わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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50、戻って行く

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「わー! お母さん! すごいよ! ぼくたちが住んでいた町よりずっと大きい!」

 最初は自分の生まれ育った町を出て行くことに憂鬱さを見せていたエミールも、やがて旅の風景に顔を輝かせ、興奮した様子で次々と思ったことを口にする。

「エミール。きちんと席に座って。それから静かにしてね」
「はーい」

 という声はもうすでに大きく馬車の中で響き、イレーネは目の前に座る人物が何か言うのではないかとひやひやした。

「元気がいいんだな」

 しかしディートハルトは意外にもエミールの態度に寛大であった。ふと、イレーネは彼とマルガレーテの間に子どもはいるのだろうかと思った。だがこの場で尋ねる勇気もなく、エミールが好奇心からあれこれと質問する様をぼんやりと眺めていた。

 馬車から見える景色は昔、駆け落ちの途中で確かに見た風景なのだろうが、イレーネには全く違って見えた。心理的なものもあるだろうが、馬車や泊まる宿があの頃よりもはるかに立派なことも無関係ではない。

「うわー……お母さん、ここ、ぼくたちの家より立派だねぇ」

 貴族の屋敷を思わせる宿に、息子は正直すぎる感想を述べた。

「エミールったら……」

 とは言いつつ、イレーネも品のある内装や高い天井に少し緊張していた。だが同時に懐かしさも覚えた。実家や、王宮。自分が暮らしていた場所はこういう所だったという既視感。

(服、用意してもらってよかった……)

 平民の格好では逆に浮いてしまうだろうと、ディートハルトは道すがらイレーネたちに相応しい衣服を与えた。彼に借りを作るのが嫌で断ったものの、押し切られ、今周りにいる客を見ると、やはり着替えてよかったと思う自分がいる。

「今日はここに泊まろう」

 ディートハルトが宿屋の主人――家令にも見える男に部屋へと案内させる。

 急いで帰らなければならないが、国境を越え、王都までの道のりは長い。しかも子どもを連れての長旅となると、そう簡単にすぐに帰ることはできなかった。

 それでも、エミールはこの年にしては行儀のいい子どもだった。イレーネの言うことも素直に聞いてくれて、ぐずることもなかった。

(食べ方も、教えておいてよかった……)

 食堂には他の客もおり、みなそれなりに良い身なりをしており、イレーネが働いていた宿屋の食堂とは全く違っていた。出されるメニューも一品ずつ、ナイフとフォークを使う。エミールは最初戸惑った様子をみせていたが、母とディートハルトに倣って食べ始めた。

 イレーネもハインツも行儀作法にはうるさい家庭で育ったので、自然と息子にもそう躾けていた。別にもう平民になってしまったのでそこまでこだわる必要はなかったのだが……今は身につけさせておいてよかったと思う。

「美味しいか?」

 ディートハルトの言葉に、エミールはにっこり笑みを浮かべた。

「たいへんけっこうなお味でございます」

 感想までそれらしく言ってのけた息子に、イレーネも心からの笑みを零す。そんな彼女を、ディートハルトが横目でちらりと見る。

「きみも、口にあうか」
「はい」

 イレーネは彼の顔を見ぬままそう答えた。

 食事を終えると、広間の一室で聖職者の男性が美徳をテーマにした物語を人々に語り聞かせていた。エミールも聴いていきたいと、イレーネの許可を得る前に、前の方で寄り集まっている子どもたちの列に加わった。

 彼女は仕方がないとため息をついて、ディートハルトには先に部屋へ戻っていてくれるよう頼んだ。彼は自分も残ると言い出したのでイレーネは困惑する。だが入り口でまごついていると他の客の邪魔になり、押されるようにしてイレーネもディートハルトと一緒に席に着くこととなった。

 隣に座る彼の存在にひどく落ち着かず、話にはあまり集中できなかった。

 ようやく教訓を交えた語りが終わると、人々は自分の部屋へ戻り始めた。イレーネも席を立ち、エミールがこちらへ来るのを待っていた。その時だ。ディートハルトがイレーネの耳に口を寄せた。

「――今夜、エミールが寝たら俺の部屋に来てくれ」

 イレーネは彼を振り返ってまじまじとその顔を見た。彼は真顔だった。何を考えているかわからなかった。

「あの、」
「お母さん!」

 エミールの声に話はそれまでとなった。

 ディートハルトは明日も早いからそろそろ戻ろうとイレーネたちを促した。明日はどこに行くの、というエミールの問いかけに丁寧に答えるディートハルトの後ろ姿を見ながら、イレーネは自分の心臓が嫌な鼓動を立てているのがわかった。

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