わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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47、もう一度

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「傷の手当はしたのか」

 扉を閉めると、まずディートハルトはそう切り出した。そういえば怪我をしたのだと、イレーネは彼に会った衝撃ですっかりと忘れていた。

「もう、痛くありませんから……」
「放っておいたら化膿するぞ」

 薬はどこにあるんだと聞かれ、先に傷の手当てをすることになった。椅子に座らされ、ディートハルト自らの手で軟膏を塗られそうになったので、やや強引に彼の手から薬を奪い取って自分でやると告げた。

 彼は何も言わず、黙って立ち上がると、しげしげと家の中を見渡した。

「――三人で暮らしていたのか」

 イレーネはそうですと答えながら、塗り終えた薬を引き出しに仕舞った。そして興味深そうに狭い部屋を観察するディートハルトに座るよう促して、お茶を出した。

 彼はカップには手を付けず、イレーネをじっと見つめてくる。耐えられなくなった彼女が、先に口を開いた。

「それで、話というのは一体何でしょうか」
「きみを、ずっと探していた」

 イレーネは息を呑んだ。ディートハルトは彼女から目を逸らさぬまま、続ける。

「改めて確認したいんだが、きみが駆け落ちした相手はハインツ・ブレットで間違いないんだな?」
「……はい」
「それで、先ほどの子が、彼との間にできた子ども、エミール?」
「はい」
「ハインツが亡くなったのはいつだ?」
「一年、前です」

 何なんだろう。この時間は……。まるで本当に取り調べを受けているいみたいだ。

「では、そろそろ再婚しても問題ないな」

 イレーネは俯いていた顔を上げた。ディートハルトが射貫くように自分を見ていた。

「俺と再婚しよう」

 一瞬時が止まったように、二人の間に沈黙が落ちた。イレーネはただ困惑した表情でディートハルトを見つめることしかできなかった。

(この人は何を言っているの……?)

「冗談なら、」
「決して冗談でこんなことは言わない」

 冗談にしか聞こえなかった。

「あなたは……あなたが、わたしとの婚約を破棄なさったのでしょう?」
「そうだな」
「そうだな、って……」

 どうしてそんな平然としているのだろう。ディートハルトのせいで、イレーネがどれほど傷つき、絶望したか……。少しでも、想像できないのだろうか。

「きみを深く傷つけてしまったのは理解している。すまなかった。責任をとろう」
「ふざけないでください……!」

 あの時の裏切られた感情がまざまざと胸に蘇り、大声で、切って捨てるように答えていた。

「責任なんてとっていただかなくて結構です。申し訳ないと思っているなら、もうわたしたちのことは放っておいてください!」
「無理だ」

 即答されて、どうしてと彼を睨むように見据えた。だがその目の強さにまた怯んでしまう。

「俺はきみが欲しい。そのために、ここへ来た。言っただろう? ずっと探していたと」
「そんなの、知りません。そんなこと言われも、困ります」

 第一、

「あなたはマルガレーテ殿下のことを愛していらっしゃるのでしょう?」

 彼女の婚約者になって、だからこそイレーネを捨てた。

「王女殿下とは、どうなったのですか」
「彼女とは結婚して、別れた」
「別れた?」

 意味がわからなかった。ディートハルトは何も知らないのだなと言った。

「我が国は隣国と……この国と戦争一歩手前の険悪な雰囲気になった。それを解消するために俺と離婚したマルガレーテ殿下がこの国の王太子に嫁ぎ直したんだ」
「うそ……」

 そんなこと、あるのだろうか。イレーネはディートハルトの作り話かもしれないと疑った。しかし、ハインツが王都の治安が悪くなっていると言っていたことを思い出す。それと関係しているのだろうか。

(でも離婚って……)

 ディートハルトがあっさりとマルガレーテを手放したことが何よりも信じられなかった。彼は彼女を手に入れるためならば、どんな非道な手段も厭わなかったから。手に入れたのならば、絶対に誰にも奪われないよう大事に屋敷で囲っていると思っていたから。

(わたしがここにいる間、王都では何が起こったの……?)

「この国の実状も知らなかったのならば、自分の国のことも当然耳に入っていないだろう」

 困惑するイレーネをおいて、ディートハルトは淡々と説明を続ける。

「きみがちょうど、駆け落ちした頃だろうか。もともと聖都の奪還が思った以上の成果を上げられず、資金を提供した商人や高い税収で貢献させられた市民の間で王宮に対して不満が募っていた。そして王太子殿下が国王になると、さらなる課税を要求し、他にも悪政を敷いたことで、諸侯たちの怒りを完全に買った。それまでの過度な贅沢な生活も、乱れ切った王宮の風紀も、やり玉に上がった。聖職者の間でも、非難する者が出始めた。――特に、白の騎士団がそうだ」

 白の騎士団、と言われイレーネはユリウスのことを思い出した。イレーネの初恋の人。神に仕える模範のような清廉潔白な騎士であった。

 そんな彼らが所属する騎士団が堕落した王宮のあり方に異議を唱えるのは自然な成り行きであったように思われる。

「そこで、国王ヴィルヘルムを退位させ、自分がこの国の新たな王になることを名乗り上げる者がいた。――きみがかつて仕えていたグリゼルダ殿下だ」
「えっ――」

(姫様が?)

 しかし彼女は王女だ。王位継承権は認められていないわけではないが、過去の歴史から女性が王になることはあまりよく思われていなかった。

「民衆や、ヴィルヘルム陛下をよく思っていない者を味方につけた。白の騎士団は、そのうち最も強く、彼女の即位を支持した集団だ」

 グリゼルダは兄の周りの者を少しずつ片付けていき、孤立無援の状態に陥らせると、見事女王として即位することを周りの者に認めさせた。

「あなたが所属していた……黒の騎士団はどうなったのですか」
「女王陛下は白も黒も、一度解散させて、銀の騎士団という新たな騎士団を創設した。今度は神や王ではなく、女王に忠誠を誓う騎士団として一人一人に宣誓させた」

 今、ディートハルトは結果だけを端的に教えてくれている。その間にもっと血生臭い応酬があったはずだが、それもグリゼルダはすべて捻じ伏せ、兄や父が座っていた席を見事勝ち取ったのだ。

『イレーネ。私は、男に許されているものを、どうして女には許されていないのか、ひどく理不尽に思うの。だから……』

 いつかグリゼルダが瞳の奥に何かを秘めてそう言っていた。あれは自分が王に君臨することを意味していたのだろうか。

「しかし、国内では認められても、周辺諸国はそうはいかない。女に政治などできぬと、また自分たちの国でもそういったことが起こっては困るからと、難癖をつけて、女王を引きずり下そうとした」
「それで……戦争まで起こりうるほどの危うい関係になったのですね」

 そうだ、と彼は頷いた。

「女王陛下は親睦を深めようと、隣国の王太子を自国へ招いた。そして王宮が主催する舞踏会で、彼はマルガレーテに出会い、恋に落ちた」

 イレーネは違和感を覚えた。どうしてディートハルトはこんなにも他人事のように語れるのだろう。一時は自分の妻であったというのに……。それとも、辛い出来事だったからこそ、淡々と話しているのだろうか。

 それにしては感情を抑えた様子もない。本当に、もう終わったことだと興味のない顔をしていた。

「王太子殿下はマルガレーテを自分の妃とする代わりに、グリゼルダ陛下の即位を認め、同盟を結ぶことも承諾した。他の国も同様にして、女王の存在を知らしめているところだ」

 これで話は終えたと、ディートハルトは口を閉ざした。概ねの事情はわかった。だが、一番の問題が理解できない。

「どうしてマルガレーテ様と離婚したからといって、わたしと再婚することになるのでしょう」
「きみが欲しい、と言ったはずだ」
「……そう思う心情が理解できないと言っているのです。一度振った相手を欲しがるなんて……まだ、何か他の理由があるとおっしゃってくれた方が納得できます」
「きみがそう思うのは仕方がない。だが、マルガレーテと結婚している間も、きみのことが忘れられなかったし、駆け落ちしたと聞かされた時も、今振り返ればショックだった」

 淡々と告白されても、ちっとも受け入れられない。馬鹿にしているのだろうか。だがディートハルトの顔はどこまでも真剣だった。真面目で、嘘偽りなく自分の心情を吐露している。

 だからこそ、イレーネの神経を逆撫でした。

「わたしはあなたと再婚なんてしたくありません。あなたなら、いくらでも他の女性が相手をしてくれるでしょう。どうかその方と、新しい恋を始めなさって」
「他の女性では意味がないから、こうしてここまで足を運んでいる」

 上からの物言いにイレーネは厳しい眼差しを向けた。

「わたしが嫌だと申し上げているのです。再婚の話はお受けできません。どうかもうお帰り下さい」
「どうしたら受け入れてくれる」
「受け入れるつもりはありません。……わたしは一生、夫を愛していきたいのです」

 イレーネはテーブルの隅に視線を落とし、呟くようにそう言った。ディートハルトはそんな彼女を見ながら、初めて感情を露わにしたような――怒りと苛立ちを込めた声で言い返していた。

「そんなの、無理に決まっているだろう」

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