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55、子ども
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「お母さん。大丈夫?」
ぼうっとしていたイレーネを心配してエミールが母の膝を揺さぶった。馬車の中で話しかけられても、彼女はまったく耳に入らなかった。
「どうしたの?」
「……ううん。何でもないの」
「えーうそだよ」
イレーネは苦笑いして息子の小さな手を軽く握った。
「ほんと。ただ少し、懐かしくなっちゃったの」
「なつかしく?」
「そう。昔住んでいた景色が見えてきたから、ああ、帰ってきたんだなぁって」
国境を越え、いよいよ両親にも会うのだと思うと緊張してきた。
「ぼくのおじいさま、どんな人?」
「そうね……商売をなさっていて、とても仕事熱心な人だったわ」
「へぇ! かっこいいね!」
イレーネはそうねと答えた。実際、父が仕事で利益を上げていたから、自分は何不自由なく暮らせていたのだと今ならわかる。
「じゃあ、おばあさまは?」
「おばあさまは……優しい人だったわ」
正直、母に関する記憶はもうだいぶおぼろげだ。だが残っている記憶で母はイレーネを優しく見つめていた気がする。どこか寂しそうにも見えたのは、いつか我が子と別れる日が来ることを知っていたからだろうか……。
「お母さんみたいに? あ、でもお母さんは怒ると時々すっごく怖いからなぁ」
「きみの母親も、怒ったりするのか?」
それまでずっと黙っていたディートハルトが、会話に参加してきた。人見知りしないエミールは元気よくうんと肯定した。
「いつも優しいけど、いつまでも部屋を片付けなかったり、友達に意地悪して謝らなかったら、すーごく怒られた。お父さんも怖いって言ってた!」
「エミール」
なんとなく恥ずかしくて、イレーネは息子の口を塞いだ。ふがふがと話し続けるエミールに、ディートハルトは特に何も言うことはなく、イレーネへと目を向けた。
「きみのご両親に挨拶した後は、俺の家にも来てくれ」
「おじさんの家にも?」
イレーネの手を押しのけ、ぷはっと息を吐いたエミールはどうして、というようにディートハルトを見つめた。イレーネは一瞬ディートハルトが再婚のことを口にするのではないかと冷やりとしたが、彼は違うことを口にした。
「そうだ。――きみと同い年くらいの子どもがいるから、ぜひ友達になってほしいんだ」
何気なく言われた言葉にイレーネは目を瞠った。
「子どもが、いらしたんですか?」
「ああ。言ってなかったか? 今年でたしか六歳になる」
「ぼくと同じだ!」
エミールの元気な返答にディートハルトは目を細めた。
「大人しい子だから、外へ連れ出して遊んでやってくれ」
「うん! その子、なんていう名前?」
「名前は、」
会話を続ける二人の姿をイレーネは混乱して見つめる。ディートハルトに子どもがいたこともだが、まるで自分の子ではなく親戚の子でも話すような、どうでもいい雰囲気に戸惑わずにはいられなかった。
(どうしてあなたはわたしを選んだの……?)
ディートハルトに抱かれるたび、イレーネは彼のことがわからなくなる。そして今の告白でさらに彼の考えていることがわからなくなった。子どもがいるのに放っておいて、隣国までイレーネを迎えに来た。普通、そんな面倒なことするだろうか。
子連れ同士だから、ちょうどいいと思ったのだろうか。他に相手がいなかったのだろうか。
いいや、そんなはずない。彼にはうんざりするほど魅力的な女性がいた。相手には事欠かなかった。母親役を引き受けてくれる女性くらい、大勢いたはずだ。でも……だったらなぜ自分を選んだのだろう。身体の相性がいいから? それもまた、しっくりこなかった。
ただ理由もなく求められることが、一番怖い気がした。
ぼうっとしていたイレーネを心配してエミールが母の膝を揺さぶった。馬車の中で話しかけられても、彼女はまったく耳に入らなかった。
「どうしたの?」
「……ううん。何でもないの」
「えーうそだよ」
イレーネは苦笑いして息子の小さな手を軽く握った。
「ほんと。ただ少し、懐かしくなっちゃったの」
「なつかしく?」
「そう。昔住んでいた景色が見えてきたから、ああ、帰ってきたんだなぁって」
国境を越え、いよいよ両親にも会うのだと思うと緊張してきた。
「ぼくのおじいさま、どんな人?」
「そうね……商売をなさっていて、とても仕事熱心な人だったわ」
「へぇ! かっこいいね!」
イレーネはそうねと答えた。実際、父が仕事で利益を上げていたから、自分は何不自由なく暮らせていたのだと今ならわかる。
「じゃあ、おばあさまは?」
「おばあさまは……優しい人だったわ」
正直、母に関する記憶はもうだいぶおぼろげだ。だが残っている記憶で母はイレーネを優しく見つめていた気がする。どこか寂しそうにも見えたのは、いつか我が子と別れる日が来ることを知っていたからだろうか……。
「お母さんみたいに? あ、でもお母さんは怒ると時々すっごく怖いからなぁ」
「きみの母親も、怒ったりするのか?」
それまでずっと黙っていたディートハルトが、会話に参加してきた。人見知りしないエミールは元気よくうんと肯定した。
「いつも優しいけど、いつまでも部屋を片付けなかったり、友達に意地悪して謝らなかったら、すーごく怒られた。お父さんも怖いって言ってた!」
「エミール」
なんとなく恥ずかしくて、イレーネは息子の口を塞いだ。ふがふがと話し続けるエミールに、ディートハルトは特に何も言うことはなく、イレーネへと目を向けた。
「きみのご両親に挨拶した後は、俺の家にも来てくれ」
「おじさんの家にも?」
イレーネの手を押しのけ、ぷはっと息を吐いたエミールはどうして、というようにディートハルトを見つめた。イレーネは一瞬ディートハルトが再婚のことを口にするのではないかと冷やりとしたが、彼は違うことを口にした。
「そうだ。――きみと同い年くらいの子どもがいるから、ぜひ友達になってほしいんだ」
何気なく言われた言葉にイレーネは目を瞠った。
「子どもが、いらしたんですか?」
「ああ。言ってなかったか? 今年でたしか六歳になる」
「ぼくと同じだ!」
エミールの元気な返答にディートハルトは目を細めた。
「大人しい子だから、外へ連れ出して遊んでやってくれ」
「うん! その子、なんていう名前?」
「名前は、」
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ただ理由もなく求められることが、一番怖い気がした。
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