46 / 116
46、家の前
しおりを挟む
「あの、ありがとうございました」
イレーネはとりあえず、そう伝えた。他に何を言えばわからなかったから。ブルーノの後ろ姿を追っていたディートハルトの目がゆっくりとイレーネに向けられる。彼女は彼が返事をする前に口を開いた。
「あの、わたし子どもを迎えに行かないといけなくて、だから、これで失礼します。本当に、助けていただいてありがとうございました」
さようなら、と言って別れたかったが、ぎゅっと手首を掴まれた。
「あの、手を、」
「怪我を負っている。まずは手当をした方がいいんじゃないか」
確かにイレーネの掌は転んだ際の擦り傷ができていた。血が薄っすらと滲んで、ずきずき痛みも覚える。
「……そうですね。家へ帰って、そうします」
だから早くその手を放してほしい。これ以上自分を引き留めないでほしい。
「俺も、一緒に行こう」
ぱっとイレーネは顔を上げた。どうして、という表情に、ディートハルトは平然と答える。
「久しぶりにきみと会ったんだ。話がしたい」
「……本気で、おっしゃっているのですか」
この男はイレーネと父にした仕打ちを忘れたのだろうか。自分のことを散々抱いたくせに、王女が手に入ると、あっさり捨てた。別れの言葉すら、恨み言すら、一言謝ってくれることすら、彼はしなかった。
そんな男と、一体今さら何を話すというのだ。
「帰ってください。わたしはあなたと話したくなどありません」
「そうか。だが俺はきみに話がある」
「っ、わたしにはありません!」
イレーネは放してっ、と乱暴にディートハルトの手を払いのけた。彼は抵抗しなかった。それが恐ろしくもあり、イレーネは失礼しますと顔も見ずに言うと、走って逃げた。
ディートハルトは追いかけてこなかった。けれどイレーネはまるですぐそばに彼がいるような気がして、ブルーノの時よりずっと強い恐怖心に囚われながら家へ帰り、扉を閉めて鍵をかけるやいなや、力尽きたようにその場に座り込んでしまった。
(どうして……)
震える身体を己の腕で抱きしめる。
ディートハルトの考えていることがわからなかった。話というのも想像がつかない。
ただ、もう安穏と暮らせる日々は終わったのだとそう、漠然と感じた。
しばらく呆けたように座り込んでいたが、エミールのことを思い出してはっとした。外へ出るのは怖かったが、息子を迎えに行かないわけにはいかない。昨日は一人留守番させてしまったので、なおさらだ。
いや、イレーネの方がエミールに会いたいのかもしれない。あの小さな温もりを抱きしめて、勇気を得たいのだ。
我ながら情けない母親だと思っていると、突然どんどんと扉が叩かれ、びくっとした。
(だれ……?)
まさか、と思ったが、すぐに「おかあさーん。いるのー?」という今一番聞きたかった声だとわかりほっとした。
「いるわ。今すぐ開けるわね」
扉を開けると、エミールはどうして鍵を閉めていたのと尋ねてきた。
「ごめんね。ちょっと、うっかりして――」
エミールのすぐ後ろにいた人物が目に入り、イレーネは声にならない悲鳴を上げた。
「あ、この人がね、ぼくのこと迎えに来てくれたんだよ。お母さんに用事があるんだって」
つい先ほど彼から走って逃げてきたというのに……今はしゃがんで息子に微笑んでいる。
「エミール。連れてきてくれてありがとう」
「ううん。いいよ。おじさん、お母さんの知り合いなんでしょう?」
「ああ」
「ネリーおばさんも、そうなの? おじさんの顔を見て、すごくびっくりしてたけど」
「そうだな。俺はあまり話したことはなかったが、きっときみのお母さんと一緒にいたところを見たことがあったから驚いたんだろう」
「そうなんだ! あっ、じゃあ、昔のお母さんて」
「エミール」
イレーネはエミールを抱き寄せた。まるでディートハルトから守るように。
「お母さん?」
「……今日は、ネリーのところで夕飯を食べてきなさい」
「どうして?」
「お母さんはこれから、この方と大切な話をしなければならないから……ね?」
エミールはぼくも一緒にいたいと言ったが、いつになく真剣な母の表情に子どもながら何か事情を察したようだ。わかった、と拗ねた口調で頷いてくれた。
「でも、ちゃんと迎えに来てよね!」
「ええ、もちろんよ。……あ、そうだ。これ持っていきなさい」
店でもらったまかないの包みを渡す。ネリーたちと一緒に食べなさいと言うと、顔を輝かせ、だが困った顔で母を見上げた。
「お母さんのぶんは? ぼくたちがこれ食べちゃったら、どうするの?」
イレーネは微笑んで、大丈夫よと答えた。
「お母さんはもう、お店の方で食べてきたから……だから、みんな分けて食べなさい」
「そうなの? そっか。うん。わかった」
イレーネはネリーによろしく伝えるよう言うと、エミールを見送った。……きっと、ネリーも何も言わず預かってくれるだろう。今頃どういうことなのか、なぜディートハルトがここにいるのか、気を揉んでいる姿が目に浮かんだ。
「――店で働いているのか」
振り返り、イレーネはええと強張った顔で返事をした。
「それより、どういうことですか。勝手に息子の居場所を突き止めて……一体どうやって調べたのですか」
「外で遊んでいる子どもたちがいたから、きみの息子のことを尋ねた。そうしたら、今はネリーの家で遊んでいるよと教えてくれた。――この町は、本当に狭くて、情報が筒抜けなんだな」
今も、というようにディートハルトは通り過ぎる人々に目をやった。イレーネは本当はそうしたくなかったが、彼を家へと招き入れた。これ以上、余計な噂を立ててほしくなかったから。
イレーネはとりあえず、そう伝えた。他に何を言えばわからなかったから。ブルーノの後ろ姿を追っていたディートハルトの目がゆっくりとイレーネに向けられる。彼女は彼が返事をする前に口を開いた。
「あの、わたし子どもを迎えに行かないといけなくて、だから、これで失礼します。本当に、助けていただいてありがとうございました」
さようなら、と言って別れたかったが、ぎゅっと手首を掴まれた。
「あの、手を、」
「怪我を負っている。まずは手当をした方がいいんじゃないか」
確かにイレーネの掌は転んだ際の擦り傷ができていた。血が薄っすらと滲んで、ずきずき痛みも覚える。
「……そうですね。家へ帰って、そうします」
だから早くその手を放してほしい。これ以上自分を引き留めないでほしい。
「俺も、一緒に行こう」
ぱっとイレーネは顔を上げた。どうして、という表情に、ディートハルトは平然と答える。
「久しぶりにきみと会ったんだ。話がしたい」
「……本気で、おっしゃっているのですか」
この男はイレーネと父にした仕打ちを忘れたのだろうか。自分のことを散々抱いたくせに、王女が手に入ると、あっさり捨てた。別れの言葉すら、恨み言すら、一言謝ってくれることすら、彼はしなかった。
そんな男と、一体今さら何を話すというのだ。
「帰ってください。わたしはあなたと話したくなどありません」
「そうか。だが俺はきみに話がある」
「っ、わたしにはありません!」
イレーネは放してっ、と乱暴にディートハルトの手を払いのけた。彼は抵抗しなかった。それが恐ろしくもあり、イレーネは失礼しますと顔も見ずに言うと、走って逃げた。
ディートハルトは追いかけてこなかった。けれどイレーネはまるですぐそばに彼がいるような気がして、ブルーノの時よりずっと強い恐怖心に囚われながら家へ帰り、扉を閉めて鍵をかけるやいなや、力尽きたようにその場に座り込んでしまった。
(どうして……)
震える身体を己の腕で抱きしめる。
ディートハルトの考えていることがわからなかった。話というのも想像がつかない。
ただ、もう安穏と暮らせる日々は終わったのだとそう、漠然と感じた。
しばらく呆けたように座り込んでいたが、エミールのことを思い出してはっとした。外へ出るのは怖かったが、息子を迎えに行かないわけにはいかない。昨日は一人留守番させてしまったので、なおさらだ。
いや、イレーネの方がエミールに会いたいのかもしれない。あの小さな温もりを抱きしめて、勇気を得たいのだ。
我ながら情けない母親だと思っていると、突然どんどんと扉が叩かれ、びくっとした。
(だれ……?)
まさか、と思ったが、すぐに「おかあさーん。いるのー?」という今一番聞きたかった声だとわかりほっとした。
「いるわ。今すぐ開けるわね」
扉を開けると、エミールはどうして鍵を閉めていたのと尋ねてきた。
「ごめんね。ちょっと、うっかりして――」
エミールのすぐ後ろにいた人物が目に入り、イレーネは声にならない悲鳴を上げた。
「あ、この人がね、ぼくのこと迎えに来てくれたんだよ。お母さんに用事があるんだって」
つい先ほど彼から走って逃げてきたというのに……今はしゃがんで息子に微笑んでいる。
「エミール。連れてきてくれてありがとう」
「ううん。いいよ。おじさん、お母さんの知り合いなんでしょう?」
「ああ」
「ネリーおばさんも、そうなの? おじさんの顔を見て、すごくびっくりしてたけど」
「そうだな。俺はあまり話したことはなかったが、きっときみのお母さんと一緒にいたところを見たことがあったから驚いたんだろう」
「そうなんだ! あっ、じゃあ、昔のお母さんて」
「エミール」
イレーネはエミールを抱き寄せた。まるでディートハルトから守るように。
「お母さん?」
「……今日は、ネリーのところで夕飯を食べてきなさい」
「どうして?」
「お母さんはこれから、この方と大切な話をしなければならないから……ね?」
エミールはぼくも一緒にいたいと言ったが、いつになく真剣な母の表情に子どもながら何か事情を察したようだ。わかった、と拗ねた口調で頷いてくれた。
「でも、ちゃんと迎えに来てよね!」
「ええ、もちろんよ。……あ、そうだ。これ持っていきなさい」
店でもらったまかないの包みを渡す。ネリーたちと一緒に食べなさいと言うと、顔を輝かせ、だが困った顔で母を見上げた。
「お母さんのぶんは? ぼくたちがこれ食べちゃったら、どうするの?」
イレーネは微笑んで、大丈夫よと答えた。
「お母さんはもう、お店の方で食べてきたから……だから、みんな分けて食べなさい」
「そうなの? そっか。うん。わかった」
イレーネはネリーによろしく伝えるよう言うと、エミールを見送った。……きっと、ネリーも何も言わず預かってくれるだろう。今頃どういうことなのか、なぜディートハルトがここにいるのか、気を揉んでいる姿が目に浮かんだ。
「――店で働いているのか」
振り返り、イレーネはええと強張った顔で返事をした。
「それより、どういうことですか。勝手に息子の居場所を突き止めて……一体どうやって調べたのですか」
「外で遊んでいる子どもたちがいたから、きみの息子のことを尋ねた。そうしたら、今はネリーの家で遊んでいるよと教えてくれた。――この町は、本当に狭くて、情報が筒抜けなんだな」
今も、というようにディートハルトは通り過ぎる人々に目をやった。イレーネは本当はそうしたくなかったが、彼を家へと招き入れた。これ以上、余計な噂を立ててほしくなかったから。
231
お気に入りに追加
4,937
あなたにおすすめの小説
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

姉の婚約者であるはずの第一王子に「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」と言われました。
ふまさ
恋愛
「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」
ある日の休日。家族に疎まれ、蔑まれながら育ったマイラに、第一王子であり、姉の婚約者であるはずのヘイデンがそう告げた。その隣で、姉のパメラが偉そうにふんぞりかえる。
「ぞんぶんに感謝してよ、マイラ。あたしがヘイデン殿下に口添えしたんだから!」
一方的に条件を押し付けられ、望まぬまま、第一王子の婚約者となったマイラは、それでもつかの間の安らぎを手に入れ、歓喜する。
だって。
──これ以上の幸せがあるなんて、知らなかったから。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
婚約者を想うのをやめました
かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。
「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」
最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。
*書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。
不遇な王妃は国王の愛を望まない
ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。
※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷
※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲

幼馴染がそんなに良いなら、婚約解消いたしましょうか?
ルイス
恋愛
「アーチェ、君は明るいのは良いんだけれど、お淑やかさが足りないと思うんだ。貴族令嬢であれば、もっと気品を持ってだね。例えば、ニーナのような……」
「はあ……なるほどね」
伯爵令嬢のアーチェと伯爵令息のウォーレスは幼馴染であり婚約関係でもあった。
彼らにはもう一人、ニーナという幼馴染が居た。
アーチェはウォーレスが性格面でニーナと比べ過ぎることに辟易し、婚約解消を申し出る。
ウォーレスも納得し、婚約解消は無事に成立したはずだったが……。
ウォーレスはニーナのことを大切にしながらも、アーチェのことも忘れられないと言って来る始末だった……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる