまた一階へ下りていき、応接間へと通される。そこで、一人の少年と目が合う。イレーネはその顔を見てぎくりとした。顔立ちがディートハルトそっくりだったからではない。子どもとは思えぬほど感情の抜け落ちた顔をしていたからだ。

「イレーネ、エミール。紹介する。息子のヨルクだ」
「初めまして、ヨルクと申します。父がいつもお世話になっております」

 エミールと同じくらいの背格好なのに、大人顔負けの態度と口調で挨拶される。

「きみがヨルク? ぼく、エミール。よろしくね」

 イレーネが戸惑っている一方で、エミールは自分から挨拶を返した。そしてさっそく一緒に遊びたいと言い出したのでイレーネは止めさせようとしたが、ディートハルトがちょうどいいから庭を案内するよう息子に言い、ヨルクはわかりましたと反論することなく、エミールにこちらですと家令のような振る舞いで外へ行くことを誘った。

「お母さん。行ってくるね!」
「迷惑かけちゃだめよ」
「うん!」

 行こう、とエミールは自らヨルクの腕を引っ張った。それにヨルクの方が驚いて、面食らった様子で部屋を後にした。

(大丈夫かしら……)

「エミールは本当に元気がいいな」

 ディートハルトは長椅子に腰を下ろし、イレーネにも座るよう促した。しかし彼女は断って窓の方へと近寄る。ガラスを贅沢に使った窓から外の景色を眺める。ちょうど、エミールがヨルクの腕を引っ張って、走っていく姿が見えた。

「あの子は……マルガレーテ様との子どもですよね?」
「そうだ。向こうには連れて行けないから、俺が引き取ることになった」

 使用人が茶を運んできて、テーブルに置く音が聞こえた。

「……ずいぶんと、大人びた子なんですね」
「そうか? 俺が小さい頃はあんなものだったと思うが……だがたしかに、少し感情に乏しいかもしれない」

 少し、ではないと思うがイレーネは黙っていた。たぶんディートハルトは貴族らしく、子育てをすべて乳母に一任してきたのだろう。家庭よりも仕事を優先する。別におかしなことではない。イレーネの父もそうだったから。ただそれを考慮しても、ヨルクの態度には不安に駆られる何かを感じた。

「母親がいてくれれば、あの子も安心するだろう」

 茶を飲みながら、何気なく呟いた彼の顔をちらりと見た。

「わたしに……あの子の母親役をさせたくて、だから隣国まで来たのですか」
「いいや。それは関係ない。あの子がいなくても、きみは連れ戻すつもりでいた」

 彼はカップをソーサーに置くと、立ち上がった。イレーネは振り返って、我慢できずにとうとう聞いてしまった。

「ディートハルト様は……どうしてわたしをお選びになったのですか」
「きみが欲しくなったからだ」

 以前もそう言われたが、何度聞いても、やっぱりわからなかった。

「好きだ、愛している、と言ってもきみは信じないだろう?」
「……ええ、信じられません」

 信じられるほどのことを、彼はしてこなかった。でも例えしてきても、イレーネは信じられなかっただろう。

「俺はきみが欲しい。だから取り戻した。これだけで十分、理由になるはずだ」

 イレーネは俯いて、黙った。そんな彼女をディートハルトは抱き寄せ、腕に閉じ込めた。彼女は身を捩ったが、抜け出せないとわかると、大人しく抵抗を止めた。

「きみがまだハインツのことを忘れられないならば、それでもいい。だが再婚はする。反対するならば、今日からここで暮らしてもらう」
「……強引だわ」

 顔を上げて非難したが、その声はあまりにも弱々しいものだった。

「きみの言う通りだが、俺は今までずっとこうして生きてきた。今さら変えるつもりはないし、変えることもできない」

 諦めろ、と顔を近づけられて口づけされた。嫌だと一度は顔を逸らして、せめてもの悪態をつく。

「あなたも、ブルーノと何も変わらない」
「そうだな。あの男と俺の違いは平民か貴族か、力があるかないか、それくらいだろう」

 後頭部を引き寄せられて荒々しく貪られる。エミールやヨルクの目に留まったらどうしようと思い、胸元を必死に押し戻そうとする。けれどできなくて、目に涙が浮かぶ。ようやく解放された時にはぐったりとしてしまい、ディートハルトのたくましい腕に抱きとめられた。

「大丈夫だ。あの子たちは庭へ行って、こちらのことなど気にもかけていない」

 耳元でそう囁くと、部屋へ行こうと彼はいつかと同じようにイレーネを抱き上げた。そして夕暮れまで彼女は彼に抱かれた。エミールはヨルクのことが気に入ったのか、食事中もあれこれと話しかけており、母の気怠い調子には気づかなかった。

 夕食が終わってもディートハルトはイレーネの部屋を訪れ、何度も彼女の中に白濁を注ぐのだった。

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