49 / 116
49、お別れ
しおりを挟む
「おじいさまのところに行くの?」
「ええ、そうよ。お母さんと、お父さんの生まれ育った国。あなたのおじいさまとおばあさまもいらっしゃるの」
「へぇ!」
エミールが関心を持ってくれたことにイレーネはほっとしつつ、「それでね……」と続けた。
「もう、ここには戻ってこられなくなるかもしれないの」
「お家、帰れなくなるの?」
どうして、という無垢な瞳に胸が軋んだ。
「……おばあさまたちがね、あなたに会いたいと言っているそうなの。それで一緒に暮らすことにも、なるかもしれないから……」
ふうん、とエミールは机の上の鉛筆を転がした。息子は明日も変わらぬ日常を送ろうとしていて、今も司教から教えられた内容を復習していた。イレーネの選択は、そんな毎日をもう送れないことを意味している。
自分が選ぼうとしている道は本当に正しいのだろうか……もしディートハルトを選ばなかったとしても、いつまでも平穏な日々を送り続けることができるのだろうか……。
「お母さんも、会いたいの?」
「え?」
息子はじっと母を見つめてきた。
「お母さんも、おばあさまたちに会いたい?」
「……ええ、会いたいわ」
「わかった。じゃあ、ぼくも行く」
「エミール……」
エミールは椅子から飛び移るようにイレーネの胸に飛び込んでしがみついてきた。
「お母さんが行くなら、ぼくも行く」
だからおいていかないで、という息子の声が聴こえてくるようで、イレーネは強く抱きしめた。
「ええ、エミール。もちろんよ」
あなたがいれば、大丈夫だから。
イレーネはそう自分に言い聞かせるように思った。
イレーネたちが町を出るという話はあっという間に広がった。食堂での仕事もやめることになり、おかみさんにはたいそう驚かれたが、よかったじゃないとも言われた。
「ブルーノも真面目で悪くない男だけど、どうも嫉妬深くて独占欲が強いからね。あんたも断り続けるのが面倒だったでしょう」
どうやら彼女は彼のよくない面にもきちんと気づいていたらしい。それとも、イレーネが気づけていなかっただけだろうか……。
「あんたたち夫婦、本当はいいところのお坊ちゃんお嬢ちゃんだったんでしょう? あたしたち庶民みたいなのとつるむよりも、きちんとした人間と付き合っていく方がいいよ」
どこか突き放されたようにも感じたが、彼女に悪気はなく、同じ階級の者同士の方が上手くいくという助言でもあった。
「あの騎士様。何でもすごい方らしいじゃないの。うちで一番偉い司教様がぺこぺこ頭下げて相手していたそうだから、よっぽど偉い方なんだろうねぇってあちこちで噂になってるよ」
司教にはイレーネもハインツと駆け落ちしたばかりの頃、大変お世話になった。訳ありだった自分たちを正式な夫婦として祝福してくれたのも、彼のおかげだった。
だから、もしかしたら今回のことでも力を貸してくれるかもしれないと、イレーネは藁にも縋る思いで司教のもとへ足を運んだ。
しかし、結果はおかみの言う通りだった。彼はディートハルトのことを大変よくできた人物だと褒め称え、イレーネとエミールのことも幸せにしてくれる、ハインツもこれで安心できるだろう……とまで言われ、イレーネはもう何も言えなかった。
「しかもあれだけいい男ときたらねぇ……今頃町の女たちもみんなあんたと騎士様がどういう関係か知って、嫉妬に狂っている姿が目に浮かぶよ」
「わたしと彼はまだ……」
まだ、と言いかけてやめた。おかみが笑って、いいじゃないかと言った。
「ハインツもいい男だった。その男が惚れたあんたはいい女。いい女にまた別のいい男が惚れるのは当然ってもんだよ。自然の成行きなんだから、前の旦那に悪いなんて思う必要ないさ。むしろさっさと幸せになってくれた方が、あの世で旦那もほっとするんじゃないかね」
ハインツはそんなふうに思ったりしない。イレーネを一緒に連れて行きたいと言ってくれたのだから。
今も、幽霊でも何でもいいからイレーネの前に現れてそう言ってほしかった。
「――お嬢様。王都へ行かれるというのは本当ですか……」
「ネリー……ええ、本当よ」
そんな、とネリーは絶望したような、どうしてそんなことになったのか、と様々な感情が入り交じった表情をした。
「あなたには……あなたたち夫婦には本当に助けられた。感謝しても、感謝しきれない。本当に、今までありがとう」
「そんなお嬢様……わたしも、わたしもお供しますわ」
イレーネは微笑み、だめよと優しく断った。
「あなた、また妊娠したのでしょう? 二人も子どもがいて、夫もいる。王都に帰ることなんて、できないはずよ」
「でも……」
ネリー、とイレーネは彼女の手を握り、そっと顔を近づけて、彼女の額にこつんと触れさせた。
「遠く離れていても、もう会えなくてなっても、あなたの……あなたたち家族の幸せをずっと願っているわ」
「お嬢様……」
ぼろぼろと涙を流すネリーの頬を拭ってやりながら、イレーネは自分たちの家を彼女たち夫妻に譲り渡すことを告げた。家具もすべて、今後増える家族のために使ってほしいと。その代わり、ハインツの遺体が埋葬してある教会の墓地へ時々足を運んでほしいと頼んだ。もう、こちらへは頻繁に来られないだろうから。
いや、たぶんもう二度と帰って来られないだろう……。
(ごめんなさい、ハインツ様……)
ハインツのそばを離れるくらいなら、さっさと他の誰と再婚していればよかっただろうか。後悔しても、もうどうにもならなかった。
「ええ、そうよ。お母さんと、お父さんの生まれ育った国。あなたのおじいさまとおばあさまもいらっしゃるの」
「へぇ!」
エミールが関心を持ってくれたことにイレーネはほっとしつつ、「それでね……」と続けた。
「もう、ここには戻ってこられなくなるかもしれないの」
「お家、帰れなくなるの?」
どうして、という無垢な瞳に胸が軋んだ。
「……おばあさまたちがね、あなたに会いたいと言っているそうなの。それで一緒に暮らすことにも、なるかもしれないから……」
ふうん、とエミールは机の上の鉛筆を転がした。息子は明日も変わらぬ日常を送ろうとしていて、今も司教から教えられた内容を復習していた。イレーネの選択は、そんな毎日をもう送れないことを意味している。
自分が選ぼうとしている道は本当に正しいのだろうか……もしディートハルトを選ばなかったとしても、いつまでも平穏な日々を送り続けることができるのだろうか……。
「お母さんも、会いたいの?」
「え?」
息子はじっと母を見つめてきた。
「お母さんも、おばあさまたちに会いたい?」
「……ええ、会いたいわ」
「わかった。じゃあ、ぼくも行く」
「エミール……」
エミールは椅子から飛び移るようにイレーネの胸に飛び込んでしがみついてきた。
「お母さんが行くなら、ぼくも行く」
だからおいていかないで、という息子の声が聴こえてくるようで、イレーネは強く抱きしめた。
「ええ、エミール。もちろんよ」
あなたがいれば、大丈夫だから。
イレーネはそう自分に言い聞かせるように思った。
イレーネたちが町を出るという話はあっという間に広がった。食堂での仕事もやめることになり、おかみさんにはたいそう驚かれたが、よかったじゃないとも言われた。
「ブルーノも真面目で悪くない男だけど、どうも嫉妬深くて独占欲が強いからね。あんたも断り続けるのが面倒だったでしょう」
どうやら彼女は彼のよくない面にもきちんと気づいていたらしい。それとも、イレーネが気づけていなかっただけだろうか……。
「あんたたち夫婦、本当はいいところのお坊ちゃんお嬢ちゃんだったんでしょう? あたしたち庶民みたいなのとつるむよりも、きちんとした人間と付き合っていく方がいいよ」
どこか突き放されたようにも感じたが、彼女に悪気はなく、同じ階級の者同士の方が上手くいくという助言でもあった。
「あの騎士様。何でもすごい方らしいじゃないの。うちで一番偉い司教様がぺこぺこ頭下げて相手していたそうだから、よっぽど偉い方なんだろうねぇってあちこちで噂になってるよ」
司教にはイレーネもハインツと駆け落ちしたばかりの頃、大変お世話になった。訳ありだった自分たちを正式な夫婦として祝福してくれたのも、彼のおかげだった。
だから、もしかしたら今回のことでも力を貸してくれるかもしれないと、イレーネは藁にも縋る思いで司教のもとへ足を運んだ。
しかし、結果はおかみの言う通りだった。彼はディートハルトのことを大変よくできた人物だと褒め称え、イレーネとエミールのことも幸せにしてくれる、ハインツもこれで安心できるだろう……とまで言われ、イレーネはもう何も言えなかった。
「しかもあれだけいい男ときたらねぇ……今頃町の女たちもみんなあんたと騎士様がどういう関係か知って、嫉妬に狂っている姿が目に浮かぶよ」
「わたしと彼はまだ……」
まだ、と言いかけてやめた。おかみが笑って、いいじゃないかと言った。
「ハインツもいい男だった。その男が惚れたあんたはいい女。いい女にまた別のいい男が惚れるのは当然ってもんだよ。自然の成行きなんだから、前の旦那に悪いなんて思う必要ないさ。むしろさっさと幸せになってくれた方が、あの世で旦那もほっとするんじゃないかね」
ハインツはそんなふうに思ったりしない。イレーネを一緒に連れて行きたいと言ってくれたのだから。
今も、幽霊でも何でもいいからイレーネの前に現れてそう言ってほしかった。
「――お嬢様。王都へ行かれるというのは本当ですか……」
「ネリー……ええ、本当よ」
そんな、とネリーは絶望したような、どうしてそんなことになったのか、と様々な感情が入り交じった表情をした。
「あなたには……あなたたち夫婦には本当に助けられた。感謝しても、感謝しきれない。本当に、今までありがとう」
「そんなお嬢様……わたしも、わたしもお供しますわ」
イレーネは微笑み、だめよと優しく断った。
「あなた、また妊娠したのでしょう? 二人も子どもがいて、夫もいる。王都に帰ることなんて、できないはずよ」
「でも……」
ネリー、とイレーネは彼女の手を握り、そっと顔を近づけて、彼女の額にこつんと触れさせた。
「遠く離れていても、もう会えなくてなっても、あなたの……あなたたち家族の幸せをずっと願っているわ」
「お嬢様……」
ぼろぼろと涙を流すネリーの頬を拭ってやりながら、イレーネは自分たちの家を彼女たち夫妻に譲り渡すことを告げた。家具もすべて、今後増える家族のために使ってほしいと。その代わり、ハインツの遺体が埋葬してある教会の墓地へ時々足を運んでほしいと頼んだ。もう、こちらへは頻繁に来られないだろうから。
いや、たぶんもう二度と帰って来られないだろう……。
(ごめんなさい、ハインツ様……)
ハインツのそばを離れるくらいなら、さっさと他の誰と再婚していればよかっただろうか。後悔しても、もうどうにもならなかった。
279
お気に入りに追加
4,937
あなたにおすすめの小説
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

筆頭婚約者候補は「一抜け」を叫んでさっさと逃げ出した
基本二度寝
恋愛
王太子には婚約者候補が二十名ほどいた。
その中でも筆頭にいたのは、顔よし頭良し、すべての条件を持っていた公爵家の令嬢。
王太子を立てることも忘れない彼女に、ひとつだけ不満があった。

姉の婚約者であるはずの第一王子に「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」と言われました。
ふまさ
恋愛
「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」
ある日の休日。家族に疎まれ、蔑まれながら育ったマイラに、第一王子であり、姉の婚約者であるはずのヘイデンがそう告げた。その隣で、姉のパメラが偉そうにふんぞりかえる。
「ぞんぶんに感謝してよ、マイラ。あたしがヘイデン殿下に口添えしたんだから!」
一方的に条件を押し付けられ、望まぬまま、第一王子の婚約者となったマイラは、それでもつかの間の安らぎを手に入れ、歓喜する。
だって。
──これ以上の幸せがあるなんて、知らなかったから。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
婚約者を想うのをやめました
かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。
「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」
最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。
*書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。
不遇な王妃は国王の愛を望まない
ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。
※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷
※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる